「おそ松」

 聴き慣れない、か細い声に名前を呼ばれて、おそ松は顔を上げた。女がいた。帰る家は、目の前である。その女は、自分の家の前で、まるで自分が帰るのを待ち伏せしていたかのように立っていた。おそ松は女をよく見た。午後十時の暗闇に溶け込むような黒いロングコートと、頬の白さのコントラストが気味悪い。ただでさえ今日はパチンコで大負けして傷心だというのに、また何か面倒なことに巻き込まれる予感がして、気分は急降下した。厄日だろうか。もう家は目の前なのに。家に上がってしまえば、後は憂さ晴らしに弟たちにちょっかいを出すだけだと思っていたのに。おそ松は怨念を込めて女の顔を睨んだ。まあまあ可愛い。そんな感想を抱きながら見ているうちに、既視感が湧いてきた。

「…柑奈?」
「久しぶり」

 薄く微笑んだ彼女の目尻に、確かな懐かしさを覚える。その懐かしさは、おそ松をやはり不愉快にさせるものだった。
 柑奈は、おそ松や他の兄弟と同じ高校の同級生だった。おそ松とは三年間クラスが一緒。新年度に上がるたびにお互い納得のいかない表情で「げっ」と指差し悪態をついた。悪さばかりするおそ松にいつも呆れた表情で「ほんと馬鹿。あんた将来働けるの?」と罵倒していた。…実際その将来である今、働いていない自分がいるから、おそ松は何とも言えない心持ちになる。男子高校生のおそ松は、そんなクソウザい柑奈に対して、好意を抱いていた。当時何度もオカズにしたことを、おそ松は大人になった彼女に心の中で謝罪した。今の自分にはくだらないと思えてしまうような、かわいい恋をしていたのである。そしてそれは成就しなかった。高校卒業間際に柑奈に恋人ができたからだ。相手は知らないが、柑奈はゾッコンだった。そいつに死ぬほど惚れていた。恋人ができたと報告する彼女は、今まで見たこともないような表情をしていた。おそ松が初めて敗北というものを飲み込まされた瞬間だった。
 目の前の女が高校時代の幼い恋の相手だと把握するのに時間がかかったのは、彼女の雰囲気が変わったからだろう。高校時代の柑奈は明るく凛としていて勝ち気な女子だった。おそ松と口喧嘩して負けることはなかった。今目の前にいる女は、どこか不健康な、ゆらゆらと揺れているような、儚い雰囲気を持っていた。少し痩せたかもしれない。

「なんで柑奈が俺んちの前にいるの?」

 おそ松は率直に疑問を口にした。だって、おかしい。高校を卒業してから一度も会ったことのない同級生が、何の関係性もなくなってしまった自分の家に来るなんて。
 訝しげな気持ちで彼女の瞳を見る。あんなに恋焦がれた相手との再会だというのに、いつかの恋心は熱を失ったままだった。

「おそ松に頼みがあってさ」
「頼み?」
「今から一緒に行ってほしい」
「どこに?」
「裏山、あの学校の」
「はぁ?嫌だよ。もう十時だよ?俺帰りてぇもん」

 おそ松が不平を吐くと、柑奈は勢いよく頭を下げた。

「…お願い!一緒に来てほしいの!今日一度だけでいいから!もう金輪際あなたの前に現れないって約束するから!」

 叫ぶような懇願におそ松は面食らった。参ったな、と口に出したいのを堪える。めんどくさくてめんどくさくて仕方ない。おそ松は面倒事を嫌う男だ。同時に、面倒事に好かれてしまう男でもあった。

「…わかった」

 柑奈はバッと頭を上げ、期待に満ちた目で「本当に?」と聞いた。自分でそう仕向けたくせに白々しい。おそ松は苛立ちを募らせながら、しぶしぶ頷いた。どうやら今日は厄日らしい。

「ありがとう」

 感謝の言葉に添えられた笑顔は昔見たそれと何も変わらなくて、思わずおそ松は目を逸らした。「それじゃあ、行こう」そう言って柑奈が歩き出すとガラガラッという音が足元から聞こえた。おそ松は彼女から逸らした目をそっちに向けると、大きな黒いキャリーケースを見つけた。大きいのに、キャスターが砂利を巻き込んで音を出すまで、その存在に気づかなかったのである。

