挨拶をしましょう
紗雫が目覚めた翌日。
紗雫ととある人物が、机を挟んで向かい合っていた。
「…では、初めましての挨拶からですネ。我輩は千年伯爵、気軽に千年公とでもお呼び下さイ」
「……紗雫です」
そう、それは千年伯爵だった。
ティキから紗雫が目覚めたという話が伝わり、朝からこうして会いにきたらしい。
ちなみに、今紗雫がいるのは寝ていた部屋ではなく大部屋のようなところだ。
いろいろ突っ込みどころは満載だが、傷の癒えていない紗雫は下手に千年伯爵の勘に障ることは言いまいと、そこはスルーした。
正面に座る千年伯爵はニコニコと笑っており、紗雫はどうしたらいいものかと、後ろにいるティキへと視線を向けた。
しかし、ティキは苦笑をするだけで助け船を出してくれる様子はない。
紗雫は内心溜め息をつきつつも、千年伯爵へと視線を戻した。
「…一つ、聞きたいことがあるんですが」
「はい、何でしょウ?」
「なぜ、エクソシストである私が、ここ――ノアの住む家にいるのか、聞いてもいいですか?」
さっきの挨拶はともかく、紗雫の一番聞きたいことはそれだった。
自分はイノセンスを所持するエクソシストだ。
こうも簡単に、ノアの住む家へと入れてしまっていいものなのか。
それに、気になることは他にもある。
――アレンやリナリーたちは、無事方舟から出られたんだろうか…。
紗雫が最後に方舟で見たのは、意識が途切れる前のリナリーの泣き顔だった。
元々深手を負っていた紗雫が、千年伯爵から逃げることなんてもちろんできず。
二度もリナリーを泣かせてしまったことを、紗雫はとても後悔していた。
あの場にはクロス元帥もいたが、出口のない崩壊寸前の方舟から逃げることはできたのだろうか、と。
心配なことは多くあったが、ティキに聞いてもティキはわからないらしかった。
それでも、敵である千年伯爵にそこまで聞くような馬鹿ではない。
とりあえずはそれが一番気になっていたためそう問い掛ければ、千年伯爵はただ笑みを浮かべていた。
「…ロードからお話ししたと思いますが、紗雫、貴女にはノアになれる力がありまス」
「…それは聞きました」
「それはよかっタ。では、ここからが本題でス。――紗雫、ノアとしてこちらに来る気はありませんカ?」
ある意味予想通りの言葉に、紗雫はじっと千年伯爵を見つめた。
何を考えているのかさっぱりわからないその表情。
膝の上で握っている手が、緊張からか少し震えていた。
「…私に、拒否権は?」
「一応はありまス。…とは言え、ティキぽんが決めてしまったので、ないようなものですガ」
「…ティキぽん?」
「…千年公、その呼び方やめてくださいって何回言ったらいいんすか…」
聞き慣れないその呼び名に紗雫が首を傾げれば、溜め息混じりの声が後ろから飛んできた。
その言葉で一瞬で、紗雫は理解した。
千年伯爵のいうティキぽんがティキのことなのだと。
でも、紗雫はそれよりももう一つ気になることがあった。
「…決めたって、何を?」
千年伯爵は、ティキが決めたから拒否権がないと言った。
疑念の目をティキに向ければ、ティキはそんな紗雫を見て気まずそうに笑った。
「…俺さ、紗雫がノアになる手伝いしようと思ってな」
「…エクソシストなのに?」
そう、エクソシストである紗雫がノアになる理由はなかった。
それに、ティキが手伝いをする理由だってわからない。
そんなことをしても、ティキのメリットは少ないはずなのに。
「関係ねぇよ。言ったろ? 紗雫は、俺のお気に入りなんだって」
「…まあ、そういうことでス。紗雫、これからはここが貴女の家ですヨ」
そう言って、ティキは座る紗雫の後ろに来るとそっと紗雫の頭を撫でた。
紗雫は紗雫で、納得していない顔でティキを見上げる。
そんな二人を見て、千年伯爵は楽しそうにそう告げると、椅子から立ち上がった。
「さてと、じゃあティキぽん、紗雫をお部屋までエスコートしてあげてくださイ」
「はいはい。千年公の仰せのままに」
「紗雫、また近々お話ししましょウ」
扉の方に向かって歩いていく千年伯爵を、紗雫は無言で見送った。
千年伯爵がいなくなり、しばらく静寂が部屋を包む。
手を差し出すティキに、紗雫はティキの手を弾いた。
「…んで…」
「…紗雫?」
「なんで、私なんだ…!」
弾かれたことに驚いたティキが紗雫の名前を呼べば、紗雫はティキを睨んだ。
その目は、怒りと悲しみに満ちている。
千年伯爵がいなくなったからか、緊張の糸が切れたらしい紗雫の瞳には涙が溜まっていた。
