雨粒が窓を叩く音を聴きながら、煮込んだカレーをスプーンひとくち、味見した。中辛、うん、いい感じ。圧力鍋で作るカレーはおいしい。お肉もじゃがいもも柔らかくて、にんじんも玉ねぎも甘みを増す。ここで暮らすようになって初めて料理というものを覚えた。やっぱり何事も回数をこなしていけば、上達するものだ。始めの頃は、味のしないハンバーグや真っ黒なパンケーキを何度も作っていたけれど、今ではそれなりにちゃんとしたものを作れるようになっていた。どんな酷いものを作っても笑顔で食べる光太郎が、そうさせたのだと思う。
 ピンポーン、とインターフォンの音が鳴った。反応する間を与えずに「俺や!開けてくれー!」と声が聴こえる。まぎれもなく光太郎の声だ。いつも自分で鍵を開けて入るのにどうしたのだろう。訝しげに思いながら、私は火を止めて、すぐそこの玄関まで歩き、ドアを開けた。

「光太郎?」
「すまんな」

 黒髪から水が滴り落ちる。「鍵忘れたの?」と聞こうとしたら、聴き慣れない小さな音がすぐ近くから届いた。みー、みー……。発信源は光太郎が両腕で抱えているタオルの中だ。小さな茶色い猫が鳴き声をあげている。光太郎を睨むと、言い訳っぽく笑顔をつくった。それを見て彼に起きた出来事を察する。

「光太郎……」
「すまん!道端に捨てられとってなぁ、このまま雨に晒されたら死んでまう思おて…」
「このアパート、ペット禁止でしょ」
「今晩だけでええんや。明日ん朝には戻すから!頼むわ!」

 子供みたいな懇願だ。光太郎に抱かれる猫をもう一度見る。濡れて固まった毛を震わせて、鳴いている。大きな黒目に私はどう映っているんだろう。なんでそんなに鳴くの?言葉が通じるなら、そう問うてやりたいと思った。なんとなく、理由はわかる気がするから。
 「早く入って。あんたもずぶ濡れじゃん」と促せば、光太郎は嬉しそうな顔をして「よかったなぁ」と猫に話しかけるように呟き、靴を脱いだ。この人はいつも、厄介なものを拾ってばっかりだ。


 浅い皿に薄く牛乳を注いで、猫の前に置いた。すると猫は、不審そうにじろじろと牛乳を見て匂いを嗅ぎ、意を決して舌を出した。おいしい。そう思ったのか、勢いよく音を立てて牛乳を舐める。おなか、空いていたのかな。牛乳がこの子の腹を満たしていく。牛乳だけが、この子の命を繋ぎとめている。そう思うとどうしようもなく悲しくなった。
 そうやって猫を眺めていると、シャワーで体を洗い流した光太郎が戻ってきた。

「お、牛乳飲んどる」

 たったそれだけのことに大袈裟に感動できるのが羨ましい。呑気に「かつお節なら食べるやろか」なんてことを言い出す。ここはペット禁止なのに。明日晴れたらまた捨てなきゃいけないのに。光太郎の純粋な優しさは、時々怖い。私だって、この猫と大して変わりはないのだ。

「光太郎、カレー食べよ」
「食べる。めっちゃええ匂いするなぁ!」

 温めたカレーを皿によそった白いご飯にかけてテーブルに置く。二人分の夕食が並んで、私たちはテーブルを囲みスプーンを握る。依然として雨は降り続けていた。光太郎はカレーを一口食べるなり笑顔で「んまい!やっぱり週末はカレーやな!」と意味のわからないカレー論を述べた。意味はわからないのに、その笑顔を見ただけで、今日はカレーにしてよかったなと思えてしまうから私も大概単純だ。
 私たちがカレーを味わう傍らで猫は牛乳を飲んでいる。そういえば光太郎と私の部屋に来た初めての来客はこの子だ。

