駅から徒歩10分、家賃6万円、都内の小さなマンション。ここに、今年の春から大学に通うために部屋を借りた。慣れない一人暮らしに苦労や不安もあったけれど、この部屋は結構気に入っている。新築ではないにしてもまだまだ綺麗で頑丈そうだし、セキュリティもしっかりとしている。ベランダから遠くではあるが東京タワーが見えるのもいい。遠いから、いい。その朱い塔を手で掴めそうなのがいい。

 朝の占いの途中でテレビを消し、バッグを確認する。今日提出するレポートは入れた。化粧ポーチも充電器もオッケー。もちろんお財布と定期も持った。キャメルのジャケットを羽織り、腕時計を度々確認しながらパンプスを履いて部屋を出る。鍵をしっかりと閉めて歩き出そうとしたときに、隣の部屋のドアが音を立てて開いた。心臓が跳ねる。少し期待してたからこその驚き。部屋から出てきたその人に声をかける。

「おはようございます、謙也さん」
「おー、おはようさん」

 私の挨拶に返して、謙也さんは優しく笑う。私もつられて口角を上げた。占いなんて見なくても、これだけで今日は良い日だと思える。お隣さんと朝出るタイミングが一緒になるのはよくあることだ。そうなったときは大抵一緒に駅まで向かう。他愛もない話をしながら、少しだけ急ぎ足で。この時間が私にはすごく嬉しいものだった。



 謙也さんは私の隣の部屋にずっと住んでいる、二つ年上の男の人だ。もしかしたらこの人の存在が、小さな東京タワー以上にこのマンションの価値を上げているのかもしれない。最初見たときの印象はガラの悪いお兄さんだった。明るすぎるくらいに明るい髪色のせいだろう。バンドマンでもやってるんじゃないかと考察した。だから、彼が某大学の医学部の学生だと知ったときの驚きは今世紀最大のものだった。新生活に慣れない私に謙也さんはいろんなことを教えてくれた。ここら辺だとどこのスーパーが一番安いか、このマンションで誰と軋轢を生じさせてはいけないか。私は謙也さんをとても慕った。明るくて優しい。面倒見が良くて情に厚い。本当に、出来た人だ。仲良くなるにつれて話すことはどんどんプライベートなものになっていった。大阪から上京してきたこと、テニスが得意なこと。そして、ずっと付き合っている恋人がいるということ。
 その話を聞いたとき、多少ショックではあった。けれども、謙也さんが嬉しそうに照れ臭そうにその人の話をするのを聞いてると応援したいと、強がりではなく素直に思えた。謙也さんにこれほど愛される人は、きっと素敵な人なんだろう。見せてくれた携帯の待ち受けに映る謙也さんの彼女はとても可愛い人だった。



 自分の目の前で、何が起きているのか解らない。雨の横断歩道、信号は赤だ。その向こうに一つの傘に入る男女がいた。私はその二人を凝視する。どうしようもなく、目を離せない。怖い。何台か車が目の前の車道を走る。泥水が跳ねる。そんなことには目もくれず、ただひたすらに二人を見る。きっとカップルだ。親しそうに何か話し、時折女が男の髪に手を伸ばしている。怖い。信号が青に変わる。私はそこから動けなかった。二人は歩幅を合わせてこちらに向かってくる。手に力が入らず差していた傘を落とす私の横を二人は通り過ぎた。仄かに、香水の匂いがした。近くを歩いていた中年の男の人が怪訝そうに見ているのに気づいて私は傘を拾った。信号はまた赤になってしまった。後ろを振り返ってみてもさっきの男女はもう見えなくなっていた。
 私はあの女の人を知っている。何度も見た、その度に憧れた、謙也さんの彼女だ。それだけなら、きっとまだよかった。他の何かを考える余地があった。でも私は男の人も知っていたのだ。ひどく顔が整った青年。何度も話を聞いたことがある、謙也さんの、親友だ。


 重すぎる憂鬱を抱きながら自分の部屋まで戻り、雨に濡れ冷えた身体でシャワーを浴びた。高い位置に固定したシャワーをずっと出しっ放しにして私は頭を出し下を向いて排水口だけを眺めていた。無心になれ。そう自分に言い聞かせる。しかし言い聞かせれば言い聞かせるほど、さっきの光景が、音が、匂いが、すべて蘇る。
 ぞっとする。どんなホラー映画よりも怖いと思った。それは間違いなく見てはいけない光景だった。誰かを傷つけるための罪が犯されてゆく場面だった。謙也さんのあの可愛い彼女は、浮気をしている。その事実だけで気絶してしまいそうだった。そして浮気相手は謙也さんの親友だ。こんなに恐ろしい愛の形があるのだと、私は初めて知った。
 暫くシャワーを浴びていると、女への怒りが込み上げてきた。何故こんな最低なことをするのか。謙也さんに愛されているくせに、何故他の男と関係を持つのか。怒りが悔しさとなり、涙として身体の外に出る。そして思いついた。今日見たことを全部、謙也さんに話してしまえば良いんじゃないか。そして謙也さんがあの人に幻滅すれば、あの人と別れれば、もしかしたら私と……。シャワーを止めて鏡を見た。鬼のような顔をした女がそこにいた。
 タオルで髪と身体を拭き、部屋着に着替える。落ち着かない。落ち着くわけがない。ゴゴゴオッと大きな雷の音が聴こえて私はベランダの方に目をやった。荒れた空に、小さな東京タワーが頼りなく立っている。もう“その気”しかなかった。今すぐにでも謙也さんにすべて話したいと思った。カーテンを閉めて、私は部屋着にすっぴんでおまけに肩にタオルをかけたまま、玄関を出た。たった二歩右に歩き謙也さんの部屋のインターフォンを押す。するとすぐにドアは開いた。

