蔵ノ介に恋をしたのは五年前。蔵ノ介と付き合い始めたのは三年前。蔵ノ介が、ほんの少し、僅かではあるけども素っ気なくなってきたのが半年前。蔵ノ介が知らない女と親しそうに歩き、某レストランに入っていくのを見かけたのが一週間前。衝動に負けて蔵ノ介の携帯を盗み見て、知らない女との何通ものメールを読んだのが三日前。
自分の部屋に置いてある水槽の中を自由に泳ぐ熱帯魚たちを恨めしい目で見ながら蔵ノ介のことを考える。半年前から浮かんでいた、彼は浮気しているんじゃないかという不安に似た疑惑は、三日前に、彼は浮気しているという絶望的な確信に変わった。大きな水槽に一週間前に見た光景を頭の中で映し出す。知らない女。一週間前の私は泣き叫びたいのをどうにか堪えて、必死にその女と蔵ノ介の恋愛関係以外の繋がりを考えた。ただの大学の友人かもしれない。或いは中学か高校の。姉や妹ってことも?あとは、あとは…。どんなに考えても、何故かどれも想像できなかった。可能性はあるはずなのに現実味を全く感じなかった。蔵ノ介は浮気している。恋人は私。だから、あの女は所詮浮気相手。遊び。そう思いたいのに、内心、蔵ノ介は私よりあの女の方が好きなんじゃないかと再び不安に襲われる。
水槽から目を離すと、今度はその横に立てられている写真立てが目に留まり、手に取った。この写真に写っている、幸せそうに笑う二人は一体誰なのだろう。もしかしたら蔵ノ介と私にそっくりな他人なのでは。そう思うくらい、昔の私たちと今の私たちに悪いギャップを感じる。

「蔵ノ介」

恋人であるはずの男の名前を呟くけれど、それはまるで何処か全く知らない国の言葉に聞こえた。いつの間に私たちはこんなに遠くなってしまったのだろう。私は蔵ノ介が好きなのに。蔵ノ介しかいないのに。なんであの女と会うの。あの女は大して美人というわけじゃない。メールのやり取りを見てると蔵ノ介に媚びを売っているような、下品で粗末な女だ。私の方が良い。あの女の何が私に勝っている?何も見つからない。なのに蔵ノ介はあの女に会う。きっと恋人のように手を繋いで恋人のようにキスをして恋人のように一緒に寝る。そう考えた瞬間、私の中の独占欲が、嫉妬心が、破裂しそうなくらい膨らむのがはっきりとわかった。写真立てを持つ手に力が入り震え出すのを見て、手を離す。
キッチンに行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り、ペットボトルに口づける。食道管を通っていく液体の荒々しさを感じる。何をやっているんだろう私は。何故こんなに、救いようのないくらい必死なのだろう。告白は蔵ノ介からだった。三年経った今だってあの時の彼の表情や声を思い出せる。蔵ノ介は確かに私に好きだと言った。すごく嬉しかった。世界で一番幸せだと思った。なのに、私は今、蔵ノ介をどうにか繋ぎ止めようと必死だ。もう一度あの写真の二人のようになりたくて必死なのだ。
ペットボトルに蓋をして冷蔵庫に投げ込むように雑に入れて、私は自分の部屋に戻り、クローゼットを両手で開く。明日は三日ぶりに蔵ノ介と会う。薄いブルーのワンピースを手に取った。ずっと前に蔵ノ介が似合うと言ってくれたワンピース。ハンガーに掛かったままのそれを抱きしめ、顔を埋める。蔵ノ介は私の、蔵ノ介は私の、蔵ノ介は…誰の?ワンピースを更に強く抱きしめた。私のだ。明日はあの女のことを聞こう。大丈夫、怒らない。怒らないから早くあの女を切って。大丈夫。蔵ノ介は私のところに戻ってきてくれる。また、このワンピースが似合うと言ってくれる。
明日の修羅を胸に抱きながらシングルベッドに飛び込み朝を待った。




二人でよく行くイタリア料理の店で、これから浮気の事情聴取が起こるなんて思えないくらい、穏やかな食事を取った。真っ赤なエビをフォークで刺し口に運ぶ。きっとついこないだまで広く青い海に生息していたエビの歯ごたえはどうも好きじゃない。そんなことどうでも良かった。蔵ノ介の話に頷くことしかできないほど私は緊張していた。これから彼に問いただす。彼の浮気を絶たせるのだ。彼は浮気をしている。それを認めざるを得なかった時点で、私は敗北した。彼がもし私のことをこの上なく愛してくれていたら浮気なんてしない。私のように。なのに彼は浮気した。私は惨めだ。フォークに突き刺さったエビとどちらが惨めだろう。どうでもいい。私が敗者であっても、あの女は勝者ではない。このフォークではない。
散々噛んだエビを飲み込み、正面にいる蔵ノ介に目をやる。相変わらず整った顔をしてグラスを口に運ぶ。どうしてこんなに素敵なんだろう。女が寄ってきても仕方ない。セロリとアボカド、どちらを食べようか一瞬迷ってセロリを口まで持っていった。



