薄暗い空の下、冷たい風が吹いて、思わずマフラーに顎を埋めた。肌がヒリヒリと痛い。早く暖かい室内に入りたくて歩調を速めたけれど、目的地へ向かう途中に通る大通りにある、大きなスポーツ用品店のガラス一面に貼られたブランドのポスターが視界に入り、私は足を止めた。そこには二人のプロバスケットボール選手が向かい合うポーズで映っている。下には控えめなブランドのロゴと、明朝体で“魂をかけて戦え”といかにもスポーツメーカーらしいコピーが書かれている。魂をかけて、なんて、きっとこの二人は意識したことがないだろう。ただ子供のように、楽しくて仕方がないからバスケをやっている。ずっとそうだった。
 近くに、私と同じように足を止めポスターを眺める女子高生らしき二人組がいた。これでもかというほど短いスカートと紺のハイソックスの間に剥き出しになっている生足が寒そうで心配になってくる。その女子高生の会話が聞こえる。「最近バスケ流行ってるよね」「ね。この二人が出てきてからじゃない?」「やばいよね青峰と火神。めっちゃ強いもん」「おまけに結構イケメンだしね〜」そうでしょ。でも間近に見るともっと強くてもっと格好良いんだよ。そう得意気に会話に割り込んでしまいたかったけれど、もちろん胸の奥に閉まっておいた。おばさんは黙っていればいい。「どっちが好き?」「私火神派」「私も〜!青峰も良いんだけどさ、なんか火神の方が優しそうっていうか」「わかる〜。青峰って野生すぎるんだよね」そんなやり取りを聞いて吹き出しそうになった。十代の子には火神の方がウケが良いらしい。私はまたポスターを一瞥してから足を動かし始めた。



 約束のレストランに入り、照明のオレンジ色と適当な室温に心地よさを感じながら周りをきょろきょろと見回した。皮肉なくらいによくできた顔の青年が笑顔を浮かべ軽く右手を上げて「こっちッスよ〜」と、軟派そうな声を出す。私も口だけ笑って彼のテーブルへ向かった。

「ごめん待った?」
「いつものことッスから」

 それから、このイケメン、黄瀬と食事した。黄瀬がパスタで、私がリゾット。相変わらず少食な黄瀬にもっと食いなさいよと怒りながら、近況報告や昔の思い出話に花を咲かせながら、スプーンを口に運ぶ。
 この食事会はもう惰性になっていた。大体、というか絶対に私から誘う。純粋に楽しいと思えるのだ。やっぱり異性とは言えども中学時代から交流があるとなると、一緒にいて楽で、落ち着ける。

「やっぱ良いわ黄瀬とご飯」
「はぁ…なんでいつも俺なんスか?」
「えー?別に黒子とかたまーに緑間とも会ってるよ」
「そうじゃなくて!青峰っちは?」

 黄瀬が呆れ顔をした。私はスプーンを置いた。「会ってないんスか」同じような質問を黒子にも緑間にもされた。まあ、そりゃあそう訊きたくなるよなとは思う。私はバツ悪く頷いた。黄瀬が溜め息をつく。黄瀬にそんな態度をとられるなんてなんか心外だけど、どうしようもない。
 私の恋人は、先ほど女子高生に野生すぎると批評されていた男だ。と、断言しても良いのだろうか。もう大分会っていないし、連絡も取っていないし、どう考えても黄瀬の方が彼氏かよってレベルで遊んでるし、もしかしたら大輝と私は自然消滅してしまったんじゃないか、なんて随分と冷静に考えている。

「連絡すれば良いのに」
「どうせ返ってこないよ」
「彼女でしょ?」
「あいつの世界はバスケで回ってんだって。ああそれからザリガニとおっぱい」
「寂しくないんスか?」

 ぜーんぜんっ。そう言い張る声が震えた。情けなくて笑ってしまう。いや笑ってしまいたいけど上手く笑えない。惨めだなと思った。黄瀬と目を合わせていられなくなり、下を向いた。食べかけのリゾットが視界に入る。
 寂しいに決まっている。寂しくなかったら、こんな風に定期的に黄瀬や他の友人たちと会ったりなんてしない。みんなと楽しくお話をして、誤魔化しているのだ。だって、じゃあどうすればいいの。大輝はもう別の世界にいるような人で、きっと今が一番大事な時期で、学生だった頃とは訳が違うのだ。あの頃は会いたいときに会いたいと言えた。当たり前のように会いにきてくれた。でも今そんなことを言ったら酷い我が儘になるだろう。彼を邪魔するだろう。そんなの、だめだ。私よりバスケで、それでいい。それが正しい。だって大輝はバスケの神様に愛されていて、私はバスケをする大輝を好きになった。だからいい。……そう思う反面、苦しい。大輝がプロになるとき覚悟はしたつもりでいた。だけどそれはどうも甘かったみたいだ。思っていた以上に大輝は遠くに行ってしまった。まっすぐ応援できていない自分に自己嫌悪する。その嫌悪感が涙になって、リゾットに落ちる。

「…俺はその涙拭わないッスよ」

 その冷たい台詞はどこまでも温かい声に乗せられていた。優しいな黄瀬は。多分女の子が何も言わなくても全部わかってくれるんだろうな。こんな人が彼氏だったら……一瞬そう思ったけれど黄瀬と付き合う自分が想像出来なかった。これだけ好きでも、どうにも友情の枠を越えない。ただ一人、その枠を抜けたのは、優しくもなくて女の子の気持ちなんてきっとわかりもしない、あの野生男だけだ。哀しいくらいに、彼だけだった。
 私はテーブルの脇に置かれた紙ナプキンを一枚取り目元に押し当てた。