「猫さ、どんな感じで捨てられてたの」

 私が口にすれば、光太郎はスプーンを止めて、猫の方に目を向けた。慈しむような瞳につられて、私も猫を見る。

「段ボールに入って歩道の脇に置かれてたんや。子猫育てる余裕なかったんやろか。段ボールにマジックで“ごめんなさい。大切にしてあげてください”て書かれとってな」
「……何それ」

 捨て猫とか、捨て犬とか。たまに見かけるたびに、かわいそうだという感情よりも先に、これを捨てた人間はどんな気持ちでどんな顔をしていたんだろうと考える。ごめんなさい?大切にしてあげてください?最低だ。無責任だ。この子へのせめてもの報いになるとでも思っているのか。余計なお世話だ。猫だってそう言うに決まっている。

「タオルだけかけて帰ろか思うてんけどな、こいつ鳴くねん。ごっつ小さな声で悲しそうに鳴くねん。放っておけへんかったわ」

 光太郎が眉尻を下げて笑う。ばかだなあ、と思う。そういう人間性を持っているのは十分承知していた。そこに何度救われたかわからない。この人はいつも、惨めな生き物を拾ってばっかりだ。

「そういうのに弱すぎるよね、光太郎」
「反省しとります……」

 うそだ。きっと光太郎はまた雨の夜に何かを拾って帰ってくる。お人好しなんて損するだけなのに、彼は他の人が損と感じるものを損だと気づかない。平気な顔して受け止める。それが寛容だからか単細胞だからかは判断できない。どっちも当てはまるような気がした。
 二人ともカレーを食べ進める。雨は止まない。カレーを平らげた光太郎が「おかわりある?」と聞いてきて、「あるよ」と答える。私は皿を受け取って立ち上がり、炊飯器の元に行く。さっきよりもちょっと少なめにご飯をよそって、圧力鍋に入れっぱなしのおたまでルウをすくった。こういう時に、こういう何気ない時に、幸せだなと感じる。自分にはもったいないくらいの幸福を、この部屋に来て知った。そしてそれを感じるたびに、いつか崩れてしまうのじゃないかと怖くなる。その時、私はどこへ行けばいいのだろう。
 二杯目のカレーライスを光太郎の前に差し出せば「おおきに」と笑ってスプーンを埋める。幸福も恐怖も、この人に出会って初めて知った。ちらっと猫を見たら、この子も光太郎と同じように牛乳を平らげていた。


 いつも通り日付が変わる頃に、お風呂に入って、化粧水と乳液をつけて、髪を乾かし、ベッドに向かう。猫もこの場所を居心地よく感じたのか、床に敷かれたバスタオルの上で丸まって眠りについてしまった。
 ベッドでは先に光太郎が眠っている。そこに私が静かに入る。いつものことだ。いつも、狭いベッドで二人で眠って同じ朝を待つ。もともとは光太郎だけのベッドだった。私が勝手に入ってきたのだ。それを光太郎は、嫌な顔ひとつしないで受け入れた。変わり者もいるんだなと驚いた。雨の音が聴こえる。いろんなことを思い出して恋しくなって、私に背を向けて眠っている光太郎のその背中に抱きついた。体をぴったりとくっつける。

「どないしたん?」

 うなじを向けたままの光太郎が優しい声で反応した。起きていたんだ。私は抱きつく腕の強さを上げた。怖い。いつだって怖い。離したくないって心から思う。でも、そんなことを思うのが許されるほど、私は彼にとって有意義な人間ではない。

