謙也さんは本当は4月10日に生まれる予定だったらしい。それが、出産予定日までお腹の中で待っていられずに一ヶ月近く早い3月17日にこの世に出てきてしまったのだという。そんな話がテニス部の間で盛り上がった。呆れた。いかにもあの人らしい話だ。生まれる前からスピードスターだったのだ。私はそれが、悔しくてたまらない。なんで、なんで四月まで待ってくれなかったの。


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 卒業式の予行練習を終えて教室へ戻る。クラスメイトはみんな、だるかった〜とか、体育館寒すぎやろとか、各々感想を口にしている。明日が卒業式本番だ。でも、この中学校を卒業するのは私たちではなく、ひとつ上の先輩。私たち二年生は先輩たちの最後の晴れ舞台を見届けるために出席する。みんな億劫そうにしているけれど、私は、それとは全く別の理由で卒業式に出席するのが憂鬱だった。

「ざいぜーん」
「前向けや」

 帰りのHRで先生が連絡事項を述べている間に、退屈になって後ろの席の財前に話しかけた。そしたら予想通り、面倒くさそうな顔で弾き返された。けれどそれももう慣れっこだから、私はへこたれずにしゃべり続ける。

「明日式終わったらテニス部集まって写真撮るんだって。二年も一緒にって」
「だっる。俺行かんでもええ?」
「さすがに部長なんだから来てよ」
「どうせ謙也さんが一人で勝手に盛り上がって言い出したんやろ」
「まあ、そうだけど」

 まったく、あの人は。そんなことを言いたげな顔をして財前は頬杖をついた。私は謙也さんのことを考えて、少し寂しくなっていた。謙也さんは明日卒業してしまうのだ。別に一生会えなくなるわけでもないのに、それでも私は嫌だった。うまく言えないけれど、この学校がつまらない場所になるような、絶望的な予感がしていた。私がそんなことを胸に抱いていることに気づいているのか、財前がじーっと無言でこっちに視線を寄越してくる。私は何だか焦ってしまう。

「な、なに」
「高校ってどないやろな」
「はぁ?」
「楽しいんやろなあ?中学と違うて自由やし。かわええ子もなんぼでもおるんやろな」

 ほぼ棒読みでそんなことを言うと財前はにやっと笑った。……こいつ、わかっててやってる。まったく意地の悪い男だ。謙也さんが卒業してしまう寂しさと、新しく高校生活を始めることへの不安に、私が押しつぶされそうになっているのを知っていて、茶化すようにこんなことを言うのだ。ふてくされる素振りをして、財前を睨んだ。

「告白もできへん小心者な自分が悪いんやん」

 何も言い返せない。私はただ気分をよりいっそ重くして、ようやく前を向いた。先生が話を終えたらしく、日直が号令をかけて帰りの挨拶をした。ぞろぞろとみんなが教室を後にする。財前も行ってしまった。卒業式前日は部活がないから、財前は新しいゲームを引き取りに行くらしい。本当にちっとも寂しそうな様子を見せなかったけれど、財前だって先輩たちへの思い入れは他の部員以上にある。明日、面倒くさそうにしながらも写真は撮ってくれるだろう。財前のそういうところ、なんかかわいくていいなって思う。黒板には明日のスケジュールが細かく書いてある。明日のお昼になればもう式は終わってしまう。先輩たちがここの生徒じゃなくなってしまう。いやだ。すごく。本当にやだ。
 私も鞄を持って席を立ち、教室を出る。廊下を歩いていると不思議な気持ちになった。私はあと一年、ここで過ごすのだ。どうして、きっちり三年間なんだろう。頭良い人も悪い人もみんな三年間ここで勉強して出て行く。成績良い人は早く卒業できるとか、馬鹿な人は留年するとか、そういう制度があればいいのに。…謙也さんは、頭悪そうに見えて意外と悪くないから留年してくれないだろうけど。
 帰り道を一人とぼとぼ歩く。もう三月なのにマフラーしていてもおかしくない程度には寒い。桜はまだ咲いていない。春なんて、来ない。ふと財前が私をおちょくって言ったことを思い出した。高校はどんなところなんだろう。私はまだ受験のこととか頭にないけれど。きっと本当に、今よりは自由で、かわいい女の子がたくさんいるところなんだろう。少女漫画を読んでいると、大抵登場人物は高校生な気がする。自転車二人乗りしたり、学校の屋上でお弁当食べたり、文化祭でおばけ屋敷入ったり。中学生でもできそうなことなのに、なぜか、漫画の中でそういう青春を送っているのは高校生の男女ばっかりだ。なんだか高校生って、特別だ。
 謙也さんも高校に行ったら、かわいい女の子とそんな風に青春を謳歌するのかな。部活も頑張りながら、好きな女の子のことで悩んだりもするのかな。そう考えた瞬間泣きたくなった。ただの妄想なのに、まだ見ぬ謙也さんの想い人に嫉妬した。私はまだ子どもだ。やっぱりどうしても、中学生なのだ。
 気分が沈み、帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄った。こういうときはやけ食いだ。甘いものを食べるに限る。店の中に入ると「いらっしゃいませー」と若い店員の声に迎えられる。きっとアルバイトの高校生だ。いいなあ、高校生になればバイトもできるんだ。何だってできちゃうんだ。すごく、大人に見える。遠い存在に思えてまた辛辣な気持ちになった。私は迷うことなくスイーツコーナーに向かう。プリン、エクレア、ガトーショコラ、シュークリーム。安いコンビニスイーツが個性を主張して並んでいる。どれにしよう。どれなら私の悲しみを癒してくれるだろう。

