私、という人間はとても、とーってもちっぽけで、もうこの世の中に存在する物体として認められて良いものなのか分からないくらい、不確かで、何の役にも立たない人間だ。そんな私の人生はといえば、何の目的も無く生きてきて、何故か心から分かり合える友達が出来なくて、中二のときに当時付き合っていた不良の先輩で処女を捨てて、テキトーに高校に入って、テキトーに大学に進学するも、相変わらず何の目的も生き甲斐もなく毎日を過ごして、知り合いはどんどん増えてもやっぱり本当の友達はできなくて、大して好きでもない男と付き合って別れて、また他の男と付き合って別れて、いつからかビッチと呼ばれるようになって、これが私の才能なんだと気づいて大学を中退、自業自得だけど親には呆れられ見放され、汚れた街の裏の裏の裏にあるエッチな店で、疲れたサラリーマンや売れない芸人や自称ヤクザの下っ端ばかりを相手にして、客が私の店で使っている名前を叫ぶたびに私は自分がどこにいるのか分からなくなって、それでも必要とされないよりはましだから必死に奉仕をして、でもきっとその男たちは店から出たら私の顔などすぐ忘れて、いよいよ私の憂鬱はパンクしそうになるのだけれども、だけど仕方ないか、これが私だもん私に価値なんてないんだもんここでしか生きられないんだもん、って、諦めながら底なし沼に浸かって生きているような人生だ。とんだ笑い話だ!ザ・負け犬人生!でももうどうにもならないから、私はこんな人間だから、抜け出そうとも思わない。抜け出すことなんて、できない。
 時々、思う。死んじゃってもいいかって。別にこの人生が苦しすぎて死にたいという強い願望があるわけじゃない。もちろん、満足だから死んでもいいという幸福な妥協でもない。何というかこれは……万が一、今、私を目掛けて雷が落ちて死んでしまってもまあ仕方ないんじゃないかな、みたいな。無理にその死を拒もうとはしないんじゃないかな、そこまでして生きなきゃいけない理由ないし、みたいな、気持ち。だって仕方ない。私はこんなにもちっぽけで誰にとっても重要人物には成り得なくて、私の代わりはたくさんいて、誰にも影響を及ぼすことなく、酸素を吸って二酸化炭素を吐くだけの存在で。きっと死んだって、この世界は少しも動揺してくれない。だからって自分から痛い思いをして死にたいとまでは思わないけれど、でもやっぱり、不慮の事故とか、何かの不運でなら、死んじゃってもいいや。

× × × × ×

「おきて、」

 くぐもって響いた優しい声と、揺らされた肩から伝わった振動で目を覚ますと、私は狭いバスタブの中にいた。胸まで浸かっているお湯は、通常あるべき温度よりもいくらか、ぬるい。それに気付いて鳥肌が立つ。またお風呂に入ったまま眠りに落ちてしまったのだと思い出す。そしてきっといつものようにバスタブの外からしゃがみ込んで私を起こしてくれたのであろう辰也に目を向けると、元々綺麗な眉の形を少し崩して、ため息を吐かれた。

「お風呂で寝るなっていつも言ってるだろ?毎回起こさなくちゃいけない俺の身にもなってくれよ」
「……起こさなくていいのに」
「こんなところで寝たら風邪引くから」
「いいよ別に」
「わかってないな。死ぬ危険だってあるんだぞ」
「いいって別に」
「…何やけになってるんだ、嫌な夢でも見た?」
「死んでもいいかなって考えてただけ」

 辰也の顔がますます歪む。ぬるいお湯が心地よくなってきた。だんだん自分の体温が奪われていく。死に近づいていく、気がする。私は意味も無く右手ですくったお湯が、指の隙間から落ちていくのを見ていた。辰也のこの、お節介なところが嫌い。大体こんな風俗嬢と一緒に暮らしてるんだから、頭おかしい。私よりもずっと暖かな場所にいて陽を浴びているのに、綺麗な人間なのに、私のこと汚い女だってわかってるくせに、さも同じ人種の仲間のように、私に優しくするから、嫌になる。単なる劣等感だ。余計自分の無意味さを実感させられる。いつだって、このバスタブの中から私を引っ張り出そうとする、辰也の手が嫌い。

