午後九時半、渋谷センター街。
 自己主張が激しいピンヒールの音をとめて、辺りを見回す。ドラッグストアにCDショップに靴屋に、カラオケ。その全てが似たような大きな看板を光らせている。自分が一番だと。巨大な液晶に映っているのは、病的な細さの読者モデル。意識しなくても耳には音楽が届く。女性アイドルの可愛いラブソング、ヴィジュアル系バンドの激しいロック、最近デビューした韓流の男性ユニットの切ないバラード。四方八方から、遠慮せずにガンガンと流れる曲が全部混じり合った、ただの雑音。おまけにここを過ぎるいろんな人のいろんな会話まで加えたアレンジ付きだ。

「カラコン買わなきゃやばい。ワンデーのやつ二週間つけてんだけどー」
「ぎゃははっ!やばっ、きたねー」

 金髪の巻き髪にルーズソックスを履いた今時珍しい典型的渋谷ギャルな女子高生のいかにもギャルらしい会話。

「お姉さん達居酒屋探してないすか?安くしますんで」
「もう決まってるからごめんなさーい」
「えー、ちなみにどこっすか?」

 居酒屋のキャッチの男と清楚系の、恐らく女子大生であろうお姉さん二人組の仁義なき戦い。

「パチンコで八万勝ったからよぉ、今日は俺が何でも奢ってやるよ」
「あざす!」
「さすがっす!」

 得意げな表情でヴィトンの財布を手に持ち、首にかけた厳ついシルバーアクセサリーをギラつかせるヤンキーと、そのヤンキーに深々と頭を下げる子分みたいなヤンキーが二人。一人はおしゃれ坊主で、もう一人は銀髪のツーブロだ。

 他にも聴こえる。いろんな声が。みんな何か喋っている。動きながら、歩きながら、どこかに向かいながら、忙しそうに。誰も立ち止まることなく。渋谷センター街。ゲートをくぐったその先。ここはカオスだ。何もかもがぐちゃぐちゃ、混沌としている。こんなにうるさくて、汚くて、何の希望も生まれない場所に、私はいつもどうして来てしまうんだろう。
 立ち尽くして、人々が流れていく光景を眺めていると、何だか自分は存在していないような気分になる。私は、センター街の亡霊だ。ずっとここを、目的もなく歩いて、さまよっている。

「お姉さんかわいいねー」

 いつの間にか隣にいた男の人に声をかけられ、内心ドキッとした。三十路くらいの男。一重のたれ目に、あご髭。ちょっとぽっちゃりとしている。ああ、うん、だめだ。多分ナンパではない。

「グラビアとか興味ない?」

 私は男の裏しかなさそうな問いかけには答えずに、止めていた足を漸く動かして歩き出した。「良いバイトがあるんだけどさ、話だけでも聞かない?」一切無視して歩く速度を上げれば、男はついてこなくなった。それを確認して速度を下げる。ああいうの、興味あるって答えたらどうなるんだろう。どこかに連れて行かれて際どい写真でも撮られるのだろうか。グラビアなんて言ってたけれど、本当はアダルトビデオだったりして。クラスの男子がよく口にしてる“素人モノ”ってやつ、やらされるのかな。ちょっとだけ、面白そう。

「お姉さんひとり?」

 変な想像を膨らませていたら、また知らない男が声をかけてきた。夜のセンター街を一人で歩いていれば、どんなブスでも何人かの男に声をかけられるものだ。話しかけてきた男は私の横を歩く。私は男の顔を見上げた。若い。明るい茶髪のパーマ。顔は普通。背はあまり高くない。へらへらとしていて、いかにもチャラそうな雰囲気を出している。うーん、この人でいいかな。私は男の目をよく見て、口を開いた。

「そうですけど」
「本当にー?じゃあ俺とお酒でも飲まない?」
「うーん…でもお金ないなぁ」
「もちろん全部出すよ」

 男は声を弾ませた。釣れる釣れる。そう思って嬉々としているんだろう。笑顔をつくったときに見える歯茎。いかにも頭と性格の悪そうな人だ。まあ、釣られてあげるけど。「じゃあ行く」と声を出そうとしたその時に、目の前にいる男とは別の、男の声が私たちの会話を遮った。「すいません」と。私たちは割り込んできたその男に視線を向けた。

