目の前に並ぶのは、高校生向けのたくさんの参考書。どれがいいのかなんてわからなかった。というより、どれでもよかった。私は、なんとなく手にとった英語の参考書の表紙を眺める。『短期間集中英文法』というタイトルの下に【しつこいほど丁寧でわかりやすい!】とコピーが書いてある。別に、どうでもいい。左右交互に小さく首を回し、他の客がいないことを確認した。レジで退屈そうにしている店員からも、見えていないはずだ。ひどい緊張を感じながら、参考書を弱い力で掴んで左肩にかけた開けっぱなしのスクールバッグに入れようとした。その、とき、参考書を誰かに取り上げられた。はっとする。終わった。そう思って俯く。

「あーこれ、俺買ったんだけどさぁ手つけてないんだよねー。紗世ちゃん欲しかったらあげるよ?なんならサインも書いちゃいます!って要らねえか」

 どこか聴き覚えのある声がして顔を上げる。参考書を持っているのはクラスメイトの高尾くんだった。私を一瞥した高尾くんは参考書を売り場に戻して「とりあえず出よっか。何か食おうぜ」と言って私の手を引いた。何が起きているのかわからない。言葉を発することができずに、ただ恐れを抱きながら高尾くんについていって、書店を後にした。


 ◆ ◆ ◆


「はいこれ、バニラシェイク」

 目の前にシェイクの入ったカップが置かれた。「ありがとう」と小さい声で言ったけれど、高尾くんの顔をちゃんと見ることができずにいる。やっと落ち着いてきた頭の中でさっきの出来事を整理する。私は万引きをしようとしていた。それを見ていた高尾くんがわざと仲のいい友達のような素振りをしてさりげなく止めたのだ。高尾くんとは同じクラスというだけで話したことなんてなかった。私はいつもみんなの輪の中心にいる彼を知っていたけれど、私みたいな地味なクラスメイトの下の名前が分かるとは思わなかった。高尾くんは私が犯そうとしていたところを見ていたのだから、当然軽蔑しているだろう。そう思うと、目の前で何事もなかったかのようにハンバーガーを頬張る高尾くんが、吐きそうになるほど怖かった。

「飲んでよ、溶けちゃうぜ?」
「…どうして」
「ん」
「どうして何も言わないの」
「何もって?」
「私、ま、万引きしようとしてたんだよ?」

 顔を上げ、声を張って言ってしまった。万引き、という物騒な単語に驚いたのか、近くのテーブルにいたスーツ姿の男性が不審そうな表情をこっちに傾けた。高尾くんはハンバーガーを食べるのを中断して、私の顔を見る。その目がやっぱり怖くてまた下を向く。

「俺には、とめてほしいようにしか見えなかったんだよねー」
「…え、」
「つーかさ!やるにしても参考書って…真面目かよ!そこは普通ワンピースの新刊でしょ」

 高尾くんは吹き出すように笑って食べかけのハンバーガーを口に運んだ。私は呆気にとられる。この人は全く嫌悪感を示さない。目の前に万引き未遂のやつがいるのに。私をまるで軽蔑していないようだった。
 とめてほしいようにしか見えなかった。高尾くんには私がそんな風に見えていたのだろうか。私は、何がしたかったんだろう。別にその参考書がほしいわけじゃなかった。お金がないわけでもなかった。気がついたら手を伸ばしていたのだ。私がほしかったのは、一体何だったんだろう。自分のことが全然わからなくて、不安定なこの心情が嫌で、でもきっと自分で安定させることなんてできなくて、終わりが見えない。最近こんなことを頭の中でぐるぐるとかき混ぜては、どこか遠くに行きたい衝動に駆られることが多い。何にも縛られずに、考えずに生きてみたい。でも、きっと、無理だ。
 暗い感情が胸の中に広がって溢れ出しそうになる。絶望は、こんなにも静かだ。ハンバーガーを完食した高尾くんが包み紙を丸めてトレーに置いた。そして頬杖をついて私をじーっと見てくる。