「何そのキャリー。旅行でも行ったの?」
「うーん、ちょっとね」

 答えになってはいなかったけれど、自分が何か答えを求めていたわけでもない気がしたので、おそ松はそれ以上言及しなかった。
 ガラガラと煩いキャリーとともに、二人は裏山まで向かった。しばらく無言で歩いていたが、ふいに柑奈は沈黙を破り、「高校卒業してから、どうしてたの?」と尋ねた。最悪な質問だ、とおそ松は思った。どうもしていないのだ。あの日、失恋をして人生初の負けを味わってから、敗北の道に進むばかりだった。おそ松は一通りのことを話した。自分を含めた六つ子全員が親の脛をかじって暮らしていること、今日もパチンコで大負けした帰りだということ、未だ童貞を守り抜いているということ。柑奈はおそ松の話を聞きながら何度も吹き出して笑う。その度におそ松はこのクソババアと罵りたい気持ちになった。そんな気持ちになる程度には、あの頃の二人に戻っていた。乗り気じゃなかったおそ松も、楽しくなっていた。おそ松の話が尽きることはなかった。
 そうこうしているうちに高校の裏山の入り口まで来ていた。小さな山だ。夜空に飲み込まれて不気味に佇んでいる。女に一人で来させなくて良かったと、おそ松は安堵した。

「登ろう」
「うん。あ、キャリー邪魔じゃない?俺持ってあげてもいいけど」
「バカおそ松の力は借りません」
「何だよそれ〜」

 木々が無造作に生い茂る林の中に入ると、細い木の幹を横にして土に埋め込んだような、いかにも頼りなさそうな階段が続いている。二人はそれを一段一段慎重に登った。キャリーを持ち上げて進む柑奈の背中におそ松がついていくようにして山を登る。真っ黒なその後ろ姿を見失わないように懸命に登った。

「さっきから俺の話ばっかしてたけどさ、柑奈の話は?」
「えー、私の話なんかおそ松に比べたらつまんないよ」
「ほら、卒業前に彼氏できてたじゃん?あいつとはまだ続いてるの?」

 柑奈の足が止まった。おそ松との距離がぐっと狭まる。おそ松は少し考えて、焦燥した。地雷を踏んだかもしれない。しかし彼女はまたすぐに足を動かした。おそ松もそれに続く。

「捨てられちゃった」
「…え?」
「別れを切り出されたの、昨日」

 他人事のように、淡々とした口調で語る。おそ松はとっさに「あー、まじかぁ」と零した。彼女の表情が見えない位置に自分が置かれていることを幸運に思った。それにしても昨日とは、タイムリーすぎる。
 風が吹いて木々が揺れる。鳥かコウモリか、羽根のはばたく音がした。

「話、聞いてくれる?」

 今にも夜の森に溶けて消えてしまいそうな小さい背中を見ながら、おそ松は「聞くよ」と答えた。おそ松は面倒事を嫌う男である。しかし長男の性か、面倒な人間を嫌えない質であった。
 山奥まで続く道とも言えない道を進みながら、柑奈は昨日終わりを迎えた恋の話を打ち明けた。
 相手は高校時代の家庭教師だという。それはそれは優秀な大学を卒業した年上の男だった。柑奈が憧れる、大人の男性だった。成績が上がれば頭を撫でてくれた。高三の夏に、キスをされた。柑奈にとって初めてのキスだった。「受験が終わったら、この続きをしようね」甘い声で囁く男に彼女は心底夢中になった。第一志望の大学に合格し、家庭教師との契約が最後の日に、柑奈の部屋で、二人はセックスをした。柑奈が恋人ができたとおそ松やクラスメイトに告げたのはその翌日である。
 ここまで聞いたおそ松は、複雑な気持ちになった。高校時代、自分が同レベルだと思っていた彼女は自分よりも遥かに進んだ恋愛をしていたのである。そんなことを全く知らずに想いを寄せていたのだ。
 本題はここからだった。恋人となり、高校を卒業してからも二人の関係は順調に続いていた。家庭教師と生徒という関係性から始まった恋愛のためか、男の言う事を柑奈が聞くのが日常茶飯事。何もかもを男が決めていた。それでも不満はなかった。幸せを噛み締めながら結婚を考えるには十分な月日を過ごしていた。それが昨日全て打ち砕かれた。昨日の夕暮れ、一人暮らしをする柑奈の家に男が訪れた。いつも通りドアを開けると、どこかいつもと違った表情の男がいた。そして、その後ろには、見覚えのない女がいた。柑奈は細かい針が全身にいくつも刺さるような錯覚をした。無言のまま部屋に上げて二人を並んで座らせると男が言った。「もう会うのを止めてほしい」理由を聞けば、男は白状した。柑奈と関係を持つずっと前から隣の女と交際していたという。柑奈は体の力が抜けた。衝撃的だった。自分は恋人ではなかったのだ。男の話はまだ続いた。「彼女との間に子供ができた。だからもう遊ぶのはやめることにしたんだ」遊びのつもりなんて、こっちはちっともなかった。柑奈は言葉が出なかった。隣の女のお腹はまだ膨らんでいなかった。顔は見られなかった。「彼女に誤解を解くために一緒にここに来た」最低だ、最悪だ、これ以上何も言わないでくれ。「お前が誘ってきたんだもんな、なあ」男は開き直ったような声を出した。隣の女に媚びを売っているようだった。ここまで自分のことを傷つけておいて、男はまだ幸せになろうとしている。それが柑奈は許せなかった。