「悪いんすけど、先客いるんで。他の子あたってください、オニーサン」

 目につく赤いジャージ。どうしてこんなところにいるのか、どうしてこんなことをしているのか、訳が分からなかった。ナンパしてきた男は急に現れた彼のなかなかの高身長に少し驚いているようだった。バレー部にはもっと背高い人もいるが、彼だって190近くあるのだ。無理はない。赤いジャージを着た先客――クロが馴れ馴れしく私の肩に手を乗せた。私は、何も言えない。それまで愛想よさそうに汚い笑顔を浮かべていたナンパ男は急に不機嫌になった。

「なんだよ、彼氏いんのかよ。しかもこんなクソガキ。早く言えよ」

 ああ、滑稽だ。大抵こういうやつだ、渋谷でナンパなんてしてくるのは。男は私とクロを嫌みったらしく睨んでから、すぐに離れてセンター街の人の波に消えていった。なんだか申し訳ないけれど、まあ神経図太そうだから一夜のロマンスを諦めずにまた他の女に声かけていくんだろう。
 それより問題は、先客のほうだ。まだ肩に乗っけられてる手を避けるように体を翻した。クロは置き場をなくした手をジャージのポケットに放り、にやにやと私を見下ろす。

「…なんでいんの」
「さあ?何でだろうなぁ?」
「てかなんであんなことしたの」
「そんなにさっきのやつとエッチしたかったのかよ、お盛んですね?」
「…クロが彼氏だって勘違いされた。最悪、プライド傷ついた」
「は?むしろ今ので俺のプライドが修復不可能なレベルに粉砕されたけど?!」

 クロは顔をしかめながら芸人のようなノリで嘆いた。私はまともに目を合わせられない。俯くと買ったばかりのワインレッドの靴が視界に入る。8センチピンヒール、つま先が、痛い。こんなヒール、ここに来るときにしか履かない。タイトなミニスカートも、肩のあいたトップスも、全部そうだ。ラメの粗いアイシャドウもはね上げるアイラインも濃いピンクのチークだって、普段の私はしないものだった。だからこんな、いつもと違う、着飾った私を幼なじみに見られるというのは表現しがたい恥ずかしさがあった。
 私が黙りこくっていると、クロは少し真面目な表情になって、躊躇いがちに口を開いた。

「…そりゃあな、俺のかわいい幼なじみ二号が週末渋谷で知らない男といかがわしいことしてるなんて聞いたら黙ってらんねえだろ」
「なんだ、知ってんだ」

 わざと笑って明るい声を出そうと思ったのに、笑顔はひきつって、声は沈んでしまった。どこからそういう情報は巡り巡っていくのだろう。
 いつも渋谷に行くと、適当にナンパしてきた男と過ごすことにしていた。特に魂胆なんてものはなくて、ちょっとした暇つぶしだ。ご飯食べたりカラオケ行ったり、そういう雰囲気になったらヤッたり。連絡先も交換しない、次の日になれば顔も名前も忘れるような男と、出会うために私はここに足を運んでいた。なぜかなんて、私が聞きたい。なんで私、こんなことしてるんだろう。でも別に、楽しいし、悪いことだと思わないし、悲観する気はないのだけど。

「お前ここ好きなの?」
「…うん。居心地いいし」
「そいつは嘘だな」
「嘘って何よ」

 クロがまっすぐに私を見るから、嫌々目を合わせる。クロは何だか、私を探っているような目をしていて、嫌だ。

「だってお前、ずっと泣き出しそうな顔してるよ?」
「は、」
「男に話しかけられてる時だって、精一杯都会の遊び慣れた女ぶってたけどさ、本当は怖かったんじゃねーの?」
「別にそんなこと…」
「あるだろ」