「あれ、何しとるん」

 突然耳に降ってきた声に驚いて、勢いよく顔をその声がする方に向けた。すぐにわかった、大好きな声だから。

「謙也さん、」
「奇遇やな…は!さては俺のことつけてたんとちゃう?あんぱん食べながら張り込みしてたんやろ〜この容疑者忍足謙也を〜?」
「……はぁ」
「ちょ、つっこんでや!」
「謙也さん明日卒業なのに、元気ですね」

 「まあな」と言って笑った謙也さん。小さな星屑がきらきらと舞い散るような笑顔だ。胸がずきんと痛んだ。いつもだったら私は日々の部活で学んだツッコミを華麗に披露するところだが(テニス部なのに週に二回お笑い講座があるのだ)、今はそんな元気なんてない。謙也さんは、私が見ていたスイーツコーナーについて言及した。

「甘いモン買いに来たん?」
「えっ、奢ってくれるんですか!ありがとうございます」
「何も言うてへんけど?!」
「シュークリーム買ってください」
「潔いな!」

 四天宝寺の生徒特有のコントのような会話を繰り広げる。謙也さんは楽しそうだ。やっぱり謙也さんは、ボケよりもツッコミ。不憫なツッコミという役をやらせたらピカイチだ。すごく、どうでもいいけれど。謙也さんが笑っていると、私も笑いたくなる。明日卒業しちゃうなんて、嘘みたい。

「だって謙也さん先輩でしょ?」
「こういう時ばっか後輩面しよって…」
「……謙也さんが早く生まれたのが悪いもん」
「ったく、しゃあないなぁ」

 謙也さんはやれやれと肩をすくめるポーズをして、棚からシュークリームを二つ手にとった。私は「ありがとうございます」と、“てへぺろ”的ウィンクを献上した。謙也さんは不服そうな顔をしたけれど、実際のところ全く不服だと感じていないということはわかる。笑っているもん。そこが好き。謙也さんがレジに向かう。その背中を見てまたセンチメンタルに飲み込まれた。黒い学ラン。明後日からはこれを着ないのだ。その姿を見ていたくなくて、先にコンビニから出て、設置されたゴミ箱の前で謙也さんが来るのを待っていた。やっぱり外は寒い。ぶるっと震えてマフラーに顔をうずめた。
 私だって好きで後輩やってるわけじゃない。できることなら、謙也さんと同い年に生まれたかった。そりゃあ後輩って、可愛がってはもらえるけども。シュークリームだってきっと、私が後輩だから買ってくれたものだ。でも、私が本当にほしいのは、分かち合える時間だ。本当になりたいのは、もっと対等な関係だ。同じ学年になりたかった。クラス替えの時にドキドキしたり、修学旅行に一緒に行けたり、お互いの卒業アルバムにメッセージを書いたり、そんなことを、してみたかった。一生叶わないのだ。私が謙也さんの年に追いついたと思ったらすぐにまた差ができてしまう。一生埋まることのない、差。当たり前だ。中二の私でもわかる。でも、当たり前のそれがこんなにも私を苦しめるのだ。

「ほら、買うてきたで」

 コンビニから出てきた謙也さんがすぐに私を見つけ、シュークリームを一つ差し出した。私は自分でもぎこちないとわかる笑顔をつくってそれを受け取った。中学生が学校の帰りに買い食いするのはお行儀がよくないので、私たちはシュークリームにありつけずに手に持ったまま、二人並んで帰り道を歩いた。たまーに部活の後一緒に帰ることがあった。その度に嬉しくてたまらないのをどうにか押さえて謙也さんとの会話を弾ませるのに必死だった。それも今日が最後だ。あと少し歩けば分かれ道に着いてしまう。

「なあ、今日元気あらへんな」
「……え?」
「ずっとテンション駄々下がりやん。お通夜かて」

 本当に、もう。謙也さんはそういう人だ。人が落ち込んでる時とか悩んでる時とか、すぐ察してしまう人だ。人の痛みに関しては敏感だ。そんなところも、大好きだった。けれど、私が元気ない原因が自分にあるということには恐らく気づいていない。

「あ。自分あれやろ、俺が明日卒業してまうんが寂しいんやろ!いたいけな少女に悲しい思いさせて、俺も罪な男やで全く〜」
「……」
「…さすがにつっこんでくれへんときつい」

 謙也さんが冗談のつもりで言った台詞は、まさに私の核心をついていて、冗談ではなくて本当に、死ぬほど図星だった。私はだんだん腹が立ってきた。謙也さんがこんなにもノーテンキで、何も迷いも躊躇いもないまま明日を迎えようとしている。それが私はむかついた。ぎゅっと噛み締めていた口を動かす。