紗世ちゃんさー、すげえ頭良いよね」
「え?」
「いつも真面目に授業受けてて優等生なイメージ」

 さっきまでの楽しそうに笑った表情とは変わって、いたって真剣な面持ちだった。頭が良い。真面目。それはよく言われることだ。きっとクラスメイトの人はみんな高尾くんと同じようなイメージを私に対して持っているんだろう。そんな風に思われるのは悪いことではなくて、正しいことで、でもいつも、少し、苦しかった。

「すげえ頑張ってんだろうなって、思ってたよ」
「……」
「あーでもちょっと心配。お節介ってやつだけど。頑張りすぎって疲れねえ?」

 高尾くんは控えめに笑顔をつくった。そんなことを言われるなんて思ってもいなくて、動揺した。高尾くんに罵声を浴びせられてもいいはずなのに、それくらい私は醜い存在としてその目に映っているはずなのに。なんだか胸が苦しくなる。

「頑張ってないよ。高尾くんの方が部活とか頑張ってるでしょ?私帰宅部で勉強しかしてないのに、模試の結果悪かったし…」

 次第に声は小さく、気持ちは重くなっていく。せっかく高尾くんが私を気遣うような言葉をかけてくれたのに、私はそれを素直に飲み込めない。跳ね返すように自分の憂鬱ばかりを押し付けてしまう。めんどくさい子、だろう。私だって、こんな自分、大嫌いだ。瞬きをしないように、目に力を入れた。瞬きしたらきっと涙が落ちてしまう。

「じゃあさ、俺と部活つくろうよ」
「……え?」

 高尾くんは悪戯っぽい顔をした。部活をつくる……?あまりにも突発的なその提案に首を傾げた。

「そうだな……放課後遊びまくる部とかどうよ!」
「えっと、」
「活動日はバスケ部がオフの日!つまり今日!」
「何、するの?」
「名前の通り遊びまくるんだよ」

 私はぽかんとして高尾くんの顔を見る。得意げな表情に頼もしさを感じた。言ってることはめちゃくちゃだ。だけど、高尾くんが話すことはなんだか楽しそうな響きでキラキラしているように思えた。高尾くんは優しい。こんなどうしようもない私を、明るい世界へ誘ってくれるんだ。だけど。

「だめだよ、もう予備校行かなきゃ」
「一日くらいさぁ、サボっちゃおうよ」
「でも…」
「お願い!俺の息抜きに付き合って!」

 高尾くんは両手を合わせて眉を下げる。万引きしそうになったところを止めてもらったという借りがある私がこの人の誘いを断れるはずがなかった。スクールバッグの中には今日提出する宿題が入っている。でもそれに何の意味があるのか分からないほどに私はうんざりしていた。いっそ投げ捨ててしまいたい。高尾くんなら私が行きたかったどこか遠い場所へ連れて行ってくれるかもしれない。怖いけれど、行きたい。膝に置いた両手でスカートをぎゅうっと握った。

「…わかった」
「マジで?!よし、じゃあとりあえずこれ飲んじゃって」

 そう言って高尾くんは私の前にあるシェイクを指差した。私は落ち着かない気持ちのまま、汗をかいた容器を掴んで赤いストローに初めて口をつける。いくらか溶けて吸いやすくなったそれが喉を通って落ちると、甘ったるい味がした。


 ◆ ◆ ◆


 バンッバンッと機械から勢いよく飛び出したボールが宙を走る音がする。連れてかれたのは、バッティングセンターだった。横一列にいくつもバッターボックスが並んでいる。飛んでくる球の速さはそれぞれ違う。バッドを振っているのは、おじさんが多い。うまく当たった玉がネットまで運ばれていく。ネットの上の方には“ホームラン”と書かれた丸いボードがある。恐らくあそこを目掛けてバットを振るのだろう。

紗世ちゃんバッセン来たことある?」
「初めて」
「マジ?超スカッとするぜ」
「私、野球したことないけど…」
「へーきへーき。じゃあまず俺やるから見てて?」
「うん」
「バッター和成、いっきまーす!」

