右の脇腹あたりに振動を感じ、運転していた車をエンジンだけかけたまま小脇に停めた。ジャケットのポケットから携帯を取り出すと、画面には職場の後輩の名前が表示されていた。「音量下げて」と簡潔に指図にすれば、助手席に座る男は返事もせず、ずっとつけていたラジオ、FMアカツカの音量を下げる。どうか仕事でトラブルが起こった連絡ではないことを祈りながら通話ボタンを押した。
 後輩の明るい声が聞こえ、一瞬で緊張感は失せ、そのまま気を緩ませて話を聞いていた。「おめでとうございます」「先輩本当にすごい」「尊敬しちゃいます」「でも寂しいな」「私も頑張らないと」そんな言葉が一気に、花吹雪のように私に降ってくる。一つ一つに「ありがとう」と返し「私も寂しいよ」「任せたからね」「あんたは私と違って愛嬌あるから大丈夫」と可愛い後輩を想った言葉を並べた。窓がスライドして開く音がして、通話をしながら助手席を見る。おそ松が煙草を吸っていた。煙が外に出るように窓側を向いているため、表情が見えない。後輩の興奮気味の声が遠のく。その背中から彼の気持ちを読み取ろうとするけれど、楽しんでいるのか悲しんでいるのか、どうでもいいのか、何もわからない。一つだけわかっているのは、今日彼が私に何も言わなければ、私たちにもう明日は来ないということだ。
 「ちょっと先輩聞いてます?」後輩の声色が変わり、通話中だということを思い出した。視線をおそ松から外し、フロントガラスの向こうに広がる町並みを見ながら返事をする。またいくつか言葉を交わして電話を切った。おそ松が車内に備え付けられた灰皿で煙草を消しているのが目に入ったので、私はレバーを動かし、ハンドルを握って再び車を走らせる。

「電話、後輩からだった」

 聞かれてもいないけれど今は沈黙を避けたいと思い、自分から話題を出した。おそ松は大して興味もなさそうに少しだけ顔をこちらへ向けた。

「へえ、なんだって?」
「私がいなくなったら寂しいって。かわいいよね」
「裏ではババアが消えてラッキーって言われてるやつだよ、それ」

 鼻で笑うようにおそ松が言う。「失礼ね」と口を尖らせていたら、心地よい、懐かしいメロディーが耳を撫でた。おそ松がラジオの音量を上げたのだった。昔の有名な曲。絶対に聴いたことがある曲。誰の何という曲だったか思い出せなくてむず痒い。もうすぐサビが来る。

「あ、美空ひばり」

 案の定サビで思い出した。ラジオから流れるリクエストソングは美空ひばりの『川の流れのように』だった。中学生の時に音楽の授業で習った曲だ。穏やかで、広大で、包容力があるという印象を受ける。

「いや〜、やっぱ美空ひばりはいいねぇ。日々の忙しさを忘れられるよ」
「…おそ松が忙しかったことなんてある?」
「はぁ?俺も色々あるんだよ。パチンコしたり、競馬したり、エロビデオ観たり」
「はいはい」

 おそ松が言っても何の説得力もないけれど、確かに、日々の慌ただしさから少しは解放されるような気分になる。最近は特にやることがたくさんあった。ハンドルを握る手を見れば、親指のネイルがだらしなく剥げている。一週間くらいこのままの状態で放置していた。この後ネットで予約しよう。ついでに髪も切りたい。それから靴がほしい。穏やかな気持ちになった瞬間、自分からこんなにも欲求が吐き出されるのに驚いた。いつも目の前のやるべき仕事に押しつぶされていた欲求だ。

「ラスベガスだっけ?」

 曲が終わる頃、おそ松が呟くように問いかけた。どんな意図を持って発せられた言葉なのか、必要以上に思考を巡らせ、顔がこわばっていくのを感じた。襲い来る憂鬱を振り払うように声を出す。