「寂しいですよ」
「へ?」
「めちゃくちゃ寂しいって言ってるんです。卒業とかマジありえない。謙也さんが何かの手違いでもう一年中学生だったら良いのにって、思ってます。ばか」
「あ、新しいボケ…やんな…?」
「…さあどうでしょう、ね」

 謙也さんは驚いたように私の表情を窺ってくるけれど、私は一切目を合わせないようにして、前だけを見て歩いた。言ってしまえば逆ギレだ。謙也さんが何か悪いことをしたわけじゃないけれど、卒業してしまうというその事実だけが気に入らないから、私は謙也さんに八つ当たりした。そしてこれは逆ギレであると同時に、精一杯の愛の告白だった。この人は人が自分に向ける好意に鈍感だから伝わったかどうかはわからないけれど。本当はもっと、ちゃんとした、かわいい告白がしたかった。好きです、付き合ってください。そう口にしたかった。なんにも伝わらない。誰にも負けないくらい好きなのに。
 会話が途切れたまま、二人で早歩きして、もう分かれなくてはならない交差点まで来てしまった。私は足を止めて謙也さんと久しぶりに視線を交わした。

「シュークリームありがとうございました。それじゃあまた明日…」
「ちょお待ち!」
「はい?」
「お前、俺の高校来い」

 自分の家の方向に爪先を向けていた私は目を丸くした。全く予想していなかった変化球を投げられて、ポカンと見逃した状態だ。どう打ち返したらいいのかわからない。謙也さんはまっすぐに私を見つめた。恥ずかしくなって、目を逸らす。動揺しているのがバレないように努めて静かな声を出す。

「どういう意味ですか」
「どうせまだ受験するとことか決めてへんのやろ?せやったら、高校でもまた俺の後輩になってや」
「なんでそんなこと…」
「なんでやろな、俺もよおわからん!」

 謙也さんは笑った。開き直っているような笑顔だ。その笑顔が私の心を掻き乱していく。私の心に期待をもたらしてしまう。

「けど、自分とまた同じ学校通えたら、アホみたいに楽しいスクールライフ送れそうな気するわ」
「何それ…」

 次々と予想外の言葉を私に向かって投げてくる。真意はわからない。わからないから、どう受け取ったらいいのかも、どう返したらいいのかもわからない。けれど、その言葉はどんな意味が含まれていても、私の心臓をせわしく動かすのには十分だった。謙也さんは相変わらず目を逸らさずに、こちらをまっすぐ見ている。この目も、ずっと好きだった。胸から何かが込み上げてくる。ずっと前から、謙也さんのことが好きだった。

「言うとくけど、俺、待ち時間嫌いやからな?ほら、俺がオカンの腹ん中で待ってられへんくて予定日よりはよ出てきた話有名やろ?そんくらい待つの嫌いやねん。そんな俺が一年も待つ言うてるんやで?自分どんだけすごいかわかっとるか?ノーベル賞レベルやからな!」

 早口で放たれたその言葉は確かな温度を伴って私の耳に届いた。泣きたくなるくらい優しかった。ちょっと、ノーベル賞のくだりは何が言いたいのかよくわからないけれども、つまり謙也さんは、私のことを待ってくれるんだろう。それが、どんな心情の元に宣言されたのかはわからない。別に深い意味なんてないのかもしれない。それでも、恋する乙女は単純だ。憂鬱なんてとっくに吹き飛んでしまった。私はそっと口角を上げて、

「すべり止めの候補に入れておきます」

 嫌味ったらしくそう告げると、謙也さんは上等だと言うようにしたり顔をした。私は今度は本物の笑顔を見せる。二人を暖かい空気が包む。春生まれの謙也さん。謙也さんは夏っぽいなって思っていたけれど、やっぱりこの人は春だ。春そのものだ。私にひだまりを与えてくれる人だ。

「また明日な」
「はい、また明日」
「写真撮るんやから、気合い入れて来いや」
「…ツーショットも撮ってくれます?」
「おん。俺は白石と違うて写真待ち女子の列できひんからな!なんぼでも撮ったるわ!」
「自虐ですよ、それ」

 私の笑顔は途切れない。頬を引き締める余地は与えられない。だって仕方ない。今、こんなに幸せな状況なんだもん。中学生活の中で最高って言ってもいいくらい、嬉しいんだもん。
 謙也さんと別れて、自分の帰り道を歩いていく。明日は卒業式だ。先輩たちがみんな卒業してしまう。寂しいことには変わりないけれど、もう不安な気持ちに押しつぶされることはなかった。私だって一年後卒業する。高校生になる。その時もできれば謙也さんと同じ道を歩きたい。そしていつか、謙也さんの彼女に、なれたらいいな。彼女、くすぐったい響きに一人照れ臭くなった。こんなに楽しい未来が広がっている。だからもう明日が怖くなんてない。
 家に帰ったら手洗いうがいをしてご飯を食べて、食後のデザートにシュークリームを頬張ろう。そして明日に備えて早く寝よう。明日はマフラーなんて巻かなくてもいい。きっと暖かい一日になるだろう。


春の国まで

20150310