chapter.1

「ごめん、やっぱり耐えられなくなっちゃった。別れよう」

 何のことだか、きっと他の誰かが聞いてもわからないであろうその冷たい言葉は、思っていたよりもすんなりと私の口から飛び出てきた。それを聞いた宮地は特に驚いた様子は見せずに変わらない表情のまま色素の薄い瞳で私を見た。後ろめたい気持ちがこみ上げてきて、宮地から目を逸らす。私たちがいる学校の廊下は夕陽に照らされて、ぼんやりとした明るさを帯びている。

「わかった」

 宮地の静かな声が聞こえてきても、私は彼を見なかった。その言葉もまた、何の躊躇いや嫌悪のない、平坦な返事だった。予想通りではあったし、でも内心引きとめられるんじゃないかと期待していた自分もいて、引きとめられはしなくてももう少ししつこく理由とか聞いてくるんじゃないかとその場合の返答を考えてもいた。宮地があっさりと別れを受け入れてくれるのが、少し寂しくて腹立たしい。もっと、言い訳させてよ。なんて別れを切り出した自分が思うのはすごく勝手なことだ。私はやっと宮地の顔を見る。落ち着いていて、全く悲しそうな表情をしていなくて、やっぱりこの別れは正しいのだと確信した。

「部活頑張ってね」

 素直な応援なのか、それとも醜い嫌味なのか。自分でも判断できない無意味な捨て台詞を吐いて私は長い廊下を歩き出す。
 別に悲しい気持ちなどはなかった。だって、そりゃそうだ。もう私、宮地のこと好きじゃないんだから。宮地と付き合っていたって楽しくないんだから。ただ、彼を見捨ててしまったという罪悪感を抱かずにはいられない。でもその罪悪感に支配されるのが嫌な私は、全部宮地が悪かったんだと開き直る。
 真剣に何かに打ち込む姿はかっこいい。って、みんな言うけれど、私もそう思っていたけれど、実際に何かに打ち込んでいる人と付き合ってみると、そのかっこいい姿に惹かれるよりも、それにばかり夢中で、構ってもらえない不満ばかりが膨らんでいく。私はバスケに勝てなかった。次第にバスケしている宮地を見ても、何のときめきも生まれず、むしろ苛立ちばかりが募るようになっていった。ああ、恋が終わったんだと思った。
 次に付き合う人は、何も頑張っていない人がいい。そんな人でいい。きっとそういう人の方が私には向いている。そうやって頭の中で宮地との恋を片付けながら、学校を出ていった。宮地はきっと今頃部活に行っているだろう。私のことなんかすぐに忘れて煉瓦色のボールを追いかけているんだろう。


chapter.2

 あのとき、私が宮地と別れたことを知った友達はみんな、やっぱりねと頷いて私は悪くないと庇ってくれた。宮地が部活ばっかりに熱中して私に寂しい思いをさせていたのが悪いんだと、女子会で結論が出された。
 あれからもうすぐ一年経つ。もうさすがに私の中で宮地はどうでもいい人になっていた。元カレの一人。好きでもなく嫌いでもない人。新しい恋をしているかと言えば、まだしていないけれど。

「ねえ今度バスケ部の練習試合観に行こうよ!」

 三年連続同じクラスになった友達が私の机まで来て、嬉しそうな声で言った提案に、思わず顔をしかめた。

「…はぁ?」
「なんかぁ一年生でめちゃくちゃバスケ上手い子が入ってきたんだって!えっと何とかの世代…?とにかく芸能人みたいに注目されてるらしいよ!見てみたいじゃーん!」
「あんたねぇ…」
「良いじゃん!新しい恋見つかるかもよぉ!」
「もうバスケ部はこりごりだわ」

 ちょっとしたブラックジョークを言うと二人で吹き出して笑った。こんな風に笑い話にできるような恋だったのだ。そう思えている自分に少し安心する。
 結局その熱意に負けて今度の土曜日に学校の体育館で行われる練習試合を観戦することになった。彼女曰く、すごい一年生は二人いるらしい。一人はその何とかの世代と呼ばれる高身長の選手で、中学のときからプロのスカウトにマークされている逸材らしい。そしてもう一人は、身長はそこまで高くないものの、何とかアイとか言うすごい目を持つ抜群のセンスがある選手らしい。ミーハーな友達の知識からだとこの程度にしか解釈することができない。そしてその二人は一年生にしてもう、スタメンで試合に出ているという。それを知って少し切ない気持ちになったのは、きっと宮地のことを思い出したからだ。宮地は一年の頃レギュラー入りすらしてなかったし、二年になってレギュラーになっても試合にはたまにしか出なかった。三年になった今、どうなのかは全く知らない。きっとそれが普通で、噂されている一年生が特別なだけなんだろう。それでも、報われない気がして、やるせない気持ちになった。おかしい、私は部活を頑張る宮地が嫌いだったのに。


