もう限界は近いと感じていた。彼を愛するようになってから少しずつ、でも確実に自分の心が表面からぼろぼろと崩れていくのを感じていた。愛しているのに愛してくれない男と、愛してくれるのに愛せない男の間を行き来して、自分が人間から遠ざかっていくような感覚を味わってきた。発狂するまできっと、あと少しだ。危機を感じるのに、それでも身動きをとれずにいる。いつまで経っても、どうしたらいいのか、何が正しいのか答えが見つからない。蜘蛛の巣にでも引っかかったかのように、もがいていた。もがく足の動きが止まる頃には、きっと私は死んでいる。
 いつも利用するところとは違うラブホテルに、蔵ノ介と入った。会う場所を家からホテルに変えたけれど、なんとなくホテルの場所も時々変えようということになった。そこまでしてこの関係をやめないんだから、馬鹿な二人だ。最近、蔵ノ介と会う回数が減って、謙也と過ごす時間が増えた。正しいことだと感じた。このまま蔵ノ介と会わなくなって謙也をまた好きになれたら、きっとそれが一番正しいことだと、自分のために良いことだと、人間に戻ることができるのだと、頭では理解している。けれど、謙也と会えば会うほど、後ろめたい気持ちが膨らんでいく。彼の優しさに触れると死にたくなる。居心地が悪くて、早く時間が経つことを願ってしまう。そしてまた自己嫌悪する。あんなに好きだったはずの謙也をどうしてもう愛せないのか。自己嫌悪するたびに結局蔵ノ介に会いたくなる。蔵ノ介のことを考えてしまう。きっと私は謙也をもう一度好きになることはできないのだと思う。他のことは何もわからないのに、悲しいくらいにそれだけはわかる。じゃあ、私はどうしたらいいんだろう。早く終わらせなくては、答えを出さなくては、と思うけれど、何も捨てる気のない男と捨ててほしいと言い出す勇気のない女の間にはもう、何も生まれない。
 ホテルの部屋に入ってすぐに蔵ノ介とキスをした。何もかも忘れたい。狂いたい。蔵ノ介と愛し合うといつもそんなことばかり考えている。そもそもそんな忘れたいことの原因はこれだというのに。

「シャワー浴びてくる。待ってて」

 そう言ってシャワーに向かった。服を脱いで下着も脱いでシャワーを身体にあてる。最近随分と痩せた。食欲が湧かないことが多い。胸が詰まるようなそんな感覚で、食事をとるのも億劫になってくる。謙也に心配された。ちゃんと食べないと倒れるって。胸が小さくなったともからかわれた。全部蔵ノ介のせいにしたくなるけれど、結局ここまでのめり込んでいる自分が一番悪いのだと気づく。気づくけれど、それをそのまま受け入れては憂鬱になるからやっぱり蔵ノ介のせいにする。何もかも、蔵ノ介が悪い。
 再び服を着て部屋に戻ると、蔵ノ介が誰かと電話で話しているのが見えた。ぞくっと身体に悪寒が走り、私は耳を塞ぎたくなる。蔵ノ介はきっと、彼の恋人と電話をしている。優しそうな声色で判断できる。「今からすぐ行くから、待っとって。なあ、絶対アホなことするんやないで」そんな蔵ノ介の言葉を聞いて、不安と恐怖と敗北感が一気に襲ってくる。泣きたいのを堪えて蔵ノ介に近寄る。すると蔵ノ介は険しそうな表情を私に向けた。

「すまん、今から行かなあかんようになった」
「彼女、何だって」
「泣きながら、子供できたかもしれないって」

 恋人が妊娠したかもしれない。とんでもないことを言い出した蔵ノ介は余裕のなさそうに冷や汗をかいていた。こんな彼はめったに見ない。これからセックスなんてとてもできないだろう。私と会ってるときに彼女から連絡が来るのはよくあることだった。呼び出されて蔵ノ介が恋人の元に行ってしまうのも。そのとき、私はいつも、彼を止めない。止められるわけがない。いってらっしゃいと笑顔で言うことしかできない。
 焦っている蔵ノ介を見て思う。蔵ノ介の恋人は妊娠なんかしてない。絶対そうだ。彼女は嘘をついている。わかる。だって私が彼女の立場だったらきっと同じことを言う。彼の子供を孕んで、彼を繋ぎ止める。先ほど抱いた不安と恐怖と敗北感はだんだん彼の恋人に対する怒りと軽蔑に変わっていく。ここで、いつものように黙って見送ったらもう二度と蔵ノ介に会えない。そんな予感が頭をよぎり、私は静かに口を開く。

