いつだってその背中を眺めていた。その腕がスパイクを決めるたびに胸に熱がこみ上げた。その人は誰よりもかっこよかった。私のヒーローで、みんなのヒーローだった。強くて、熱くて、眩しい。眩しすぎて、ちょっと痛くなるくらい。敵わないなあって、いつだって私は、憧れと諦めを抱きながら、その背中を見つめていた。




「ちょっと、何ぼーっとしてんのさ」
「…及川」

 練習が終わり、空になったドリンクボトルを何本も抱きながら用具を片付ける部員たちのその光景に目を向けていた。及川が言うように、まさにぼーっと、無意識にだ。もう夜だというのに、体育館の高い天井で光る照明のオレンジは太陽のように眩しい。
 キャプテンである及川に注意じみた発言をされても、私は足を動かせずにいた。ボールを一つ手に取り弄びながら、及川も私の隣に立って同じ方向を眺める。

「何考えてたか当ててあげようか」

 私は何も言わずに、視線も寄越さない。ネットがたたまれ、それを支えるポールがしまわれ、体育館はどんどん部活ではなく授業で使われるためのものと戻っていく。

「引退したらこの景色も見られなくなっちゃうんだな〜寂しいよ〜え〜ん」
「…それ、私の真似?」
「なんて、かわいいことは考えてないでしょ」

 目を合わせないで聴く及川の声はひどく冷たく耳に響いた。それを責めることは、私にはできない。

「岩チャンかっこいいよ〜好きだよ〜え〜ん」
「…さっきから裏声キモいよ及川」
「はい、当たり」

 やっぱり私は何も答えない。何も答えないことが一番の肯定になってしまうとはわかっていた。及川もそう解釈するはずだ。けれど、否定の仕様もない。私はどうしようもなく、その人に焦がれていた。
 及川は知っている。私が誰の背中を見ていたか。及川は、私の憧れを知っている。それが苦しい。その事実がどうしようもなく私を悲しくさせる。及川の目を見ることができないほどに。

「一週間前俺に何て言われたか覚えてる?」
「……」
「あ、もしかして忘れた?」
「…好きって言われた」
「そう。で、何て答えたっけ?」
「ごめんって」
「覚えてるじゃん」

 会話の内容に似合わず、二人とも声は淡々としていた。まるで昨日のドラマの話でもしているみたいだ。
 もうほとんど体育館は片付いていた。あとはボールを倉庫にしまうだけだ。そのボールを三つ両手で抱えた岩泉が、私たちを見つけたと思ったら、眉を寄せて、睨みつけながらこっちまで歩いてくる。私は鼓動が速くなるのを感じて、それにいくつもの理由を見出して、嫌になった。岩泉は私たちの前に仁王立ちした。

「おいお前ら片付けサボってんじゃねーよ」
「ごめん岩チャン、キャプテンとマネージャーのミィーティングしてたの!」
「そんなの後にしろ!及川倉庫に閉じ込めんぞ」
「問題になるからやめて!春高出られなくなるやつだから!あと俺死んじゃうから!」
「うるせー早くしろ!」

 岩泉は素早く及川の脛を蹴って、颯爽と戻っていった。及川は持っていたボールを反射的に落とし「うっ…」と唸り声を上げながらしゃがんで脛を押さえる。弁慶の泣き所というやつだ。
 それを笑うことも心配する素振りも見せないまま、私は立ち尽くす。痛いくらいに眩しいのはオレンジの照明か、それとも。
 及川はボールを拾って立ち上がった。そして顔をこっちに向ける。視線を感じても、向き合おうとは思わなかった。

「あーあ、またそんな顔しちゃって」
「……」
「及川さん振ったくせに報われない恋してるとかね、勘弁してよ」

 それを聞いて、私は初めて及川の顔をちゃんと見た。目が合う。及川は、一週間前よりもずっと、傷ついた顔をしていた。私は及川の顔を見たことを後悔した。
 及川は知っている。私の憧れを。それだけならよかった。でも及川は、私の諦めも知っていた。だからこんな顔をするんだ。こんなの、最低だ。最低な悲劇だ。でもどうしようもない。私はずっとその背中だけを見ていて、でも、隣に並ぶことはできない。そうわかっていても、焦がれずにはいられない。

「ごめん」
「やだ」
「ごめん及川、」
「やだね、絶対許さない」

 あっかんべー、と指で下まぶたを下げ、舌を出す仕草を見せて、及川はすたすたとボールを片付けに行ってしまった。私もボトルを洗いに行こうと歩み出す。
 体育館裏にある水道の蛇口をひねって冷たい水を流した。それを見ながら、私はまた考え事に耽る。
 私がどうしたら、及川にあんな顔をさせずに済んだんだろう。報われる恋、すればよかった?違う人を好きになればよかった?そもそも、及川を好きになればよかった?全部全部不自然だ。だって私はこんなにも、岩泉が好きなんだ。馬鹿みたいに、痛いくらいに。
 一週間前、及川が私に言ったこと。それは私が岩泉に言ったことと同じだ。私が及川にした返事、それは岩泉が私にした返事と、全く一致している。二人が同じ道を一人でよろよろと歩んでるとしたら。もし、私が今岩泉に対して抱く気持ちと、及川が私に抱く気持ちが同じだとしたら。だとしたら?それを想像する勇気はない。
 私は蛇口をさらにひねる。水がけたたましく流れる。

「なんで私なんか好きになったの」

 暴力的な流水音に隠すように、自分の傲慢を吐き出した。今の私は、及川と同じように傷ついた顔をしているのかな。そんなことを考えていたら喉の奥が苦しくなった。どうしてこうも、上手く噛み合わないんだろう。みんなが幸せになる道を見つけられないんだろう。自分の気持ちが及川に向くことを考えるより先に、岩泉の気持ちが自分に向くことを願った私はいかにも人間らしくて、嫌になる。
 不意に見上げた空は真っ暗だった。体育館の太陽がより一層際立って眩しい。ああもう本当に、敵わないなあ。


みんな正しくてみんな悲しい
20150514