緊張とエビとの格闘であまり楽しめなかった食事を終えて蔵ノ介のマンションまで来た。蔵ノ介に続いて部屋に上がる。飾ってあった写真立てに私との写真が入っていて、自分が彼の恋人であることを久々に実感して嬉しくなる。もしこれがあの女との写真だったら私は死んだ方が良いと思った。私がソファに座ると、目の前のテーブルに蔵ノ介が携帯を置いた。メールの内容を思い出し、さっき食べたエビが胃の中で暴れ出しそうになったが食い止めた。

「紅茶でええよな?」

蔵ノ介のいつもの質問が、戦闘の合図。

「いい、要らない」
「ええの?」
「うん、あの、蔵ノ介」
「何や」
「蔵ノ介は浮気してる?」

ストレートすぎたかもしれない。蔵ノ介は案の定驚いた顔をして私を見る。その目が鋭くて静かで、怖い。質問したことをすぐに後悔した。そしてまたすぐに後悔したことを後悔する。私は何しにここに来たのか。蔵ノ介に白状させて浮気を許して、昔の二人に戻るためにここに来たのではないか。私は黙って蔵ノ介を見つめる。蔵ノ介は特に焦るような気配は見せない。

「ちょお待て、なんで?」
「蔵ノ介が知らない女とレストラン入ってくの見たの」
「……あー、それ大学の友達や。言うてなくてすまん」
「お友達と二人きりでご飯するんだ?」
「二人やないで?行く途中偶然会うただけでレストラン入ってから他のみんなとも合流したし。何や言い訳っぽいけどホンマに浮気ちゃうよ。そら誤解するよな、言うてなかった俺が悪い、ホンマにごめんな?」

嘘だ。蔵ノ介は本当に申し訳なさそうに眉を下げて、とんでもない嘘を吐く。そんな蔵ノ介に苛立ちを覚えるものの、どうにも嫌いにはなれない。怒りたいというよりは泣きたくなってしまう。テーブルの上に置いてある携帯を差し出せばきっと蔵ノ介も認める。勝手に携帯を見たことを知ったらモラルを疑われるだろうか嫌われるだろうか、いや、浮気している方がよっぽどモラルが低い。私はこんなことで怯まなくて良い。私は悪くない。でも蔵ノ介も悪くない。悪いのは全部あの女なんだから。黙り込んでそんなことを考えていた私の頭に大好きな蔵ノ介の手が触れ、驚いて蔵ノ介を見る。

「自分だけやで。信じて?」

私が怒っているようにでも見えたのか、蔵ノ介が念を押すように言う。酷い嘘。酷いけれど、心のどこか欠落していた部分に蔵ノ介の言葉がすんなりと入ってきた。だって蔵ノ介がこんなこと言ってくれたの久しぶりすぎて、まるで、あの頃みたい。寂しかった寂しかった寂しかったよ。半年前から寂しい気持ちがどんどん私を支配していった。熱帯魚を見るたび、写真立てを見るたび、あのレストランを見るたび、蔵ノ介から今日は会えないとメールが来るたび、あの女を恨んだ。過去の自分に縋った。とうとう泣き出した私を蔵ノ介が優しく撫でる。ごめんな。何回も聴こえてくる。
ああ、蔵ノ介の携帯を開けば決定的な証拠があるのに。私はその携帯まで手を伸ばせない。どうしてもこれ以上蔵ノ介を責めることができない。怖かった。これ以上私が面倒な女になったら、蔵ノ介はあの女ではなくて私を捨てるかもしれない。それが怖くて何も言えない。蔵ノ介の嘘を真実だと思い込まなければならなかった。蔵ノ介が某レストランに一緒に入った女は大学の友人の一人でしかない。私は蔵ノ介とあの女のメールのやり取りなんて見てない。

「…本当?」
「もちろんや」
「信じるよ。でもあんまり女の子と遊ばないでほしい、かも」
「気ィつけるわ」
「重くてごめん」
「かわええよ」



自分の家に帰りベッドにバッグを投げ捨てて、その場に膝をついて再び泣く。さっきよりずっと大きく、子供みたいに泣く。なんで私は謝ったのだろう。なんて私は馬鹿なのだろう。時計の針はニ十三時を指していた。今蔵ノ介はあの女に会っているかもしれないのに。あの女を抱いているかもしれないのに。私は蔵ノ介に何も言えない。蔵ノ介はこのワンピースに気付いてくれただろうか。蔵ノ介が似合うと言ってくれた日から宝物になったワンピースに涙が落ちて染みをつくる。最低な男と馬鹿な私。いつまで私たちは恋人でいられるのだろう。考えたくもない。蔵ノ介は水槽だ。だけど彼の中を泳ぐ魚は私だけじゃない。私とあの女、どちらが先に白い腹を上に向けて水面に浮かぶのだろう。頭が痛い。きっと泣きすぎたせい。明日、時間があったらホームセンターに行こう。大きい水槽を壊せるような鈍器を買おう。



20110727