「違う。ロサンゼルス」
「一緒じゃないの?」
「全然違うから」
「なんだよ、ラスベガスだったら俺も行ってカジノで儲けまくったのにな〜」

 そんな気ないくせに。何の反応もせずに車を運転する。走り慣れた道。見慣れた町。東京都赤塚区。おそ松の家がある町だ。もう来ることはないかもしれないけれど。何の変哲もない日本の町並みが、次第に華やかな異国の街並みに変わっていく。空飛ぶバルーンに、転がるオレンジ。陽気な音楽が日曜日の恋人たちを包む。海外ドラマでしか見たことのない光景だ。運転しているうちにいつのまにか私の頭は海を渡っていた。
 ロサンゼルス支社への栄転が決まったのは二ヶ月前のことだった。ニコニコした顔の課長に呼び出されて聞かされた。散々功績を褒められた後に「行ってくれるかい?」と投げかけられた。私は「喜んで」と即答した。純粋に自分の力が認められたのが嬉しかった。女性社員は転勤を嫌う人が多いらしいけれど、そんなの自分勝手だと私は思う。必要とされるのであればどこにでも行く。社会人はそういうものだと思っているし、そうしてきたから同期よりも高い成績を残し出世することができたのだと自負していた。ただ、課長との話を終えてデスクに戻り、コーヒーを一杯飲んで冷静さを取り戻したら、恋人の顔が頭に浮かんだ。へらへらとした、どうしようもないおそ松の顔が。
 ただしそれは、私が日本に残らなければいけないという要因にはなり得なかった。ロサンゼルスに行くのをやめておそ松がいる日本に居る、なんて選択肢は自分の中には見出せなかったのだ。仕方のないことだと考えた。仕方がなくても寂しいと思ったし、恋人に対してまるで執着がないという罪悪感はあったし、迷わせてもくれないおそ松を罵倒したい気持ちもあった。本当は迷いたかった。悩みたかった。ロサンゼルスへの転勤を恋の障害だと思いたかったのだ。天秤にかけもせずに、もうおそ松とは離れ離れになるんだなとすぐに考えた自分が、この恋には何の意味もなかったと訴えているような気がして虚しくなった。

「昨日銭湯が休みでさぁ」

 唐突におそ松が新たな話題を出した。彼はいつも銭湯を利用している。六人兄弟だと、自宅の風呂では水道代と光熱費がかさむし、順番を決めるのが面倒くさいからだと、いつか彼が言っていた気がする。同じ顔した成人男性が六人で仲良く銭湯へ通う姿を想像したら、なんだかコミカルでかわいかった。

「久しぶりに家の風呂入ったのね」
「うん」
「そしたら先に入ったカラ松のやつが浴槽一面にバラの花弁浮かべてたんだよ」
「ふふ、カラ松くんらしいね」
「狭ぁいタイルの風呂に真っ赤なバラだよ?どう思う?」
「…へんてこ」
「そう、すげー違和感」

 他愛のない話なのに、おそ松のその言葉には妙に重みがあるように感じた。ハンドルを回し、交差点を左折すると、彼の楽しい楽しい実家が並ぶ通りに出た。私は、おそ松がもう何も言わないことを祈り、そして何か言ってくれることをわずかに望みながら、真っ直ぐ車を走らせた。前者の祈りが届いたようでおそ松はずっと黙っていた。
 彼の家が見えて少しスピードを落とす。いつものように家の目の前に停まった。おそ松は俯いたまま、なかなかドアを開けようとしない。私は気まずさを感じながら、何とか声をかけようと思った瞬間に、おそ松は顔を上げた。そして低い声で呟いた。

「きっとさ、同じなんだよ」
「え?」
「バリバリキャリアウーマンのお前が最強ニートの俺と一緒にいるのは、違和感がある。すっげー違和感。笑えるくらい」
「……」
「だからこれでよかったってこと」

 私に顔を向けてへらっと笑うおそ松。そしてすぐにシートベルトを外し、ドアを開けて車から降りてしまった。「じゃあな」たったそれだけ言って簡単にドアをバタンと閉める。そして私が車を動かす前にそそくさと玄関に吸い込まれていくのを、ただ見ていた。
 悲しみが襲ってきたのはその二秒後だ。ハンドルを握る手が震える。おそ松の言葉を反芻する。したくなくても、してしまう。あれは私を気遣った台詞だ。罪悪感を抱いている私の背中を押すような、そんな役割を持つものとして放たれたはずだ。なのにそれは、どうしようもないくらい、最後の最後で私の足にまとわりつく。おそ松はずるい。今まで散々自分勝手に人を振り回してきたくせに、最後だけ優しいふりをするなんて。違う。そんな言葉なら聞きたくなかった。私はただ「行くな」って、その一言を、本当は、心の奥底では欲していたのだ。おそ松に引き止められたら、課長に土下座して転勤を取り消しにするくらいの覚悟は持っていた。困りながらそうしたかった。だって私は、おそ松が好きだった。馬鹿みたいに、それだけだったのに。
 おそ松がいなくなった車の中で、私は泣いた。ガソリンは満タンなのに、ラジオスターも張り切っているのに、もうどこにも行けないんだと思った。


いつまでたっても信号は赤
20160814