窓から射し込む光の眩しさに目を覚ました。絶望。どこからか小鳥のさえずる声が聴こえてきたけれど、今の私にとっては煩わしいだけだった。馬鹿にされているみたい。絶望。なんて悲しい朝でしょう。絶望。ほら、こんなにも、朝は斬新な絶望であふれている。
 昨日の夜に自分の部屋に帰ってきて、お風呂にも入らず、化粧も落とさず、服すら着替えずにベッドに飛び込んで眠りについた。別にひどく眠かったわけじゃない。疲労なんて皆無だった。だけど私は眠る以外にこの凄まじい厭世から逃れる方法を思いつかなかったのだ。シャワーを浴びるより歯を磨くより先に眠りに落ちてしまいたかった。一生眠っていたいと思った。目覚めたくなどない。目覚めてしまえば、そこに転がる現実を視界に入れるはめになる。だから、一生眠りについていたかった。それなのにやっぱり無条件に朝は来て、私の目と神経は目覚めてしまった。最悪だ。朝はいつだって平凡で悲しいくらいに白くて、さわやかで、嫌になってしまう。
 嫌悪感が募るのを感じながら重い体を起こす。頭が痛い。目が腫れているような気がする。化粧が崩れて顔がべとべとだ。最悪。ぜんぶ、涼太くんのせいだ。悪いのはぜんぶ、涼太くん。あなたなんだよ。
 ベッドから降りて、だらしなく床に座った。部屋は異常なほど、昨日と変わらないままだった。整理整頓された机。少女漫画ばかりの本棚。ハンガーにかかるトレンチコート。変わらないけれど、どこかよそよそしい。気持ち悪い。机の上の写真立て。もちろん涼太くんと私の写真。ふたりともいい笑顔。涼太くんはいつだってかっこいい。好き。ネックレススタンドにかけてある華奢なシルバーのネックレスは一昨年の誕生日にくれたやつで、ドレッサーに置かれたローズカラーのルージュは何の記念日でもない日に気まぐれで買ってくれたやつ。全部覚えている。全部、たからもの。そう思っているのに、それらはこの部屋には不自然なほど似つかわしくないのだ。
 昨日のバッグから携帯を取り出す。新着メールが何件かあったけど開かずに、アドレス帳から涼太くんを見つけ出し、ためらうことなくダイヤルを押した。涼太くんの声が聴きたい。今すぐ聴きたい。6コールほど待ったら、やっと電話に出た。

「……なに、」

 低くて小さくてまるで感情がないけれど、それは確かに涼太くんの声だった。一番好きな、声。私は、泣き出してしまいそうになる。昨日あれほど泣いたのに、また涙が目に溜まる。そうして気づく。私は涼太くんに操られている。もうずっと昔からだ。

「涼太くんだ」
「何か用スか」
「涼太くん、今日会える?」
「…何言ってんの。昨日のことなのにもう忘れたんスか」
「好きなんだよ、涼太くんが」
「俺は嫌い」

 それは容赦なく鋭く、私の止まりかけていた心臓を目掛けて飛んでくる。私はそれでも必死にその足元に縋り付くのだ。血を吐きながらでも、涼太くんにしがみつきたい。

「…涼太くん、私のこと嫌い?付き合っていたのに?」
「付き合った時は好きだったよ?けど、今のアンタは宇宙一嫌い」
「なんでそんなこと言うの、涼太くん」
「あのさ、昨日言ったでしょ。嫉妬深くて束縛激しくて、重すぎるんだよ。どうしてこうなっちゃったんスかねー、付き合いたての頃はいい女だったのに」
「……涼太くんが好きなだけだよ」
「アンタのそういうところが無理なんだって」

 私は涼太くんの名前を何度も、何度でも呼ぶけれど、涼太くんは、私の名前を呼ばない。意地でも呼んでくれない。私は涼太くんを好きだというけれど、涼太くんは私が嫌いだという。宇宙一、嫌いだと。悲しくて寂しくて苦しくてしょうがないのに、私はまだ縋り付く腕を離せない。蹴られても、踏まれても、信じたい。いつかまた私の名前を呼んでくれる。いつかまた、私を好きだと言ってくれる。そう信じていたい。その希望がなければ、私はとっくに息絶えている。
 電話越しに、涼太くんが苛立たしそうにため息を一つよこした。

「用ないなら切るから」
「まって、りょ、」

 ツーツー……と機械音が虚しく耳を突き抜ける。涼太くんは何を考えているのだろう。どこまで私の精神を狂わせれば気が済むんだろう。悪いのは、一体誰なんだろう。
 もう一度涼太くんの番号を押す。コール音が鳴り続けた。出てくれない。その次も、またその次も、何回もかけ直したけれど電話が繋がることはなかった。もう一生涼太くんの声を聴けない予感が胸を叩く。
 携帯の画面を待ち受けに戻すと、涼太くんと私がいた。気持ち悪い。死んじゃえ。そう殺意を覚えながら、電源を長押しして画面を暗くしたら、部屋の隅に置いていたゴミ箱に思い切り投げつけた。ガンッと鈍い音がした。壊れたかもしれない。涼太くんと繋がらない電話なんて、ゴミなんだ、どうせ。
 すがすがしいほどの絶望を抱きながら窓を眺める。真っ白なその先に天国を見たような気がした。
 ――別れよう。
 昨日、涼太くんの口から初めて聞いた忌々しい言葉を思い出す。
 ――つーか別れて。
 涼太くんがべらべらと何かを話すのが、全く耳に届かなかった。別れる?誰が?誰と。この人は何を言っているんだろう。脳が涼太くんの言葉を拒絶した。でも涼太くんの目を見たときはっきりわかった。涼太くんは私を軽蔑している。もう、愛しい恋人を映してはいない。彼の瞳に映る私は、醜く愚かな乞食だ。
 私は涼太くんのことが好きだから、大好きだから、涼太くんが他の女の子と話すのは嫌だった。モデルとして雑誌に載るのだって吐き気がするほど嫌だった。涼太くんを愛しているからだ。涼太くんにとっては、それは重い行為でしかなかったらしい。でも、だからって、嫌なものは嫌だ。私は涼太くんが好きなだけだ。

「涼太くん」

 か細い声がせまい部屋に響く。返事はない。ぼろぼろと涙がこぼれた。拭わずに、頬から顎に伝っていくのをほったらかした。涼太くん、涼太くん。今すぐここに来て。泣いてる私を慰めてよ。涙を拭ってよ。抱きしめてよ。もう一回愛してよ。涙は止まらない。どんどん流れ落ちる。もういっそこの部屋を浸水させてしまえばいい。もうこの部屋を満たして、私は溺死してしまいたい。やっぱりぜんぶ涼太くんが悪い。悪いんだよ。子供のように泣きながら涼太くんを責めた。泣いても、泣いても、泣き足りない。こんな絶望、もう味わうことないだろう。涙は果てなかった。
 涼太くん。あなた、今、どこにいるの?どこに誰といて、どんな表情をしているのだろう。涼太くんのことを思い出そうとすると、私を拒絶したときのあの表情ばかり浮かんでくる。蔑むような、あの目が。おかしいね、思い出なんていくらでもあるはずなのに。
 ……私?私は今ね、奈落の底にいるよ。暗くて冷たいこの場所で、私を突き落したあなたがいつかまた迎えに来てくれるって信じて待っているの。笑っちゃうでしょ?


鋭利な現実
20150331