ショッキングピンクの太陽が、今日も私を照らす。どん底まで落ちた女を嘲笑うような光だ。毎日この光に照らされ、神経がすり減っていくのを感じながら、それでも逃げられずにいる。この四畳半の箱が私の生きることが出来る唯一の世界だからだ。狭い部屋にベッド一つだけが当然のように置いてある。さながら処刑台のよう。私は毎日ここで、私を殺しに来る男を待っている。 ガチャッと音がしてドアが開く。入ってきたのは、若い男だった。赤いパーカーに、デニム。いかにも部屋着のような飾り気のない格好だ。表情もどことなく締まりがない。 「こんにちは、ご指名ありがとうございます」 今日も処刑の時間が始まる。いつもの台詞をいつもの笑顔で言うと、途端にいやらしい笑顔を貼り付けた男と目が合う。 「はじめまして、俺、松野おそ松」 「…おそまつ…?」 「変わった名前でしょ」 慌てて口を噤めば、へらっと笑うオソマツさん。こういう反応には慣れているらしい。こんな名前の人と初めて出会った。そのまま存在する単語を漢字にすると御粗末。衝撃的な名前だ。 「君の名前は?」 「私はみるくです」 「もーう!そういうのいいから!教えてよ、名前」 「えっと…」 指名した娘の名前も覚えてないのかと思ったら、彼が聞いているのはどうやら源氏名ではなく本名らしい。初対面の客に本名なんて聞かれるのは初めてのことで困惑と嫌悪と、この人に対するただならぬ予感がいっきに込み上げてきた。それを悟られないように笑う。表情筋が無理矢理動く音が聞こえるような気がした。 「みるくって呼んでください」 「…はーい」 腑に落ちないような声が返ってきた。おそ松さんが何者なのか、興味は湧いたけれども、それを暴く億劫さと恐怖の方が上回ったから、もうこの人を他の男と同じように扱うことにした。 二人で並ぶようにしてベッドに腰をかける。不健全な空気が強烈に漂って、私の神経はやっぱり鉛筆の芯のようにすり減っていく。私は手に持ったプラスチックのボードをおそ松さんに渡した。オプションのサービスと料金が乗ったメニュー表だ。 「何かしてほしいことはありますか?」 「うーん、そうだなぁ」 おそ松さんはメニュー表をじっくりと眺めたと思ったら急に関心を無くしたように脇に置いた。そして「じゃあ、」とだけ言って隣にいる私の手を握る。さて、この手をどこに持っていく気だろうと構えていたら、ただ握ったまま位置を変える気配がなかった。私は不審な気持ちでおそ松さんの顔を見る。おそ松さんも私を真っすぐに見ていた。手の温かさが、気持ち悪い。 「おそ松さん…?」 「俺と結婚してほしい」 「は?」 思わず眉をひそめた。場違いな科白をこの人はいかにも真剣そうに言う。きっとからかわれているのだろう。悪趣味な冗談だ。腹立たしさよりも先に、泣きたくなるような、惨めな気持ちになる。結婚、なんて、世の中の幸福を象徴するような言葉は冗談でも私には不似合いなのだ。自分には決して手を伸ばしてはいけないところにあるように、そう思えてしまう。 「それは、ごめんなさい」 「だめかぁ〜!なんで?」 「なんでって、冗談でしょ…」 「え、本気だけど?」 「初対面だし」 「初対面の人とは結婚できない?え〜、視野狭くない?!」 「はあ」 気味が悪くなるほどちぐはぐな会話をしている。私は正しく返しているはずなのに、それをおそ松さんは非常識だとでも言いたいかのように反発するから、常識がわからなくなる。 「どうしてもだめ…?」 「逆に、どうして私と結婚したいと思ったの?」 「そりゃあ、俺のこと待ってたような顔してるからさぁ」 私の本名すら知らない男が私の何もかもを見透かしたような得意げな顔で言う。その顔を見ながら、ストレスが募っていくのを感じる。 「私が待っていたのはあなたみたいに突然結婚を申し込んでくるような人じゃなくて、ただ私にお金を払ってサービスを受けてくれるお客さんです」 私は毎日ここで待っていた、ピンクの光を浴びながら。私を殺しに来る男たちを。殺された時初めて自分に命があったことを知る。そういう人間なんだ、私は。こんな方法でしか生を感じられないんだ。男に組み敷かれて欲の捌け口にされて、そして初めて自分が生きていることを思い知る。いつだってそうだ。 「へえ〜。で、本当は?」 「さっきから何が言いたいの…」 「俺さっき、はじめましてって言ったけど、本当はずっと前から知ってたんだよ、君のこと」 「え?」 「向かいにパチンコ屋あるじゃん?