「嘘だよ」
「え?」
「嘘ついてるんだよ。絶対嘘だよ。蔵ノ介の気を引きたいだけだよ。行ったら思い通りだよ」

 蔵ノ介は少し驚いたような顔をして私を見る。私は、手が震える。蔵ノ介にこんなことを言ったのは初めてだ。私は自分が真の恋人ではなく、浮気相手でしかないことを重々承知して蔵ノ介と関係を持っていた。蔵ノ介はきっとそんな私を望んでいる。だから彼の女に対しての嫉妬なんて口にしないし、彼を困らせるような真似もしたことがない。それなのに初めて、彼と彼の恋人の話に口出しをした。

「確かに嘘かもしれへん。でも今俺が行かなかったら、多分あいつ、自殺するで」

 冗談でも何でもなく、真剣な顔をして、蔵ノ介が言った。それは大袈裟な話ではなかった。蔵ノ介の恋人は蔵ノ介を愛している。そして私の存在を感じて、情緒不安定になっている。妊娠したかもしれない。事実でも嘘でも、こんなことを蔵ノ介に言って、それでも彼が自分ではなく浮気相手の女をとったら……。本当に死ぬかもしれない。痛いほどわかる。でも、だったら私だって死にたい。
 蔵ノ介は会話をもう終わらせたいように上着を着る。やだ、やだ、行かないで。いつも思う。彼が恋人の元へ行ってしまうたびに、口には出さず心の中で何度も呼び止めて、泣き縋る。もっと一緒にいたい。私のものにしたい。私だって、彼がいなくなったら死んでしまう。

「ねえ、蔵ノ介」
「何や」
「蔵ノ介が彼女の所に行ったら、私自殺する」

 私の重い声を聞き、蔵ノ介は目を見開いた。驚くに決まっている。私は今まで物分かりのいい女だった。都合のいい浮気相手だった。それなのに今の私は、ただの女だ。ただの、恋する女だ。

「…何言うてんねん。脅さんといてや。また会えるから、今は、」
「私、蔵ノ介が好きなんだよ」
「俺も好きやで?せやけど、」
「違う、違うよ蔵ノ介」
「何が違うん?ええ加減にしないと怒るで」
「蔵ノ介…」

 蔵ノ介がドアノブに伸ばした手に自分の手を重ねた。蔵ノ介の手も震えている。そうわかって、もうお仕舞いなのだと悟った。蔵ノ介は怪訝そうな顔をしている。私は、自然と口角が上がる。振り絞るように声を出す。

「愛してるの」
「え、」
「蔵ノ介、愛してる」

 初めてその言葉を口にした瞬間、世界が音を立てて崩壊していくのがわかった。ああ、滅亡だ。もう元には戻れない。きっと蔵ノ介と出会ったその日、ヒビが入った。会うたびに抱かれるたびにヒビはどんどん増えていって、それに気づかないふりをして何とか壊さずに保っていたのに。最後は自分の手で壊してしまった。
 愛してるなんて言ってはいけない。それだけは絶対に言ってはいけない。そう注意しながらこの関係を続けてきた。重い女になったら蔵ノ介に必要とされなくなるからだ。同時にこの言葉を口にしないことが私にとっての唯一の道徳だった。私がまともな人間でいるための条件で、謙也への最後の情だった。でも、だって、どうしようもなかった。私は彼を愛しているんだ、どうしようもなく、心から。恋人の元へ向かおうとする彼を見て、この衝動を押さえることなんて今の私にはできなかった。お仕舞いだ。私はもう人間ではいられない。優しい恋人に、謙也に会うことはできない。
 蔵ノ介はもう何も言わなかった。ただ私のことを怖がるような目で見ていた。彼は、私を、愛してなんかいない。自分の手を蔵ノ介の手から離し、しゃがみ込んだ。堪えていた涙が溢れ出る。もう私は蔵ノ介に必要とされる女ではない。一生彼の心に触れることはできない。恋に病んで痩せこけた、惨めな女だ。そんな私に何の価値がある。何を求めて生きていけばいい。ここは地獄だ。この救いのない地獄に、私は故意に墜ちたのだ。


した地獄


20141214