 高尾くんは笑顔をつくって敬礼のポーズをし、何やらマシーンを操作して、バットを持ってバーターボックスに立った。私はその後ろ姿を見ていた。不思議だ。高尾くんがこんなに近くにいるなんて。万引きを止めてくれたのは彼の正義感からで、私をここまで連れて来てくれたのは彼の気遣いからだ。だからきっと、私じゃなくても、他の誰かでも高尾くんは同じようにしたんだ。そう理解しているはずなのに、なんでこんなに、心臓がうるさいんだろう。おこがましくて、嫌になってしまう。
 高尾くんがバットを振る。しっかりとヒットになり、球は良い音を立てて飛んでいった。“ホームラン”の少し下に当たって落ちる。惜しい。その後も、何球かマシーンから飛び出てきたボールを高尾くんは全て打ち返した。

「あーあ、今日こそホームラン打ってやろうと思ったのに」

 そう言って、つまらなさそうな表情をつくった高尾くんがバットを置いて私の元まで来た。

「高尾くんすごいね。野球、やってたの?」
「んー、小学校のときちょっとだけね。ほら、紗世ちゃんの番!」
「…できるかな」
「一回振ってみてよ」

 言われるままバッターボックスに立って、生まれて初めてバットを構えた。おぼつかない。何の勝負をしているわけでもないのに、ドキドキする。甲子園の打席に立つ高校球児たちはどれほど緊張しているんだろう。そんなことを考えていたら球が飛んできた。ぎゅっと目を瞑りバットを振る。感触は、なかった。目を開けて下を見たらボールが転がっていた。空振りしたらしい。次の球も、その次の球も打ち返すことができなかった。足元にばかりボールが増えていく。それを後ろから見ていた高尾くんが来て「ちょっといい?」と私の背中から覆い被さるようにしてバットを握った。あまりにも近い距離に怯みそうになる。

「脇をもっとしめんの、こう」

 うん、と小さな声で頷いて言われた通りに脇をしめる。わざとやっているんじゃないかと思うくらいに近い。緊張しながら高尾くんの指摘を聞いていた。腰の高さやバットの向き、持つ位置を直されると、高尾くんは「このフォームのまんま打ってみ!あ、ボールのことムカつくやつだと思って、この野郎って」と言って、やっと体を離して後ろに下がった。気を緩ませないように集中しながらボールが来るのを待つ。ムカつくやつ。とっさに思いついたのは、弱い、くそったれな自分だ。ボールが来る。目は瞑らない。この野郎、だいっきらい。そう心の中で叫んでバットを振った。しっかりと球に当たり、初めて打ち返すことができた。

「できんじゃん!いいよその感じ!イチロー超えんじゃね?!」

 弾むような声が聴こえてきて、嬉しくなった。本当だ。高尾くんが言っていた通り、スカッとする。それからずっと、飛んでくる球をすべて打ち返した。10球ほど打ち終えた頃には、じんわりと汗をかき、心地よい肉体的疲労を感じていた。

「お疲れ」

 高尾くんにオレンジジュースを手渡され、慌ててお礼を言う。受け取ったアルミ缶が冷たくて心地いい。何だか今日は、高尾くんに貰ってばっかりだ。いろんなものを貰った気がする。私たちはロビーのベンチに座った。青いブリキのベンチだ。ここから他の人のバッティングを眺めることができる。

「どう?楽しかったっしょ?」

 自分用に買ったらしいコーラを一口飲んで、高尾くんが訊いてきた。私はジュースのプルタブを引いてフタを開ける。

「うん、すごいすっきりした。高尾くんよく来るの?」
「来るよ、バスケしたくない時とかさ」

 その発言が、何だか意外で、高尾くんの顔を見る。いつもと変わらない、余裕のある表情を貼りつけていた。

「バスケしたくない時なんて、あるんだ」

 高尾くんは一年生なのに、もうバスケ部のスタメンとして試合に出ている。クラスの男子がそう口にしていたのを聞いた。毎年全国大会に出るようなバスケ部で、そんな立場を確立している高尾くんが、バスケをしたくないなんて思うことが意外だった。

