アジア支部へ
汽車を降りた紗雫とミランダは、そのまま中国へ向けて移動していた。
あと1日足らずで彼らに合流することができる。
なのに、紗雫には妙な胸騒ぎがしていた。
――なんなんだ、この胸騒ぎは。
感じるそれを、ミランダに言うことは決してなかった。
なにしろかなり心配性な彼女だ、そんなことを言ったら慌てだすに決まってる。
「杞憂で済むといいんだが…」
「…? どうしたの、紗雫ちゃん?」
「いや、ロットーさんが心配するようなことじゃないから」
呟いたその声は、どうやらミランダへ届いていたらしい。
きょとんとそう聞いてくるミランダに、紗雫は思わず苦笑した。
「…あと一日で合流できると思う。このペースで…――」
「あ、あの、紗雫ちゃん…!」
「ん…? なんだ、ロットーさん?」
「その…ロットーってファミリーネームじゃなくて、ミランダでいいのよ…?」
いきなりそう言われ、紗雫は目を丸くさせた。
まさか、そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだ。
そんなに驚かれるとは思ってもみなかったのか、それともまたネガティブ思考に走ったのか。
ミランダはわたわたとすると、一気に涙目になっていった。
「ご、ごめんなさい…調子に乗ったわよね…! 私みたいな新人が…」
「違うんだ。その…年上の女性をファーストネームで呼ぶ機会がなかったから…つい」
困ったように頬を掻く紗雫。
それでも嫌がっているわけではないというのを感じ取ったのか、ミランダは溢れ出しそうな涙を拭った。
そんな彼女を見て、紗雫は薄らと微笑んだ。
「これからはミランダさんって呼ばせてもらう」
「さん付けなんて…! 呼び捨てでいいのに…」
「…じゃあ、ミランダで」
そう呼ぶ紗雫に、ミランダは満足げに微笑んだ。
それにつられるように、紗雫もまた微笑んで歩き出したのだった。
それからしばらく。
紗雫とミランダは無事中国へとたどり着いた。
着いた時間は夕方五時。
アレン達と合流するにはまだ少し距離があるため、二人は一先ず中国にあるアジア支部へと向かうこととなった。
「――すいませーん…」
アジア支部の前。
紗雫とミランダはそこに立っていた。
入口が見えず、二人はどこから入ったらいいのかわからず途方に暮れていた。
「…や、やっぱり、ここじゃないのかしら…?」
「いや、コムイによればここで合ってるはずなんだが…」
二人で顔を見合わせ、苦笑する。
すると、唐突に入口のようなものができた。
そのいきなりのことに、ミランダが思わず叫ぶ。
それに紗雫は苦笑し、その入り口を見据えた。
「…やあ、すまなかったね。エクソシストのお二人」
「貴方は…」
「アジア支部長、バグ・チャンだ。長旅御苦労だったな」
出てきた金髪の男性――バグは、そう言って笑った。
「ここの入り口は特殊でね。許可した者しか通すことができないんだ」
「そう、なんですか…」
バグの言葉に、紗雫はそう呟いた。
とは言え、とりあえず入ることができたのだ。
そこは安心するべきだろう。
バグについて、二人はアジア支部へと足を踏み入れた。
「…じゃあ、とりあえず今日はここでゆっくり休むといい。クロス部隊は今日、江戸に向けて動き出したそうだ」
「今日? じゃあ、私達は…」
「こちらで船を出す予定だ。君達はそれで…――」
「バグ様ー! 大変です!」
バタバタとした音の後、一人の男性が飛び込んできた。
その慌てように、バグも紗雫も驚いて男性の方を見る。
彼は慌ただしく開けた扉もそのままに、再び言葉を続けた。
「どうしたんだ、ウォン」
「本部のコムイ室長より連絡が…! 咎落ちが、中国の町で…!」
「なんだって!?」
「咎落ち…? なんですか、それは…」
男性――ウォンに告げられた言葉に、紗雫もミランダも首を傾げた。
聞いたことのないその単語に、バグは悲しそうに目を伏せる。
そして、語り始めた。
咎落ちとは、イノセンスの暴走現象のこと。
不適合者がイノセンスとシンクロしようとしたり、適合者がイノセンスの意志を裏切った場合に発生する現象のことだ。
昔、教団内で不適合者を無理矢理エクソシストにしようとする実験が行われ、幾度となくその咎落ちが発生した。
教団内でこのことを知っているのは一部の人間しかいないそうだ。
バグの告げた真実に、紗雫は愕然とした。
今は行われていない実験。
だとしたら、咎落ちになったのは、おそらく。
「…適合者が、イノセンスを…」
「ああ、おそらくは…」
そう言って、バグは紗雫に背を向けた。
紗雫は無意識に拳を握り、踵を返す。
そして、出口の扉に向けて歩き出した。
「紗雫…ちゃん…?」
「行ってくる。嫌な予感がするんだ」
そう告げた紗雫に、ミランダが目を見開く。
ミランダも慌ててあとについてこようとしたため、それを紗雫がやんわりと止めた。
「ミランダは、ここで待っていてほしい」
「えっ、でも…」
「大丈夫、私は死んだりしない」
「…っ」
「行ってくる」
心配そうに紗雫を見つめてくるミランダに、紗雫はそう言って微笑む。
恐らくミランダは納得していないが、今ここで彼女を連れていくわけにはいかない。
ここならば、ミランダが危険にさらされる心配はないだろう。
そう思い出ていこうとすると、椅子に座っていたバグが唐突に立ち上がった。
「君に何ができるというんだ?」
「わからない。だけど、私にできることはあるはず」
力強くそう言い切る紗雫に、バグはしばし黙る。
しかし、溜め息をつくと再び椅子へ座った。
「…門を開ける。ウォン、場所は?」
「ここから北東へ向かったところだそうです」
「…! ありがとう、バグさん、ウォンさん」
それだけ言って、紗雫は走り出す。
その後ろ姿を、ミランダは心配そうな眼差しで見送ったのだった。
咎落ち
(静かに、それでも確実に)
(死への時間は近づいていった)
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