 何か言い返す隙を与えられずに、私の右手は、クロの大きな左手に握られていた。振り払おうとしても離してなんかくれない。「震えてんじゃん」クロは私のことなど全てわかっているとでも言いたいような口調で何でも指摘するから嫌だ。その指摘がどれも核心を突いているから憎い。実際に全てわかっているのだ、彼は。振り払いたいのに、拒絶したいのに、それでも私を離そうとしないこの大きな手を、心地好いと感じていることに気づいて苦しくなった。嘘だ、こんなにも安心するなんて、何かの間違いだ。
 相変わらず辺りは騒がしい。乱暴に光る様々な店の看板が煩わしくて目眩がする。本当はわかっていた。私はこの街に馴染むことなどできないのだ。どれだけ背伸びしても、憧れても、心の奥底に存在する恐怖と不安を拭うことなんてできない。どんなに知らない男と遊んでも、本当は、本当の本当はいつだって、違うものを求めていた。センター街の亡霊を、さまよう私を、見つけてくれる人をずっと求めていた。

「そんな派手な服着て濃い化粧してるから、てっきり俺に見つけ出してほしいのかと思ったよ」
「…何それきもい。馬鹿じゃない。さっきからクロ、ストーカーみたいだよ」
「ひでぇ言われよう!」

 私の口からは、クロを罵倒する単語しか出てこない。だって悔しい。幼なじみだからって、私のどうしようもなく不安定で幼稚な心を、ガラスに透かしたみたいに全部見えているのが悔しい。それに恥ずかしい。クロじゃなきゃよかった。こんなに近しい人じゃなければ、もっと素直になれただろう。でもきっと、クロじゃなきゃこんな風に私の手を掴んではくれなかった。
 クロはやっと手を離し、頭をかいて、ため息を一つ吐いた。

「けど、そのきもくて馬鹿なストーカーはお前のことが大切で大切で仕方ねえってよ?」
「…そう」
「…だから、あんま心配かけんなよ。そんなにここ来たきゃ俺と行けよ。オフの日な。買い物でもカラオケでも付き合ってやるっての」
「別に、地元でもできるし」
「じゃあその地元に帰ろうぜ、井の頭線乗ってな」

 少し間を置いてから頷くと、クロは満足したように笑って、再び私の手を引いた。今度はもう、振り払おうとは思わなかった。高校生にもなって、付き合ってもいない幼なじみと手を繋ぐ。恥ずかしいけれど、懐かしかった。小さい頃遠くで遊ぶときはいつだってクロが私の手を掴んでいた。だからどんな森や山を探検したって、私は迷うことなかった。きっとその記憶のせいだ。この手がこんなに温かいのは。思わず安心してしまうのは。
 そんな風に二人で手を繋いでセンター街を歩いた。部活帰りのジャージを着た男子高校生と、無理に大人ぶって着飾った女子高生。へんてこな組み合わせなのに、誰も私たちを気にも留めない。みんなそれぞれ向かう場所があって、脇目も振らずここを歩いていくのだ。ドラッグストアのシャッターが落ちる。もう閉店の時間だ。鳴り渡る複数の音楽もだんだん少なくなってきた。それでもうるさいのは、人々の会話する声だ。きっと真夜中になってもそれは、それだけは鳴り止まないのだろう。ここはカオスだ。何もかもがぐちゃぐちゃで、うるさくて、汚くて、何の希望も生まれない。それでもクロと手を繋いで歩くこの街の騒がしさは、悪くないなと思った。一人で歩くよりずっと穏やかな気持ちでいられる。私はもう、亡霊ではなくなっていた。
 センター街を出て、スクランブル交差点を横目に、井の頭線の乗り場へと続く長いエスカレーターに乗る。次にここに来る時は、派手な化粧なんてやめて、歩きやすいパンプスを履いて、何も恐れずに顔を上げて歩きたい。そして隣にやっぱりこの人がいたらいい。そんなことを考えて一段下に立つクロの顔を見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。私はにやりと笑って、前を向き、エスカレーターを降りた。ちょうど各駅停車の電車が止まっているのが見えた。


喧騒にララバイ
20150328