「そりゃあるよ?ぼっこぼこに負けた時とか、やってもやっても上達しねー時も。イラつくよなぁ」

 そう言った高尾くんの表情はちょっと、ちょっとだけ脆弱な、初めて見る顔だった。
 わかる。知ってる。この表情、いつも私がしているような顔だ。自分的には努力しているつもりでも、うまくいかない。やがてどうしてこんなに頑張ってるのかがわからなくなって、何のためにやってるのか考えても考えてもわからなくって、もう頑張り方さえもわからなくなって、私はもう、自分がわからない。なんにも、わからない。わからないまま歩いているから、迷子になるんだ。急げば急ぐほど、道がわからない。そもそも行き先すらわからない。私はどこに向かっているの?でももう、どうしようもないことだ。私はずっとそうやって生きてきた。

「だからさ、そういう時は無理に進もうとすんの止めて、立ち止まるようにしてんだよね俺」
「…立ち止まる?」
「ちょっと休憩、つって。ただ怠け者なだけだけどねー」

 私は、どうだろう。多分、立ち止まることなんてできない。立ち止まったら、だめ。だってそれは努力をしてないことになるから。頑張ってない自分なんて、もう最悪、一番嫌い、だから。怒られちゃう。道がわからなくても、行き先がわからなくても、どれだけくたびれていても、歩かなきゃ。進まなきゃ。

「でも立ち止まって初めて見える景色ってあると思うんだよ、ってなんかくせーな俺!いや、でも、まじでね?その景色見て気分転換してさ、たまにヒントもらって、また頑張ろうって思えんだよ」

 高尾くんの目が私だけに向けられる。鋭い、何でも見えていそうな目。ちょっと怖い、と思っていたけれど、よく見るとその瞳の奥にはあたたかい光がある。高尾くんはきっと、優しい人だ。

紗世ちゃんはやっぱ頑張りすぎ。たまには立ち止まって良いと思うぜ?荷物降ろしてさ。一人で立ち止まるのが嫌なら、俺が一緒に休むよ。つーか、一緒に休ませて。そんでまた頑張ろうぜ」

 そう笑った高尾くんの言葉を聞いて私は、私は。重い栓が抜けたように、急激に、胸から込み上げてくる、今まで押さえつけていた感情に気づいた。苦しい、休みたい。涙まで溢れ出しそうだ。許されないと思っていた感情、許してはいけないと、消そうと努力した感情。それを高尾くんは許してくれた。一緒に立ち止まってくれるって、一緒に進んでくれるって。私はどれだけその言葉を求めていたんだろう。そう言ってくれる人を、待っていたんだろう。臆病で馬鹿で、立ち止まるのを怖れていた私。高尾くんはそんな私の手を掴んでくれた。高尾くんがいなかったらきっと、私は無意味な万引きをはたらいていた。ただのクラスメイト、無視してもいいような存在である私の荷物を降ろしてくれた。本人にそんな気はないのかもしれない、ただの親切だろう。けど私は、もう、救われていた。

「…そうだよね。たまには立ち止まらなきゃね」
「そうだよ、そのために俺たち放課後遊びまくる部は創部されたわけ」
「ありがとう、高尾くん」
「次はさ、ゲーセン行こうよ。あとカラオケ。韓国料理食べ放題の店とかどう?」
「うん、行く。ぜんぶ行く」
「よっしゃ」

 私たちは二人で笑った。同じ笑顔を見せ合った。久しぶりに、心から、楽しいと思った。明日からまた頑張ろうと、決心していた。
 ベンチから立ち上がり、飲み終わったジュースの缶をゴミ箱に捨てる。「そろそろ帰ろっか」高尾くんの言葉に頷き、私たちはバッティングセンターを後にした。
 外に出ると空はもう暗い。高く白く光っている丸い月が、なんとなく、ホームランで飛んでいったボールのように見えた。高尾くんと隣に並んで歩く。いろんなこと話しながら、少しずつ心が近づくのを感じる。全然話したことのない、ただのクラスメイトだったのに、たったこれだけの時間で高尾くんは、私の大切な友達になっていた。いや本当のことを言えば、すごくゲンキンだけど、照れくさいけれど、ひょっとしたらだけど、私は高尾くんを好きになっているのかもしれない。揺れる手と手が触れそうになるたびに、その感情が濃くなるのを密かに感じていた。


溶かされた心が笑ってる
20150323