静まり返った部屋に二つ分、本のページを捲る音だけが不規則に聴こえる。広く落ち着いた部屋で、私と真太郎くんは、ただ床に座って、別々の小説を貪っていた。
 部活のない放課後に制服を着たまま、真太郎くんの家まで来た。彼の家は大きい。お屋敷とまではいかないけれど、それなりの稼ぎがなければ住めなさそうな高級感溢れる一軒家だ。真太郎くんの部屋も当然広くて、まず目につく黒く光るアップライトピアノや、難しそうな本ばかりが収まる本棚、誇らしげに額に飾られているいくつもの賞状が、彼の人と成りを表しているように見えた。こんなにも高貴なのに、無造作に置かれた今までのラッキーアイテムが不釣り合いでかわいくて笑ってしまう。これも彼なのだ。私はこの部屋を愛しているし、この部屋で二人黙って読書するだけの放課後も、何だか洒落ていて好きだった。
 最後の一ページを捲ると、物語は終焉を迎えた。読んでいたのは真太郎くんから借りたツルゲーネフの『はつ恋』だ。彼はたくさん本を読むけれど、その中でもロシア文学を好いていた。ロシア文学はキリスト教の思想がその時代の社会や政治に与えた影響を上手く表している作品が多く、そこが読んでいて興味深いらしい。私も真太郎くんとロシア文学の話がしたいと思い、本を貸して欲しいと口にしたのだ。そうしたら、短く読みやすい、この本を渡された。本当にすぐに読めてしまった。まだまだ初心者の私には、芸術的だったという感想しか持てないけれど、主人公を振り回す年上のヒロインは、真太郎くんが好きそうな女の人だと思った。
 文庫本を閉じ、床に置く。真太郎くんに目をやれば、まだ本を読んでいた。トルストイの『戦争と平和』。有名な作品だ。私は黙ってその様子を見ていた。伏し目がちにしているため、まつ毛の長さがよく目立つ。息が詰まるほど、綺麗だ。ふと、真太郎くんが顔を上げた。熱烈に文字を追っていたはずの視線が私に向けられる。その事実だけで私は一瞬で優越感を覚えた。

「読み終わったのか」
「うん。ありがとう」
「どうだったか?」
「真太郎くんがこの本を読むのを想像したら、何だか素敵だなって思った」
「本の感想になってないのだよ」

 呆れ声を聞いて、私は言い訳するように笑う。面白かった。本当にそう思っている。だけど私は真太郎くんと違って、不純な動機からこの本を手に取ったから、感想なんてまともに言えやしない。内容以上に彼と本の関係性を想像してしまう。いつだって真太郎くんを構成しているものに触れたいという欲求が、私の一つ一つの行動を起こさせる。

「ねえピアノ、触っていい?」
「…構わんが」

 私は立ち上がってピアノの元へ歩み寄り椅子に座って、鍵盤蓋をゆっくりと開けた。鍵盤の白と黒が無邪気に光っていて、撫でてみたくなる。適当に鍵盤に指を落とすと、躊躇いがちに、けれど芯のある音が響いた。ド。ピアノなんて弾いた経験がないから、私は当てずっぽうに指を動かす。でたらめなメロディが生まれる。しばらく演奏とも言えない遊戯を楽しんでいたら、読書が一区切りついたらしい真太郎くんが私の隣まで来て立ったままピアノに触れた。瞬く間に心地の良い旋律が流れる。左手だけで簡単に、私には一生弾けないような曲を、彼は弾いてしまう。

「すごい。私も弾いてみたいな」
「まず手の置き方が違うのだよ。右手はこうだ」

 真太郎くんが私の右手を握って動かす。私は何も抵抗せずに従う。指の一本一本が丁寧に、決められた位置に置かれていく。熱を帯びていくのを感じた。

「細いな」

 低く響いたそれは独り言のようだった。真太郎くんの顔を見ると、面白いおもちゃを見つけたような表情をしていた。彼の手が私の手を執拗に撫でる。鍵盤の上で指と指が絡み合う。私はたまらない心持ちになった。気持ち良くていじらしくて、もっと触ってほしくて、どうしようもなくなった。もうどんな旋律もそこには生まれなかった。何かを奏でる気なんて真太郎くんにも私にも、無くなってしまった。無音の中に自分の心臓の音だけがうるさかった。

「真太郎くん」

 私は椅子から立ち上がり、真太郎くんと向かい合う。少しの間見つめ合うと、お互い納得したようにキスをした。
 キスが終わると真太郎くんに手を引かれ、私は大きなベッドに沈んだ。大好きなこの部屋に溶けてしまうような気分になる。真太郎くんは私を組み敷くようにしてまたキスをして、そして私のセーラー服のスカーフを解いた。私は彼の髪に手を伸ばしながらその顔をじっと見ていた。いつ見ても端正な顔から余裕の色が消えているのが分かる。
 ーーこれが恋なのだ。
 ふと『はつ恋』の一節が頭をよぎる。たとえば、真太郎くんが私の腕に鞭を当てたら、私はヒロインのジナイーダがそうだったように、耐えられるような気がした。それでも好きでいるような気がした。だってこれは、恋なのだ。今そう強く思った。

「どうした?」

 訝しげながら、どこか警戒の剥がれた甘い声が降ってくる。私は変な空想をやめて、真太郎くんを見つめた。今の真太郎くんは情熱的で物欲しそうな顔をしている。男の子、そう思った。

「真太郎くん、男の子の顔してる」
「何を言っている。俺は元から男の子なのだよ」

 私の言葉に釣られて「男の子」だなんて、可愛らしい単語を発した彼が、なんだか可笑しくて思わず頬を緩めた。

「…何がおかしい」
「ううん、何もおかしくない。そうだね、真太郎くんは男の子だもんね」

 真太郎くんはまだ不満があるような表情だけれども、言及するのを止めて、今度は脇の部分のファスナーに手をかけた。綺麗な手にゆっくりゆっくりと私は暴かれていく。
 そうだ、真太郎くんは男の子で、私は女の子なのだ。だからこういうことをしたくなるのは当たり前のことだ。私は真太郎くんとの高尚な付き合いが好きで、他の高校生がしないような、部屋で読書をしたりピアノを弾いたりするような時間に自惚れていた。それでも結局はこうなることを、この部屋に入った瞬間から期待していた気がする。なんてはしたないんだろう。仕方のないことだと分かっているのに、健全な子供の象徴であるこの制服が、背徳感をよりいっそう強くさせる。
 こんなことを考えなくて良いくらい、早く激しく、真太郎くんの世界の一部になってしまいたい。そう願いながら、私は目を閉じた。彼の指先が辿るすべての皮膚が疼くのを感じていた。


秘密結社でおやすみ
20160629