「おれ、おしたりけんや!よろしゅう!」

 太陽みたいな笑顔で謙也が声をかけてきたときのことを、今でも覚えている。小学校に入る少し前だった。昔から体の弱かった私はその小さな病院に入院していた。毎日暇を持て余していた。ぬいぐるみで遊ぶことにもクレヨンでお絵描きすることにも飽きていた。そのときも確か、ピンクの折り紙でもういくつ目か分からないうさぎを折っていたのだ。私は少し緊張しながら彼をじっと見た。忍足先生と同じ名字だと気づいてすぐに先生の子どもなのかなと幼いながらに推理していたと思う。

 それから、謙也とはずっと一緒にいた。小学校、中学校と一緒で、今も同じ高校に通っている。腐れ縁と呼べるものだろう。謙也はとにかく、底抜けに明るくて、馬鹿で、とても優しい。入退院を繰り返してなかなか周囲に溶け込めない私にいつも声をかけてくれる。小学生の頃、休み時間みんなが外でかけっこをしている中、謙也は私と一緒に教室の中で漫画を読んでいた。中学生の頃、体育祭のときに謙也はわざわざテントで見学している私の元まで来て「次のリレー俺出るからばっちり見ときや!」と笑顔を見せた。謙也はいつもリレーの選手で、アンカーだった。誰よりも速くグラウンドを駆け抜けた。謙也のこの痛いくらいの思いやりが私は嬉しかった。自分は特別なのだと思った。かけっこが出来なくても体育祭に出れなくても、謙也が居るから何も寂しくなかった。
 だけど、謙也の優しさの対象は私だけではなかった。太陽のような明るい笑顔はたくさんの人に向けられた。彼には大勢の友達がいた。みんな謙也の話を聞いて、時にはからかっていて笑っていた。謙也を好きだという女子も何人か見たことがある。あまり王子様だとかアイドル的存在と呼ばれるキャラではないけれど、そこが余計に近寄りやすさを感じさせる。とにかく謙也は、人に好かれやすい人だった。
 いつからか、私は謙也の周りにいる人たちに嫉妬していた。謙也の優しさに触れて笑顔になる人たちを睨むようになっていた。私だけでいいのに。そう思った。だって、みんなは健康じゃん。走れるでしょ。かけっこができて体育祭にだって出れる。入院だって私ほどしたことがないくせに。私より自由なくせに。なのにどうして、どうして私から謙也を奪うの。みんなの出来ることが出来ない私から、何故、謙也まで奪う!謙也をとらないで!
 そんな感情が胸の中に渦巻いた。その度に私は発狂しそうになる。私は別に謙也に恋愛感情を抱いているわけではなかった。それでもこんなにもおぞましい独占欲を持っている。それを何とか謙也には見せないように誤魔化しながら、退屈な日々を送っている。





「ったく、心配したやん。倒れた言うから」
「倒れたなんて大袈裟だよ。立ち眩みがしただけ」
「体調はもう大丈夫なんか」
「へーき。謙也もうお昼食べたの?」
「早食いや!」
「…それこそ体に悪いよ」

 保健室に、二人分の笑い声が響いた。四時間目の授業が始まる前に気分が悪くなってここに来てベッドに横になって一時間が経ち、お昼休みが始まってすぐに謙也がやってきた。……正直、来ると思っていた。謙也は私を放っておけない。そう予測する自分が傲慢な女に思えて嫌気がさす。実際に傲慢なのだけど。そんな私に向けられる謙也の笑顔は、初めて会ったあの時から何一つ変わっていなかった。自分がいかに醜いかを思い知らされる。私は白い羽根布団を握りしめ、ふと窓から外を眺めた。グラウンドの様子が見える。何人かの男子が制服のままサッカーをしていた。みんな楽しそうに笑いながらボールを追いかけている。

「謙也行かなくていいの?」
「何が?」
「サッカー」
「あー、俺今日サッカーの気分ちゃうねん」
「そっか」

 胸がちくりと痛む。謙也の優しさはやっぱり痛い。今も私、わかってて訊いた。きっと謙也なら私が傷つかないような、不快に思わないような言い訳をしてくれるんだろうと思っていた。謙也はお昼休みいつもグラウンドに出て体を動かしていたはずだ。今日だってサッカーをする予定だったはずだ。謙也がサッカーより私を選んだことに優越感を覚える。そんなことに優越感を覚えた自分に嫌悪感を覚える。いつから私はこんな嫌な女になってしまったんだろう。私は俯いた。保健室は清潔だ。この学校で一番神聖な場所だ。私はいつもここに守られて、ここに閉じこめられていた。

「謙也」
「ん?」
「私、死んじゃうのかな」
「は?なわけあるか」
「いつか、走ったりできるようになるかな」
「…なる。絶対なるで。せやからそんな悲しい顔すんなや」

 謙也が私の頭を撫でた。慣れない手つきがひどく心地良い。いつから私は、謙也は自分のものだと思っていたのだろう。この暖かい手は、優しい心は、自分だけのために在ると。もし私が、謙也と一緒に走ることが出来たら、何の欠陥もない健康な体だったら、こんな醜い欲を抱かなかったかもしれない。いつまでも縋りつかなくても良かったかもしれない。滑稽だな、と思った。

「…ありがとう」

 謙也と交わす言葉はどれも嘘っぽく感じる。可愛い子ぶった言葉を並べなければ自分の醜さを隠せないような気がした。顔を上げ窓の方に目をやる。まだ男子がサッカーをしていた。謙也はあっちにいるはずの人間だ。こっちにいるべき人間ではない。私はあっちに行ってはいけない。どう足掻いても行けない。謙也は私と一緒にいるべきではない。本当は、謙也の思いやりに一番触れてはいけないのは私なのかもしれない。誰かが蹴ったサッカーボールが大きく空中を走る。私はその辺りに舞う砂埃にでもなってしまいたかった。


ガラス細工の羨望


20130217