「私のこともこの猫みたいに拾ったの?」
「……初めて会うた時、雨やったな」

 落ち着いた声だ。私は目を閉じ、光太郎の背中に額をつけた。
 雨の日の公園で、私は一人だった。家を捨ててきたのだ。いや正確にいえば、自分の願望を抜いていえば、私は家に捨てられた。両親に家を追い出された。「うちに来なよ」そう言った男は何人かいた。私はその言葉に遠慮なく頷いてきた。寝る場所さえあればよかったのだ。でもそういう男たちは決まって下心を持っていて、その下心、所謂性欲が満たされるとすぐに私を追い出した。みんなそうだ。別に悲しくはなかった。怒りもしなかった。私は、そういう風に扱われるべき人間なのだ。悲観でも何でもない、はっきりとした事実だ。だから、ベンチに座って雨を浴びる私の頭上に傘を差し出した光太郎も、どうせ他の男と同じだと思っていた、のに。

「懐かしいわ。ギャルが雨ん中傘も差さんと黙って座っとる、異様な光景やった」

 可笑しそうに光太郎が言った。「別にギャルじゃないし」といじけてみせる。あの時の光太郎には雨に濡れたギャルに見えていたのだろうか。振り返られると、妙に恥ずかしい。あの頃の私は随分とやさぐれていたから。光太郎と出会う前の自分は、自分でもあまり好きじゃない。

「傘だけ渡して帰ろ思おたんよ。けどな、お前の目見たらそのまま帰れへんかった」
「目?」
「悲しそうな目しとったんや。確かに今日拾った猫によお似てはったわ」
「それで放っておけなくなった?」
「おん」

 光太郎は私を拾った。私はやはり遠慮なくこの部屋に転がり込んだ。でも、光太郎は他の男と違った。この人は、下心を隠して持っていたわけではなくて、ただ、呆れるほどに自己犠牲心の強いお人好しなだけだった。見ず知らずの他人である私が自分のことを何も話そうとしなくても、怪訝な顔をしないで、部屋に入れてくれた。光太郎の財布から勝手にお金を抜き取ったときはさすがに叱られたけれど、それでも私を追い出さなかった。私がどんなにクズでも、光太郎は私をここに置いてくれた。ずっと一緒にいてくれた。
 寝る場所さえあればいいと思ってたどり着いたこの古いアパートの狭い部屋が、いつのまにか、ここに帰りたいと願う場所になっていた。かけがえのない、家になっていた。
 そして同時に怖くもなった。今までの私は男に家を追い出されても平気で生きてこれたけれど、光太郎にここを追い出されたら、私はもう、きっと、生きていけやしない。

「明日晴れたら、私のことも捨てちゃう?」

 冗談のつもりで呟いた台詞が不安そうな涙声になった。右手で目に溜まった涙を拭う。私の腕から解放された光太郎を体をのそっと動かして、こちら側に正面を向かせた。光太郎と、まっすぐ、目が合う。

「何言うてんねん。そんなんありえへん」
「だって、」
「ここは自分の家なんやで。明日も明後日もおってや。またカレー作ってくれ!」

 拭ったはずの涙がまた溢れ出す。泣いてる私と笑う光太郎が向かい合っている。今度は光太郎が私を抱きしめた。大きな手が私の背中を優しく撫でる。「…好きやで」ばかじゃないの。顔を光太郎の胸にうずめる。トレーナーに鼻水がついても、きっとこの人は許してくれるだろう。そういう人なんだ、光太郎は。見ず知らずの女を家に入れることを厭わないような、こんなクズ女を好きだと言うような、とんでもないお人好しなんだ。またそれに救われてしまった。また、濃度の高い幸福を味わってしまった。もう私はこの場所でしか生きられないし、この場所でしか死にたくない。私は光太郎がいなければ、まともに生きることも正しく死ぬこともできないのだ。だからずっとこうしていたい。そばにいたい。この温もりを一番近くで感じられる場所にいたい。再び光太郎の背に腕を回す。
 しばらくすると、規則正しい寝息が耳をくすぐった。その音を聴きながら、もう雨が止まなければいいのになと思った。晴れの日なんて、来なくていい。そんなことを考えていたら、真っ暗闇の中に猫の小さな鳴き声が響いた。


太陽の在り処
20150303