パチッ…パチッ…と調子の悪そうな音がする。瞼の向こうが明るくなる気配に誘われ、ゆっくりと目を開けた。二重のドーナツ、むき出しになった丸型蛍光灯が白く光っていて眩しい。取り込んだ洗濯物で散らかった部屋の真ん中で私は仰向けに寝ていた。涙が渇いて下まつ毛が固まっているようだ。 両手で何かを握っている感触があることに気づく。洗濯したセーターだ。なんで泣いていたかを思い出して、目覚めなければよかったと後悔をした。私に近づく足音が止まると同時に、男の影が私の顔に落ちた。立ったまま下を向いたカラ松と目が合う。

「…おかえり」

 掠れた声は、自分ではない誰かの口から漏れたような気がした。カラ松は眉を歪める。

「うたた寝するならブランケットくらいかけなきゃダメだろ?風邪引くぜ」

 散らかった部屋については何も言わずに、ただ私の体を気遣う言葉だけが降ってきた。ちょっと格好つけているけれど、確かな温もりを持った優しい声だ。カラ松はいつもそうだ。私はぎゅうっとセーターを握る。渇いたはずの涙が再び音もなく溢れ出てきて、視界はぼやけた。ぼやけていてもカラ松の顔に焦燥が浮かんでいるのがわかる。

「ど、どうした?!何か悲しいことでもあったのか?!」
「カラ松」
「何だい、ハニー」
「カラ松のセーター、お気に入りのやつ、縮んじゃった」
「え?」
「もう着れない、大事にしてたのに、ごめんね」

 涙が一筋、寝ているから横に流れて耳を冷やす。悲しいわけじゃなくて、悔しいわけでもなくて、一番近い感情は情けなさなのかもしれない。自分に対する情けなさと、カラ松の優しさを怖く思う気持ちが涙をもたらす。
 私が握っているのは、洗濯の仕方を間違えて、元ある柔らかさを失った、小さいセーターだ。カラ松が昨日着ていたものだ。

「なんだそんなことか、構わないさ」

 カラ松は笑う。本当に気にしていなさそうに、私を安心させるように、目を細めて笑う。予想していた通りの反応だ。だから私は怖くなる。
 昨日、カラ松は焦げたハンバーグを食べた。一昨日は湯加減を間違えた熱湯のお風呂に浸かった。全部ぜんぶ私が与えた不幸だ。それでもカラ松は、必ずこの部屋に帰ってきた。帰ってきて、電気を点けた。決して私を責めなかった。少しも怒らなかった。

「もうだめだよ、きっとだめなんだよ」

 諦めを声にして吐く。だって、本当に、全部だめだめなんだ。カラ松とこの部屋で暮らすようになってから私は毎日失敗をしている。わかってる。こんなの、ただ自分に家事の経験がないからだ。慣れればきっと失敗も無くなる。わかってる。でも、まるで呪われているみたいに感じるんだ。私じゃカラ松を幸せにできないって、カラ松と一緒にいるべきじゃないって、非難されているような気持ちになる。もう一人の、私から乖離した自分に。
 悲観を起こし、だらだらと涙を流していると、カラ松の顔が近づいた。膝をついて座り込む体勢になったようだ。そのまま視界は完全に暗くなり、目を閉じる。瞼が熱く湿った。キスをされたのだ。

「お前がいてくれればそれでいいんだ。泣き止んでくれ、マイエンジェル」

 天使なんかじゃない。私は死神だ。きっとあなたを不幸にする死神なんだ。それなのに。
 そのままカラ松は私の頬を撫でた。ごつごつとした大きな手が私の罪を許していく。この人の優しさは私を甘やかして甘やかして甘やかすから、怖い。私はこんなにもカラ松に害を与えているのに、怒らないから、いつか爆発するんじゃないかって、そんな不安に駆られる。いつか私に呆れたカラ松が、この部屋から出て行ってもう二度と帰ってこないような、そんな妄想ばかりをする。優しさなんて、ふうっと吹けば消えるろうそくの火みたいに、脆いから。私は優しくする価値もない人間だから。カラ松がいつかそれに気づくのが、こんなにも怖い。

「そうだ、牛丼を買ってきたんだ。お腹空いただろ?夕飯にしよう」

 カラ松はキザな笑顔を決めて立ち上がり、離れていった。
 彼の優しさがいつか消えるものだとしたら、その優しさに依存している私はどうしたらいいんだろう。考えても考えても救いのある答えを導き出せない。ずっと握っていたセーターを上に掲げて見上げた。昨日までカラ松の宝物だったそれは、明日のゴミだ。簡単にゴミになってしまった。私だって、きっとそうだ。
 いつかカラ松のセーターをちゃんと洗える日が来るのだろうか。おいしいハンバーグを作って、ちょうどいい湯加減のお風呂に一緒に浸かる。そんな日が来るのかな。その前にカラ松はこの部屋を出て行くんじゃないか。もう帰って来ないんじゃないか。二度と電気を点けてくれないんじゃないか。そうして暗く狭い部屋に転がる私の死体は誰にも気づかれることなく腐っていく。
 正しくて最悪な未来を想像していたら、美味しそうな牛丼の匂いが鼻をくすぐって、彼がまだここにいることを思い出した。


角部屋の罪と罰
20160131