「謙也さん」
「どないしたん?」
「あの、ちょっとだけおしゃべりしたいなって思って」
「ええけど…えらい急やな」
「…雷怖くて」
「ああ、何やそういうことかいな。はよ言いや。入ってええで。散らかっとるけど」

 謙也さんは雷に怖がる私を茶化すように笑いながら部屋に招いた。雷なんて、さっきの光景に比べればちっとも怖くなかった。でも、雷を怖がる年下の女の子を謙也さんは放っとけないだろうとも思った。謙也さんの部屋に初めて上がったというのに、嬉しさやときめきは皆無だった。ただ、胸がつまるほどの緊張を感じていた。
 低いテーブルの前に座るとマグカップを差し出された。中にはココアが見える。マグカップを握った手に熱が伝わる。やっぱり謙也さんは良い人だ。こんなに良い人なのに、どうして。また怒りが込み上げてくる。

「今日元気ないな。そない雷怖いん?」
「謙也さん、あのね」
「ん?」
「謙也さんにどうしても話したいことがあって」
「何や何や」
「言おうか迷ったんだけど…」

 向かいに座った謙也さんの目を見る。疑問の表情を浮かべている。謙也さんは何も知らないんだ。何も知らずにあの人を愛しているんだ。私が全部話したら謙也さんはどんな顔をするんだろう。泣くだろうか、怒るだろうか。想像すると少しだけ罪の意識が募った。どうだっていい。どんな反応をしても私が包み込んであげる。私が誰より愛してあげる。それでいい。やっぱり私は、この人がほしい。

「謙也さんの彼女、浮気してる」

 最後の、る、と発したときに下を向いた。見ていたくないと思ってしまった。下を向いたまま、謙也さんが何か発言するのを待たずに続けた。

「見たんです。あの、謙也さんの友達と。すっごい仲良さそうにベタベタくっついて。私信じられなくて何かの間違いだと思ったんだけど、でも近くで見てもあの二人で、なんかもう…怖くなって、謙也さんに言った方が良いのか言わない方が良いのかわからなくて…でも謙也さんの彼女は浮気してるんです」

 支離滅裂だった。言いたいことをすべて言おうとしてめちゃくちゃな言葉になった。さっきの光景を謙也さんに伝えることは想像していたよりずっと難しいことだと感じた。顔を上げることができず、ココアの表面を見たまま、今度は謙也さんが何か言うのを待つ。二人の沈黙を雷の音が貫く。謙也さんはショックで言葉を失っているんじゃないか。

「知っとる」

 私は謙也さんの声を聴いてすぐに顔を上げた。……絶句した。予想していたリアクションとあまりにもかけ離れていた。謙也さんは泣くでも怒るでもなく、眉を下げて弱々しく笑っていた。その表情を見て、さっきまでの恐怖を思い出す。さっきよりもずっと強い、恐怖。『知っとる』?何を?

「え、それってどういう…」
「せやから、ずっと前から知っとった」

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受け、言葉を失う。予期せぬ展開だった。謙也さんは、ずっと前から知っていたというのだろうか。愛する彼女が自分の親友と浮気していること。知っていて何もアクションを起こさないまま、今までと変わらずどちらとも付き合いをしてきたというのだろうか。そんな苦しいこと、どうして、

「ならどうして、付き合ってるんですか。わ、かれたり、しないんですか」
「…まあ、俺は好きやからなあ」
「何それ…」

 背筋がぞくぞくとする。謙也さんはただあの人を好きだからという理由ですべてを許しているのか。そんなの、お人好しどころか馬鹿だ。いや滑稽だ。いや、誰よりも狂気じみしている。嫌だ、と思う。そんなの嫌だ、と。恐怖に隠れたエゴイズムが叫ぶ。謙也さんがそんなにあの人を愛しているのが、嫌だ。

「謙也さんだったら絶対もっと一途に謙也さんだけを見てくれる人いますよ」
「んー…でもな、俺もあいつだけやねん」
「なん、で…」
「しゃーないわ、ホンマ」

 諦めるような口調だった。謙也さんは表情を崩さなかった。ただ笑っていた。けれど、その表情から恋人に対する執着を痛いほど感じた。
 私はとうとう謙也さんから目を逸らした。本当は言いたかった。大声で叫びたかった。私だったら浮気なんて絶対しない。絶対絶対絶対に謙也さんだけを好きでいる。私の方があの人よりもあなたを愛している、のに。きっと口に出したところで何の意味も持たない言葉なんだろう。『俺はあいつが好きやから』の一言で掻き消される、私の醜くも必死の想い。シャワーを浴びたときの強気はもう消えていた。怖いのは、雷でもあの人でもない。ましてや鬼の顔をした私でもない。本当に一番怖いのは、謙也さんだ。
 雷が鳴り響く。この部屋だけが気味の悪い静寂に包まれている。恐怖と後悔と憎悪と疲労。様々な負の感情に身体が爪先から蝕まれていくのを感じた。何もわからなくなった。誰が悪かったのか。何が悪かったのか。何が罪で何が罰なのか。何もわからない。でもそれは今私がとっさに望んだことなのかもしれない。何も、理解したくなかった。ただなんとなく、このマンションから見える東京タワーのことを思い出していた。掴んだつもりでいたそれは、全く触れることのできない遠いところにあるのだと、思い出していた。


20140102