ティキが初めて見る、紗雫の涙だった。
「…私は、エクソシストだ…。それ以外の、何者でもない…!」
悲痛にそう叫ぶ紗雫に、ティキは何も言えなかった。
否、言うべき言葉が見つからなかったのだ。
椅子から立ち上がった紗雫は、傷が痛むのも気にせずに扉の方へと歩いていく。
すぐに、ティキが紗雫の後を追った。
「待てって、紗雫…お前まだ怪我が…」
「…二人とも、なにしてんのぉ?」
紗雫が開けようとした扉は、紗雫の手で開けられることはなかった。
ちょうどタイミングよくロードが扉を開けて部屋に入ってきたのだ。
扉の前に立つ紗雫を見てロードは目を丸くするが、紗雫が泣いていることに気がつくと後ろに立つティキをじろりと見た。
「…ティッキー最低ー。紗雫泣かせるなんてさぁ」
「違うって、これは…」
「紗雫、僕の部屋でお菓子食べようよ。ティッキーなんて放っておいてさぁ」
乱暴に涙を拭う紗雫の服を引っ張るロード。
紗雫はちらりとティキを見ると、何も言わずにただ小さく頷いた。
それを見たロードは、「僕のとっておき、あげるねぇ」なんて言いながら、紗雫の手を引いて歩き出す。
その場には、唖然としたティキが取り残されていた。
それからしばらくして、紗雫はロードの部屋へと足を踏み入れていた。
ファンシーな作りの部屋は、人形に溢れている。
可愛げのあるそんな部屋に、紗雫は少し落ち着いたのか微笑みを浮かべた。
「…紗雫さぁ、言いたくないならいいんだけど…ティッキーと喧嘩でもしたのぉ?」
「…喧嘩じゃないんだ。ただ…なんでエクソシストの私が、ノアになんて…」
静かに問いかけるロードに、紗雫はさきほどの千年伯爵とのやり取りとティキの言葉を思い出した。
エクソシストであるのに、自分には拒否権がない。
拒否権をなくしてしまったのは、ティキが千年伯爵に何かを言ったから。
なぜ自分なのだろうかという憤りを、ティキにぶつけてしまったのだ。
少し落ち着いてから思えば、さっきの自分の言動は少し幼稚だったかもしれない。
そんな罪悪感を感じていれば、ロードは近くにあった椅子に座ると、笑いながら紗雫を見上げてきた。
「僕はさ、紗雫が家族になってくれたらすっごく嬉しいよ」
「…家、族…?」
「そ、家族。僕ね、紗雫みたいなお姉ちゃんが欲しかったんだぁ」
ロードの言葉に、紗雫は一瞬呆気に取られる。
でも、ロードの言葉に偽りがないことを感じ、ほんの少し考え込んだ。
「…ルル・ベルはさ、千年公についてお仕事してるしあんまり話とかもしないんだぁ。ジャズデロは相手してくんないし、ティッキーはあんなだし」
「あんなって…」
ロードのその言葉に、紗雫は少し苦笑を漏らした。
ロードの中のティキの立ち位置は、いったいどうなっているのだろうか。
聞き覚えのない名前がいくつか出てきたが、とりあえずは話を聞こうと思いロードの言葉に耳を傾けた。
「エクソシストの紗雫からしたら、僕達ノアの一族は敵で、千年公は倒すべき最後の敵。もちろん、僕達からしたらエクソシストも人間も、いなくなればいい存在なんだけどねぇ」
「…それなら、私も、」
「紗雫はね、違うんだぁ。傍にいると、すっごく落ち着く」
予想外の言葉に、紗雫は目を見開いた。
ロードの言葉からして、ロードは人間を始めとしてエクソシストなどノア以外の人類を嫌っている。
だとしたら、いくらノアの力があるからといってエクソシストの自分だって例外だというわけではないはずなのに。
「…それにね、紗雫が家族になって嬉しいのは僕だけじゃないよ。ジャズデビだってきっと喜んでくれるし、ルルだって、千年公だって」
もちろんティッキーもね、ロードはそう言って笑う。
どうして敵だったはずの自分にこんなにも温かい言葉をくれるのだろうと、紗雫はまた泣きそうになる。
今度は泣くまいと思い深く息をつけば、ロードは紗雫を見上げて微笑んでいた。
「…ねぇ、紗雫。ゆっくりでいいから、答えを出してほしいんだぁ。僕は強要とかしないからさ」
「…ありがとう、ロード」
「ふふ、どういたしまして。ほら、お菓子食べよー。紗雫はチョコ好き?」
ロードの言葉に、嬉しさからか笑みが零れる。
いつもの調子に戻って紗雫にお菓子を出してくるロードに、紗雫は心の中でもう一度感謝の言葉を述べたのだった。
家族になろう
(家族のいなかった紗雫には)
(その言葉は想像以上に嬉しいものだった)
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