「生きてたって意味ないし、私」
「そんなことない」
「やめてよ、良い人ぶるの。死にたいって言ってるわけじゃないんだから」
「…じゃあ何が言いたいんだ」
「私が死んだって誰も困らないでしょ、世の中何も変わらないでしょ。正義のヒーローでもないし。だったらなんか、生きてるの面倒くさいかも」

 辰也は私のふざけた話を真剣な顔して聞いていた。自分が口にしたことが、自分の考えていることと若干違っているような気もしたけれど、低ランクの大学中退レベルの語彙力ではどうにも上手に言葉にすることはできない。でも、全く違うわけでもなかった。自分が死んだ後の世界を想像してみると、今と同じくらい平和で、今と変わらず物騒だ。多分1ミリも変わらない。
 どうせ慰めの言葉をかけてくるんだろうと思っていた辰也は、少し間を置いた後に、意外にも「そうだね」と私に同意した。

「君が死んだって、花は咲くし風は凪いて星は光る。確かに世の中何も変わらない。俺が死んでもきっとそうだ」

 その声ははっきりとしていた。どこまでも珍しい言動だった。辰也は甘ったるい虚構ではなく、確かな現実をつきつけてきた。私は動揺した。胸がずきんっと痛むのを感じた。多分、この男だけには、現実を否定してほしいという願望を心の深くに持っていた。だから、辰也に、私が死んでも世の中は変わらないと言われてしまったら、私は本当に死んでもいい存在だ。生きるモチベーションが急速に下がっていく。もう地に着く。仕方ないと思っても、こんな自分だからと諦めても、納得できないのは何でだ。
 そんな私の気持ちなどわかるはずもない辰也が手を伸ばした。華奢な掌が私の頬に触れる。あたたかい。辰也と目が合う。片方しか出していないその目は、悲しみと慈愛に満ちているように思えた。

「でも君が死んだら、俺は、生きていけないよ」

 辰也はそう言って床に膝をついて、バスタブの外からこっちに乗り出すようにして、私の肩を寄せて強く抱いた。私の身体に触れた辰也のシャツが濡れていく。辰也はあたたかい。その言葉を聞いて、その体温に触れて、泣きたくなった。このお節介が、大嫌いだ。私はちっぽけなのに、何も価値のない人間なのに、辰也にそんなことを言われてしまったら、もう生きるしかないじゃないか。勝手だ。勝手に、私が生きなきゃいけない理由を作ってしまう。辰也はいつだって、このバスタブから私を引っ張り出そうとする。そのあたたかい手を、本当はいつも望んでいた。

「辰也、離れて。もう上がる」
「わかった?」
「…わかったから。もう変なこと言わないから」

 辰也は腕を離した。いつもの穏やかな笑みを浮かべていて、勝てないなと悔しい気持ちになる。結局のところ私は辰也に支配されているのだ。彼にその気がなくても、勝手に。こんなはずじゃなかった。私は笑い話にできるような、いつ死んでも仕方ないような、負け犬人生を歩んでいた。この人に会うまでは。

「ホットミルクを淹れるよ。それを飲んだら、暖かいベッドで一緒に寝よう」
「うん」

 湿ったシャツを気にする素振りは見せずに、辰也がバスルームから出ていった。私は立ち上がって、お湯の表面に小さな波ができるのを、ただ眺めていた。お風呂で寝ると死ぬ危険がある、というのは本当だろうか。本当なのかもしれない。でも私に限って、このバスタブで死ぬことはないという確信はある。お節介な辰也がわざわざ起こして引っ張り出してくれるからだ。いつまで経っても私を死なせてくれないからだ。だから私はこれからも注意せずにお風呂で寝ることがあるだろう。そして、辰也が来てくれなかったその時、私は死ぬのかもしれない。それで構わない。


浴槽に天国はあるか


20150205