あそこに行く時君がこのビルに入るのを見たことが何回もあるんだ」 予期していなかった言葉が飛んできた。おそ松さんの言う通り、このビルの向かい側には大して当たりも出なさそうな古いパチンコ屋がある。なんとなく、さっきプロポーズされたことに不本意な納得をせざるを得ないように感じた。どうせ一目惚れして…なんて続ける気だろう。 「それで、私の何がわかるの」 「わかったよ、ここに来るのを怖がってるってことはさ」 「…は?」 「だっていっつも、怯えるような顔してたもん。そうだな、例えるなら、処刑台に立たされるって感じ?」 まさに私がこのベッドを形容するのに使う単語が聞こえて、驚くのと同時に、自分の本心を読まれているような怖れを抱き、そして理由の説明できない安心感を覚えた。それら全てが混ぜ合わさった心地悪さに思わず涙が出そうになる。何か言葉を返さなくてはと思っても何も浮かばない。できればもうこの会話を終わらせたい。けれど、おそ松さんはそれを察してくれない。 「ほんとはこの仕事したくないんじゃないの?」 ぎくっとした。怖い。おそ松さんの顔を見ることができなくて、下を向き、自分の太ももに目を落とす。おそ松さんを見たら、うっかり頷いてしまうのではないかと思った。頷くわけにはいかない。頷いてしまったら、今までここで感じてきた自分の生を否定してしまうような気がした。 「私ここでしか、自分が生きてるってわからないから」 まさか初対面の客に誰にも打ち明けたことのない自分の本音を聞かせるとは。ここに来たのが普通の客だったら、今頃私は殺されているはずだった。予感した通り、おそ松さんは普通の客ではない。私を殺しに来た人ではない。でもそんなの困る。それじゃあ私はどうして生きてることを覚えればいい。 「それは違うよ」 ぐちゃぐちゃになった私の脳みそに響いたそれは、強く言い切るような声だった。怒ってるようにも思えたし、慰めようとしている風にも感じた。私は、イタズラが親に見つかった子供のような気持ちになった。 「そんなの、悲しすぎる」 そう続けたおそ松さんの顔をふと見たら、涙を堪えられなくなった。おそ松さんは優しい顔で、でも少し悲しそうな顔で、私を見つめていた。そんなはずもないのに、まるで私のことを何でも知っているみたいだ。 「世界は広いんだぜ?もっと好きなことしようよ。自分は生きてるんだってわかるから。踏み出すのが怖いなら、俺が一緒にいるよ。嫌って言っても一緒に歩いてやる。連れて行くから、もっと楽しいとこに、ほんとに生きる場所に!だから、ここから逃げよう」 諭すように話し続けるおそ松さんの隣で、私はボロボロと涙を流した。耳に流れ込む言葉は、私がこれまでの人生で触れたことのないような希望に満ち溢れていた。私はやっと、気づく。こんなことがしたくて生きていたんじゃなかった。本当は毎日毎日ここに来るのが嫌だった。それでもここが自分の世界だと諦めていた。受け入れていた。それをおそ松さんに否定されてしまったから、私はもう、ここにいるのが苦しい。こんなにも、呼吸がしづらい。 おそ松さんは再び、私の手を握った。その温かさに、今度は安心する。 「もう一回言うよ。俺と結婚してください」 結婚。実際のところは分からないけれど、やっぱり幸福の象徴のような響きだ。私には不似合いな、一生手を伸ばせないような、そんな甘い響き、なのに。おそ松さんは容赦なくそれを私に押し付けてくる。付き合ってもいないのに、そもそもほとんど初対面なのに、そんな常識はもう涙と一緒に流れていった。頭のおかしい私には、首を横に振る理由なんて思いつかない。 「…はい」 小さな返事をした瞬間に、おそ松さんに抱きしめられた。体温を全身で感じて、ドキドキする。ああ、もしかしたらこれが生きてるってことなのかもしれない。この人といたら、私は正しく生きられるのかもしれない。私はまだ、おそ松さんがおそ松さんであるということ以外何も知らない。それでもいいと思った。大丈夫だと確信させられる何かを彼は持っていた。 ショッキングピンクの照明が二人を照らす。太陽だと思っていたそれは限りなく人工の冷たい光だった。きっとこの先一生浴びることのない光だろう。私にはもう必要ない。 抱擁の心地好さに浸っていると、何かを思い出したかのように急に、おそ松さんが体を離して、私を見た。焦っているような表情。何があったのかと、私は少し不安になり首を傾げる。 「そういえば俺、君の名前知らない」 二秒後、私たちは顔を見合わせて爆笑した。 明日への招待 20160110 |