chapter.3

 土曜日になり、練習試合を観に体育館まで来た。ただの練習試合なのに、観に来ている人がたくさんいた。やはり一年生が注目されているのだろう。二階のギャラリーで手すりに肘を立ててコートを見下ろす。「6番が緑間くんで、10番が高尾くん」と目を輝かせながら話す友達の隣で、私は8番の選手から目を離せなかった。その背番号のユニフォームを着ていたのは、宮地だった。彼の姿を見た瞬間ドキッと心臓が跳ね上がったのがわかって、焦燥した。可能性は大いにあるとは思っていたけれど、実際にスタメンとしてコートに立つ彼の姿を見ると、何だか夢を見ているような、ふわふわした気持ちになる。この姿を見たかった気がするし、一生見たくなかったような気もする。この高校、秀徳高校のバスケ部は全国常連の強豪だ。部員数も多い。実力主義で、一年生が試合に出て三年生がスタンドにいることだって当然ある。そんなチームの中でたった5人のスタメンに選ばれるということは、誰よりも努力しなければ叶わないだろう。
 試合開始のホイッスルが鳴った。スピード感のある試合が展開される。私はやはり、8番を目で追わずにはいられなかった。見るのが怖いと思っても、見てしまう。仕方ないじゃないか。いつだって宮地は私よりバスケを優先してきた。それほどずっとバスケに熱を入れていた。その結果を見てみたくなる。そもそもバスケしている姿を見るのはいつぶりだろう。付き合っていた頃だって、いつも話は聞いていたけど、実際に試合や練習をあまり見たことはなかった。……いや、付き合いたての頃はよく練習している宮地を見ていたかもしれない。自主練が終わるまで待っていた。いつの間にかそんなことをしなくなり、先に帰るようになっていた。
 コートでは宮地が必死に動いている。ずっとずっと宮地を見る。一年生のことなんて頭から消えていた。宮地がドリブルして、ディフェンスして、パスして、シュートして、リバウンドして、確かにバスケをしている。怖い、心臓、痛い。宮地は今、試合の中にいて、仲間から信用され、必要とされ、やっと掴んだ背番号をつけてバスケをしている。手が震え出す。

「がんばれ…」

 無意識に口から漏れた声は、隣にいる友達にすら聴こえないかもしれない、小さなものだった。当然宮地に届くはずのない応援だ。そんな声を出した自分に驚く。私は今、宮地を応援している。こんなにも必死に、心から。コート上を動き回っている宮地が、ぼやけて見えなくなった。涙が溢れていた。
 ああ、私はなんて馬鹿だったんだろう。
 宮地の、バスケをしている姿を見て好きになったのに。この姿が見たくて、支えたくて、好きになったはずなのに。どうして私はそれを忘れてしまったんだ。どうして耐えられないなんて酷い言葉を吐いて宮地を捨ててしまったんだ。宮地はこんなにも頑張っていたのに。胸が痛い。苦しい。焦がれる。こんなの最低だけど、自分勝手だけど、私、宮地が好きだ。思い出した。バスケをしている彼が大好きだったんだ。

「えっ?ちょっと!どうしたの!?…泣いてる?」

 試合を観るのに夢中だった友達が私の様子がおかしいのに気づいたらしく慌てて声をかけてきた。私は「何でもない」と言って涙を拭うけれど、その声はひどく掠れていた。彼女は私をしばらく不思議そうに見つめて、何か察したのか、ため息を吐いて私の頭を撫でた。コートでは一年生が見事なシュートを決めて観客を沸かせる。スコアボードを見ると、秀徳が圧勝していた。