 今日は久しぶりに何の予定もなく、一人で散歩した。本屋で雑誌を二冊買い、部屋に帰ってそれを広げる。片方は若い女性向けのファッション誌でブランドとコラボしたポーチが付録として付いている。もう片方は月刊プロバスケ。これも最早惰性だった。こんなの読んだってどうせまた距離を感じて苦しくなるだけなのに、つい買ってしまう。
 床に寝そべって雑誌を読んだ。表紙を捲ればすぐに大輝について書かれた記事が載っている。大きなゴシック体の文字で“異端児青峰大輝”とあるのを見て可笑しくなった。私は付き合い始めた頃から雑誌の大輝関連の記事は全部切り抜いてファイルにまとめていた。大輝にはやめろと何度も言われたけれど、私はただ、大輝が活躍するのが嬉しかっただけなのだ。あの頃の気持ちはどこへ行ったのだろう。大輝の記事を一通り読んで月刊プロバスケを閉じ、ファッション誌の方を広げる。春物の新作がずらりと紹介されている。まだ冬だから肌寒そうに見えてしまうけれど、どれも可愛らしい。しばらく眺めていると近くに置いていた携帯が音を立てた。手に取り、画面に表示された名前を見て、私は体を起こした。

「…はい」
『よう』
「だい、き…?」

 精密な機械の向こう側に確かに声が聴こえた。私は耳にあてた携帯を離してもう一度画面を確認する。着信は大輝からだった。恋人からの電話、なんてどこに違和感があるだろうか。それでも、もう自然消滅してしまったんじゃないかと疑っていた私にとっては、それは十分珍しいことで、なんだか気まずい。そして、とっても嬉しい。

「なんで電話してきたの?」
『構ってやれってうぜぇんだよ』
「…黄瀬か」
『黄瀬だけじゃねえ』

 大輝の言葉を聞いて、黒子やさつきが大輝に私に連絡するよう言ったのを想像する。もしかしたら緑間も、私に付き合わされるのが迷惑だからとか何とか理由をつけて大輝に言ってくれたのかもしれない。そうやって誰かに諭されてしぶしぶ電話をかけたということを口にしてしまう辺り、大輝らしい。駄目じゃん、と、つついてやりたくなる。そういうときは、声が聴きたくなったからって嘘をつけば良いんだよって。
 大輝の方に雑音が聴こえた。流行りの曲に誰かの話し声。

「どこにいるの」
『コンビニ』
「ご飯?」
『食後のデザート』
「珍しいじゃん」
『なんか食いたくなったんだよ』
「どのコンビニ?」
『エイト』
「じゃあ半熟チーズケーキがおすすめ。うちの近くにもエイトあってね、よく買うんだ」
『デブだな』

 せっかく教えてあげたのに、と拗ねた。拗ねながら、胸は高鳴るばかりだった。うきうきしている。他愛のない、本当に何の目的もないような会話が、楽しい。

「そういえばね、この前二人の女子高生が大輝と火神の話してたよ」
『へー』
「二人とも火神の方が好きだって」
『は?見る目ねぇなそいつら』

 勝手に抱いていた気まずさは自然と消えて、私は次々に大輝にいろんな話をした。どれもくだらない日常の代物。それでも笑みがこぼれるのは、やはり、彼が聞いてくれるのが嬉しいから。私が一人で経験したことを大輝に教えて二人で共有できるって、こんなにも、素晴らしい。大輝のリアクションが薄くてもめんどくさそうでも、私は構わなかった。携帯に向かって話し続けながら、想いがとめどなく溢れ出していることに気づいた。私は大輝が好きだ。ずっと好きだったんだ。

「ねえ大輝」
『何だよ』
「会いたい、って、黄瀬が泣いてたよ」
『相変わらず黄瀬だな』
「ね」

 うそつき、根性なし、臆病者。世界中のありとあらゆる罵声を自分に向けて飛ばしたかった。くだらない世間話はできても、肝心なことはいつも言えない。会いたいのは私だ。大輝に会いたいと泣いていたのは黄瀬じゃなくて、私だ。会いたい。ただその四文字だけ伝えれば良かったのに。拒絶されるのが怖くて、迷惑がられるのが嫌で、大輝の邪魔になりたくなくて、私は結局何も伝えられない。物分かりの良い女ぶってしまう。何かが喉につっかえたように、苦しい。このつっかえが取れれば、私は自分のわがままを全て話せるだろうか。

『お前は会いたくねーの』
「え?」
『…まあ良いけどよ。俺今から人と会う予定あるからそろそろ切るわ。じゃあな』
「え、あ、うん。じゃあまたね」

 私の言葉の後に電話はすぐ切れた。画面に16分47秒と表示されている。たったこれだけの間、私は満たされていた。決して恋人らしいことなんて言いも言われもしなかったけれど、胸が弾んだ。恋をしているんだと確認した。こんなに満たされていたのに、今は悲しい。魔法が解けて消えたように孤独に襲われる。「あいたい」さっき何気なく大輝が訊いたことに答えるように、独りでに呟く。「あいたいです」携帯の画面に表示された文字が滲む。「会いたいよ大輝」もう一生会えないんじゃないかという非現実的な錯覚さえ起こした。涙が頬を伝ったその時、インターフォンの鳴る音が聴こえた。


どうかあたためにきて


20130216