願いはそう、シンプルだった
千年公から告げられた言葉が、俺には信じられなかった。
イノセンスが消えたら、紗雫も死ぬ…?
冗談はやめてくださいなんて、いつもみたいに言えなかった。
あんまりにも衝撃的過ぎたんだ。
でも、内心ちょっとだけ気づいてたのかもしれねぇ。
千年公に、紗雫のことを教えられてから。
俺達ノアの一族は、千年公と共にこの世の終焉に向けてハートを探してる。
イノセンスに生かされた存在。
ハートを壊せば、全部のイノセンスが消えてなくなるんだ――それが紗雫の死に繋がることなんて、少し考えたらわかることだったのに。
いつの間にか俺は、紗雫のことが大切だと思うが故にその事実から目を背けてた。
千年公とロードが部屋から出ていき、俺は一人椅子に座って紗雫を見つめていた。
布団から出ている腕と顔には、手当てされた跡が残ってる。
でも、俺が少年に斬られる前には、こんなもん一つもついてなかった。
ロードがやったのか、それとも。
「…ノアに呑まれた俺が、傷つけたのか…?」
青白い頬に、そっと触れる。
触れた手からほんの少し体温を感じて、俺はなんだか安心した。
問い掛けはもちろん、答えられることもない。
見えている部分はそこだけだが、もしかしたら他の場所も怪我を負っているかもしれない。
紗雫がこれだけ長く眠っているということは、どこかしら致命傷があったってことだ。
でも、今の俺にはそれを確認する勇気がなかった。
もし本当に致命傷とも言える傷があったとして、それを俺がつけたんだとしたら。
ちょっと、立ち直れないかもしれない。
頬に伸ばしていた手を引っ込める。
そして、自分の手を見つめた。
『ティキぽん、選択肢をあげまス。紗雫のノアの覚醒を手伝うか、エクソシストとしての紗雫を今ここで殺すカ』
部屋を出る前、千年公は俺にその選択肢を与えた。
決して避けることができない、俺の選択肢。
ノアに覚醒したとしても、紗雫はイノセンスがなくなればきっと死ぬ。
確証はないらしい、千年公曰く。
世界を越えた瞬間に、紗雫の肉体そのものが復活したとかっていう可能性もあるけど、そんな楽観はできない。
だったら、俺の手で紗雫を殺すか。
完全にノアとして覚醒していないのならば、千年公としては"怒"のメモリーの覚醒と転生が遅れたとしても、エクソシストではない誰かが覚醒した方が確実性があっていいらしい。
――俺が気に入ってるからなんて、酷な選択肢を押しつけられたもんだよな。
寝息すら聞こえないほど静かに眠る紗雫を見下ろす。
この世界を受け入れるのだと、方舟で彼女はそう言った。
だとしたら、ノアになっても世界を…俺達を受け入れてくれるのだろうか。
受け入れてほしいと言った方が、正確かもしんねぇけど。
紗雫はエクソシストだ。
そんなのは、ちゃんとわかってる。
でも、なんでだろうな…俺の心が、悲鳴をあげてる。
「紗雫…っ…なぁ、起きてくれよ…」
お前が死ぬなんて、考えたくもなかった。
でも、この手で殺すなんてこと、俺にはできない。
膝の上で握る拳の上に、温かい何かがぽつりと落ちる。
それが自分の涙だということに気がつくまで、数秒を要した。
「…俺には、できねぇよ…殺せるわけない…」
今まで、多くの命をこの手で奪ってきた。
それと同じことなのだ、できないわけじゃない。
だけど、俺にとって紗雫は大切なやつで、こんなにも愛しくて。
――…愛、しい…俺が…紗雫を…?
見つけたのは、シンプルな答えだった。
そうだったんだ、俺は紗雫が――…
「…好きだ、紗雫…」
好きなんだ、紗雫のことが。
エクソシストとしての紗雫も、初めて汽車で会ったあの少し寂しげな顔をした紗雫も、全部全部。
お気に入りだって思った時点で気付くべきだった。
『こらこら、エクソシストとノアの恋は実らねぇぞ』
『…ティッキーだって人の事言えないじゃんかぁ』
方舟で少年達と話していたときのロードとの会話を、ふと思い出す。
ロードは最初からわかってたんだ、俺が紗雫のことを好きだってことが。
自分より先に自分の想いに気づいてたっていうのはなんかむかつくけど、気づかなかった俺も俺だ。
「…紗雫…起きて、俺の名前を呼んでくれよ…」
流れる涙を拭いもせずに、俺はそう言って紗雫の髪をそっと撫でる。
そのときだった。
「……泣いて、るのか…?」
「…紗雫…」
紗雫の瞼が、ゆっくり開いた。
その紗雫の視線はすぐに俺へと向いて、紗雫はそうぽつりと呟く。
泣き顔を見られた恥ずかしさよりも、紗雫が起きてくれた嬉しさのが勝っていた。
俺は、気づいたら布団ごと紗雫を抱きしめてた。
「…傷、痛いから…」
「…悪ぃ…」
「…声が、聞こえたんだ…」
「声…?」
ぎゅっと抱き締めれば、紗雫が少し体を強張らせた。
でも、そんな紗雫に気を遣う余裕なんて、今の俺にはこれっぽっちもなくて。
ふと紗雫が呟いた言葉に、俺はやっと冷静になって抱きしめる力を少し弱めた。
「私に、助けを求める声が…私の名前を呼ぶ声が、聞こえた」
紗雫をそっとベッドへと戻せば、紗雫はそう言って微笑んだ。
あんまりにも綺麗に笑う紗雫に、俺は言葉を失った。
――聞こえてたんだな…俺の声…。
柄にもなく恥ずかしくなって、思わず顔を逸らす。
そんな俺を見て、紗雫は笑っていた。
「…笑うなよ…」
「すまない…珍しいと思ったんだ」
俺がそう言って紗雫に視線を戻せば、紗雫は俺の頬に手を伸ばしてきた。
伸びてきたその手は、俺の頬に伝う涙をそっと拭う。
少し冷たい手。
だけど、俺からしたらすごく温かかった。
「…紗雫」
「なんだ?」
「俺の名前、呼んでくんねぇ?」
頬に触れてる紗雫の手に、俺の手を重ねる。
そうしてそう呟けば、紗雫は少し目を見開いて俺を見てきた。
――なんかおかしいこと言ったか…?
向けられる視線があんまりにも痛い。
変なことをいったのだろうかと思いやっぱりいいと告げようとすれば、何を思ったのか紗雫はゆっくりと体を起こすと俺と目線を合わせてきた。
「…仮にも私達は、敵同士のはずだと思ったんだが?」
「…いいじゃねぇかよ、気にすんなって」
「………ティキ」
あっけらかんと笑えば、やがて紗雫は呟くように俺の名前を呼んでくれて。
幸福感に満ち溢れた俺は、もう一度紗雫を抱きしめるのだった。
数秒後、紗雫のパンチを食らうとは思いもしなかったけど。
俺は、この時決めた。
紗雫を殺せないんじゃない、紗雫が生きている間、俺が守ってやるんだと。
エクソシストとか立場とか、そんなもんは関係ない。
俺の愛するこの人と、死ぬ瞬間まで一緒にいるんだと。
絶対に、紗雫は死なせない。
俺の愛する人
(俺の選んだ選択肢)
(それは、紗雫と共に生きること)
[TOP]