カツ、カツ、とヒールの音を響かせ、よく通い慣れたマンションの四階の廊下を歩く。白石と書かれた表札を見つけ、周りを軽く見渡してからインターフォンを鳴らす。何回もしたことのある動作だが、この瞬間、私はいつも心臓が飛び出そうな程緊張する。「はい」という彼の声がインターフォン越しに聴こえ、ほっと一息つく。

「私です」
「おー、今開けるから待っててな」

その声が聴こえてからすぐに目の前のドアが開き、彼のお出迎え。ラフな格好をした蔵ノ介の優しい笑顔がそこにあって意味もなく泣きたくなる。苦しいくらいに好きだと思う。今すぐにでも抱き着きたい気持ちを堪えて部屋に上がる。長くヒールを履いてたせいか、脱いでフローリングを歩くとよくある軽い違和感を覚える。そもそも私が彼の歩いたフローリングを歩くということに違和感があるのはなるべく考えずに。どうでもいい。蔵ノ介に手招きされ、リビングのソファに腰かける。相変わらずシンプルに、一切無駄なく、綺麗に片付いている部屋を見回すと自然と笑みが零れる。

「紅茶でええ?」
「うん、ありがと」

キッチンに立つ蔵ノ介を見つめながら思う。もし、今、第三者が私たちのこの風景を見たら、ごく普通のうまくいってるカップルに見えるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間、ティーポットを傾ける蔵ノ介を見ているのも億劫になり、視線を逸らすように携帯を開く。何の着信もないことに安堵し、携帯を閉じた。

蔵ノ介と知り合ったのは、謙也の紹介、いや紹介というほど大袈裟なものではないけれど、とにかく謙也が蔵ノ介と私を会わせた。中学からの仲で、部活が一緒で全国行ったこともあって、それからそれから…と次々に説明する謙也の隣で私は恐ろしく動揺していた。何故だか目の前で微笑んでいる青年の顔を見ているのが怖くて、でも目が離せなくて、何か、直感的な何かを感じた。これを一目惚れというのだろうか。でもそんなものと同じにされたくないという無意味なプライドがあることを否定できない。彼は整いすぎているくらい整った顔立ちではあるが、決してそれに心を奪われたのではなくて、では何に惹かれたと聞かれれば曖昧な答えしか出てこないけれど、彼を見た瞬間、今はまだ違うけれどいつか絶対好きになる、そんな確信をした。こいつが俺の彼女で…と、照れ臭そうに今度は私の紹介を始めた謙也を、一瞬で裏切った。

「はい」
「ありがとう」

蔵ノ介に出された紅茶を笑顔で手に取り、口を付ける。あまり砂糖は入っていない。すっきりとした風味が喉を通る。
果たして、カップルに見えるだろうか。残念ながら違う。これは典型的な浮気だ。謙也に不満なんて何もなかった。本当に満足していた。私のことを心から愛してくれる優しい恋人だった。きっとずっとこの人と幸せに暮らしていけるんだろうと思っていた。浮気する気なんてもちろんなくて…なのに、私は謙也を裏切った。どんどん蔵ノ介を好きになる。逃れられないように彼に惹かれていく。蔵ノ介が好き、誰よりも、謙也よりも。
ティーカップをテーブルの上に置く。縁にはグロスがべっとりとついている。それだけで全く嫌になる。そんな紅茶をお供に、蔵ノ介と他愛もない会話をして、確かな幸せを感じる。紅茶を飲み干して、会話も尽きてしまったところで、もうやることなんて一つしかない。その前に少しだけグロスを塗り直したい、どうせまたすぐに剥がれる、だからそのために塗り直したい。

「洗面所借りるね」
「おん」

洗面所へ行き電気をつけ鏡を見ながら丁寧に薄くグロスを塗る。プラスチックのコップに入った二本の歯ブラシが目に入る。青い方が蔵ノ介の。そしてピンクの歯ブラシを使うのは、私ではない。グロスを塗る手が止まった。私に謙也がいるように、彼にも恋人がいる。さっき私が口を付けたティーカップももしかしたら彼女が使ったものなのかもしれない。そう考えるとぞっとした。面倒だ。私だけが悪いことをしているのではないという、蔵ノ介に対する共犯意識とともに、彼の恋人への恐れと嫉妬と嫌悪感が込み上げてくるのがわかる。謙也より先に蔵ノ介に出会っていれば、蔵ノ介が恋人より先に私に出会っていれば、何も恐れることなく妬むことなく、もっと純粋にこの恋を楽しめたのかもしれない。なんて、自分勝手すぎる。もし蔵ノ介に恋人がいなかったら私はきっと謙也を捨てて彼の女になる。二人は昔からの友人であるわけだから、謙也にとっては、あんまりと言ってはあんまりなことだけど。だけど蔵ノ介には恋人がいる。蔵ノ介が恋人と別れるまで、私は謙也と別れる気はない。蔵ノ介に捨てられたら、また謙也を好きになればいい。そう思った今、蔵ノ介に捨てられたところで私はもう謙也を好きになることはできず、結局蔵ノ介に縋り付くんじゃないかと新たに考えた。清々しいくらいに最低だ。謙也と蔵ノ介の恋人は被害者で、私と蔵ノ介は加害者。私たちは同じ罪を犯してる。なんて素敵な響きだろう。再びグロスを塗る。鏡の前で笑顔をつくる。どんなに口角を上げ微笑んでも、これから恋人ではない男に抱かれる女の顔は宇宙一汚いものに見えた。

「こっちやで」

蔵ノ介がベッドに腰かけながら私を呼ぶから、それに誘導されるように蔵ノ介の隣に腰かける。座ったまま抱きしめ合い、キスをした。何回も何回も唇を重ねる。好き、好き、好き。邪魔な服を取っ払ってまたキスを繰り返し、セックスをする。謙也、ごめん。ごめんなさい。蔵ノ介に抱かれるときいつも心の中で優しい恋人への謝罪を繰り返す。こうやって謝る余裕があるうちは私はまだまともな人間なのだと思い込むことができる。
けれど、蔵ノ介とのそれが終わる頃には浮気の罪悪感など溶けて消えて、代わりに蔵ノ介への想いと執着心だけが増していく。ああ、このまま私は蔵ノ介のものになれたら良いのに。蔵ノ介も私のものになれば良いのに。私は最低な女だ。裸のまま蔵ノ介と二人、ベッドの上で甘い余韻に浸っていると、脇に置いていた私の携帯が振動していることに気づく。面倒に感じ、少し迷ってから携帯を手にとる。忍足謙也、そう表示されたディスプレイを無視して電源を切り、再び蔵ノ介にキスをした。



20110609