「ひどい話でしょ」
「最悪だな、そいつ」
「そう、最悪だった。私とのあの時間は何だったの?女も女よ。どうして私の家まで来たわけ。浮気されたくせに、勝ち誇ったように!あの二人は私の存在をなかったことにしてやり直そうとしてたの!私を踏み台にして幸せになろうとしていたのよ!」

 柑奈は抑えきれなくなったように声を荒げた。悲鳴のようだ。歩くのを止めて一旦息を整え「だからね」と続け、くるっと振り向いておそ松と目を合わせた。泣いている。そしてキャリーケースを持ち上げた。おそ松は、よせよと思った。頼むからよしてくれと祈った。

「殺した」

 おそ松は渇いた声を聞いた。

「二人とも殺してやったの。だって仕方ないでしょう?」
「それ、死体?」
「うん。この山に埋めようと思って。行こう。もうすぐ着くよ」

 二人は再び歩み始めた。面倒事のスケールが大きすぎるとおそ松は困惑したが、逃げる気にはならなかった。今自分がいなくなったら、彼女は死ぬような気がした。殺人鬼が目の前にいるはずなのに、恐怖というよりは憐れみと、彼女に対する説明し難い違和感を感じていた。なんだか、とても変だ。
 狭い空にぼんやりと光る満月はいつの間にか雲に隠れた。進む。一歩一歩終わりの場所まで近づいていく。

「でさ、なんで俺をここに連れて来たの?」
「…おそ松のこと思い出したから、殺した時急に」
「へえ、そりゃ光栄」

 もう続く道はない。一番奥まで来た。木が少ない。腰掛けるのに良さそうな岩がいくつかあり、まるで墓のようだった。柑奈はキャリーを置き、しゃがんで土に手を伸ばした。そして両手で地面を掘り始めた。おそ松はいたたまれない気持ちになる。何を埋めようって言うんだ。

「手伝ってよ掘るの」
「シャベルとか持ってこなかったわけ?」
「うるさいな、もう」

 おそ松も同じようにしゃがんでみると、柑奈の額にうっすらと汗が見えた。必死に、無我夢中で、手を土まみれにして地面を掘る女。やっぱり違和感だ。おそ松はその華奢な手に、自分の手を重ねた。

「何すんの」

 涙目でおそ松を睨むその表情は、とても殺人鬼のそれには見えない。おそ松はもう、気づいていた。

「掘らなくていい」
「もっと掘らなきゃ埋められないよ」
「あのキャリー、何も入ってないんでしょ」

 柑奈の目に溜まった涙が零れ落ちた。そして声を上げて泣き出した。だっておかしいんだ。キャリーケースは確かに大きいけれど成人した大人二人分の体が入りそうにはとても見えない。それに、もし入っていたら相当の重さになるだろう。こんな山奥までキャスターでは転がせない道や階段を登ることができるわけがない。そして何より柑奈は人を殺した後に高校の同級生と会って普通に会話できるほど、強くない。根拠はなくとも、おそ松は高校時代の自分に賭けて確信していた。

「ころした、ころしたのよ、あいつら、死んだのぉ…!」

 柑奈は泣き喚いている。おそ松の手を振り払い、汚れた手で顔を覆った。髪が垂れて土につく。おそ松はその頭を撫でた。よく頑張ったな、耐えたな、えらいよ、お前。いざ言葉にしようとすれば「お前ほんと男見る目ないよな」なんて罵りの文句に変わってしまう。女はいっそう声を上げて泣いた。おそ松は立ち上がり、キャリーケースを持ち上げた。思った通りの軽さだ。おそ松は考える。男に別れを告げられ、幸せな二人を家から返してから、柑奈はどんな気持ちでこのキャリーケースを持ち出したんだろう。どんな気持ちで抱えて山を登っていたんだろう。中身は何もないのに。胸が締め付けられそうだった。おそ松はそれを彼女の目の前に置いた。そしてファスナーを動かして、ぱたんっと開ける。やっぱり空だった。柑奈は泣き止まない。殺したい殺したいと思って殺せなかった男と女。きっと彼女のことをすぐに忘れていくであろう男と女。その悔しさとやるせなさだけが、ケースから溢れ出た気がした。

「埋めるか」

 おそ松は器用に足を使って柑奈が精一杯に掘った小さな穴を埋めた。何を葬ったのかは自分でも分からなかった。目に見えない男女の死体か、彼女の心か、自分の幼い恋か。何にせよ、埋めることが彼女への報いだと思った。埋めた地を踏んで固める。

「死んだよ、柑奈

 おそ松が声をかければ柑奈は土だらけの顔でおそ松を見上げる。クソババアのくせに、臆病で、優しい目をしているところがずっと好きだった。

「そいつら埋めた。もう死んだから、だからもう苦しまなくていい」

 何もかもを葬った小さな墓地に、女の嗚咽だけがいつまでも聴こえていた。


左の胸はがらんどう
20160112