chapter.4

 あの試合を観てから、宮地がまた特別な存在に戻ってしまった。別れた日の自分を咎めたい気持ちが強くなった。これを後悔と言うんだろう。バスケをしている宮地の姿を思い出すと涙腺が緩む。嬉しくて、悔しい。もし、付き合いたての時のように練習する宮地を待つことを億劫に思うことなく続けていたら、あんな別れを切り出さずにずっと愛せていただろうか。もっと近くにいられたのかな。そんなことばかりを考えては憂鬱に襲われる。何を今更、と嘲笑っても、滑稽なほどに宮地とやり直したい気持ちが膨らんでいた。今の私なら、わかってあげられる。宮地がバスケにかけてきた全てを愛してあげられる。一緒に進んでいくことができる。確信している。ひどいことをしてしまったけれど、もう一回だけそばに行くことが出来たら。許してもらえるのなら。
 独りよがりな思いがどんどん加速していった。宮地と話がしたいと思って、でも連絡する勇気が持てなくて、だからこうして自分のクラスのHRが終わった後に宮地のクラスの前でHRが終わるのを、壁にもたれて待っている。今日は全ての部活が活動のない日だ。一緒に帰って話せたらいい。謝って、やり直したいと伝えて、もしそれで断られたら悲しいけれど仕方ない。ただ、とにかく、伝えたい。
 HRが終わったらしく、教室がざわめき出した。ガラッと勢いよくドアが開いて一人二人と生徒が出てくる。私は壁にもたれるのをやめて、少し緊張しながら宮地が来るのを待ち構えた。背の高さでよく目立つ彼が目の前のドアから出てきた。ばっちり目が合い、宮地が足を止めた。「宮地」と小さな声を出したのとほとんど同時に「清志くーん」と高い声がした。宮地はかすかに顔を歪める。宮地の後ろから歩いてきた女子が宮地と話し始める。

「何だよ」
「先生に呼び出されて職員室行かなきゃいけなくなっちゃった」
「は?お前今度は何したんだよ」
「何もしてないよ〜!先帰ってていいよ」
「待ってやるから早く終わらせて来いよ」
「でも…」
「毎日部活で散々待たせてる俺への当てつけか?とっとと行け。十分以上待たねえからな」
「は、はーい!」

 その子は嬉々とした表情になった。一瞬私の方を見てきて、視線がかち合う。丸い目に上がったまつ毛が可愛らしい。女の子という言葉によく合う女の子だ。私が宮地の前にいるのが不思議だったのか、きょとんとしていたけれど、嫌味な感じはなく、すぐに行ってしまった。心の中にすーっと冷たい風が吹き抜けたような気がした。なにか、大切な何かを静かに攫っていったような気がした。再び宮地と顔を見合わせる。怪訝そうな顔はしていない。私は、怖くなった。

「わりぃ。で、何か用?」
「…いやこの前試合観に行ったからさ、なんとなく」
「ああ、そう」
「えっと、ごめんね急に。部活頑張ってね」
「…おう、ありがと」

 それ以上何も言わず、笑って、その場を去った。早く去りたかった。早く、宮地から離れたかった。階段を駆け下りて、下駄箱で靴を履き替えて、そそくさと校舎を出る。一人で、ローファーの二つの踵を鳴らして、帰っていく。結局宮地と話したかったことを何ひとつ話せなかった。別れた時と全く同じ捨て台詞を吐くことしかできなかった。はっきりとわかってしまったからだ。宮地の中にもう私はいない。私は彼にとってどうでもいい人間でしかない。そして、あの女の子は、宮地の彼女だ。きっとあの子は私と違って、部活ばかりに専念する宮地に文句の一つも垂れないんだろう。ずっと宮地を待っているんだろう。宮地を支えて、褒めて、癒してあげることができる女の子なんだろう。宮地は、あの子がいるからきつい部活だって頑張れるんだろう。もう、笑うしかなかった。馬鹿な話だ。私は勝手に自分が宮地を捨てたんだと思い込んでいたのだ。違った。宮地は私のような人間を必要としていなかっただけだ。私はあの子のようにはなれなかったんだ。それに気づいて初めて絶望感に苛まれた。しっかりと地を蹴って歩いているのに、今にも足から崩れ落ちてしまいそうな、そんな気分だ。
 夕陽がもうすぐ沈む。聴こえるはずのない、バスケットボールの弾む音が頭の中に響く。止まれと願っても鳴り止まない。シューズと床が擦れる音、ゴールのネットにボールが触れる音、荒い呼吸。すべてがぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。この前観に行った試合の宮地の姿を思い出しているうちに、私は、自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなった。


chapter.XX

プロローグには戻れない


20150118