※氷室がホスト


 上を見上げれば随分と大袈裟に煌めいているシャンデリア。周りを見渡せば幸せそうに笑う女の子たち。そして、その女の子たちの隣にはスーツに身を包んだ王子様。ここは、大人の城。出した金額と対等な魔法にかかる場所。
 からん、とグラスが私の前に置かれる音がして、私はそのお酒を作った、横にいる男に目を向ける。辰也と目が合い、どうぞ、と言われ私はすぐに目を逸らした。彼もまた、王子様。この店のホストは他の店に較べたらみんな質が良いとは思うけれど、辰也は飛び抜けている。何故ホストをしているのかと思ってしまう。辰也だったらモデルくらいなれそうだ。言っちゃ悪いけどこんなくだらない仕事をしているのは勿体ない。
 私は辰也の作ってくれたお酒に手を伸ばした。辰也、なんてまるで恋人か仲の良い友人のように馴れ馴れしく呼んでいるけれど、私はこの人がどこに住んでいるのかも誕生日がいつなのかも何も知らない。果てしなく他人だ。そんなことを考えながらお酒を口に含む。辛さの中に甘い風味がした。

「今日はご機嫌ななめだね」
「そう?いつもと変わらないけど」
「それじゃあ何か考え事?」
「いや、売り物なんだなーって思っただけ」

 グラスをテーブルに置いた。少し手が滑り、落としてしまうんじゃないかと一瞬だけドキッとしたのを辰也に悟らせないよう、澄まし顔でバッグから携帯を取り出して弄る。会社の同僚から着信があったことに気づき、後でかけ直そうと忘れないように頭の中にメモした。「売り物、」と辰也が反復したから、私は再びその顔に視線を向ける。辰也も私を見ていて、やたら距離が近いことに気づいたけれど、嫌ではなく、嫌ではないと思ってしまう自分が嫌だった。辰也は白々しいなと思う。売り物でなければ、お金を出さなければ、こんな手と手が触れ合うような距離になんて来てくれないくせに。

「みんな値札つけて歩いてるように見えるの。値段は人それぞれだけど」
「俺にもついてる?」
「辰也はね、この店で一番高いよ」
「…それって褒められているのかな」
「もちろん。高級品ってこと」

 そう口にすれば、辰也はそれ以上は追及せず、ありがとうと微笑んで、あっけなくこの会話は終わった。この人は黒がよく似合う。左目を隠すように流れる前髪も、他のホストよりも上等そうなスーツも、星の瞬く夜空も。辰也は夜を纏った王子様だ。夜を生きる男だ。彼と過ごす夜が欲しくて、何人もの女の子がお札を差し出す。それだけの価値があるのだ。だから、辰也についている透明の、私にしか見えない値札に載った値段は他の誰よりも高く、そして秒刻みに上がっていく。
 はぁ、と小さくついた溜め息を辰也は落とさず掬い、華奢な手を伸ばし、それは私の頭に置いてすぐに髪をとかすように下に流れ、首の後ろを回って最終的に肩に到着した。まさにホストの技だなと素直に感心し、辰也を見る。

「ねえ辰也」
「何?」
「私って面倒くさい客?」

 辰也が二回瞬きした。別に私はブラックリストに入るような客ではなかった。酔っ払って他の客ともめたりホストにいちゃもんつけたりしたこともないし、何より、ここに存在するのは愛や恋とかいう甘ったるいものではなく無機質なビジネスであることを知っている。でも、ホストからしたら私のような魔法にかかろうともしない変に冷めた客が非常に扱いづらいタイプだということもわかっていた。

「どうしてそんなこと訊くの?」
「いないでしょ他に。ホストを売り物とか言うの」
「自覚あるんだね。でも俺は好きだよ」
「もう何も頼まないから」
「信じてくれないんだ?」
「辰也の言葉を信じたことなんてないよ」
「ひどいな」

 ひどいのはどっちよ。そう言おうとしたときに、辺りが急に騒がしくなったことに気づき、口を閉じ、店内を見た。近くのテーブルでシャンパンコールが始まるらしくホストが何人か集まっている。店中の人がそのテーブルに視線を送る。シャンパンコールを頼んだらしき、見た目三十くらいの女の人は、酔っているのか知らないけれど、ひどく機嫌が良さそうだ。よくもまあそんな高いお酒を頼む気になれるな、と半分感心半分軽蔑のような思いが込み上げてきたけれど、きっとこれがホスト狂いの末路なのだ。もし私がこうなってしまったら…。想像するとおぞましく、もうホストクラブなんかに通うのはやめようかと考えてしまう。しかし同時に私はこれに比べたらやっぱりまともでしっかり現実を生きているのだと感じて安心する。うるさくなったこの場所でも、一番近くにいる辰也の「ねえ」という声は確かに聴こえたけれど、私は無視してシャンパンコールに目を奪われている振りをした。「ねえ」二度目のそれが聴こえ、しぶしぶ私は顔を辰也の向け「なに」とたったの二文字を呟こうとしたのに、辰也によって遮られた。顔を向けた瞬間に、待っていたかのように唇を奪われたのだ。私の世界は息をするのを止めてしまった。辰也の爽やかな香水の匂いがする。騒がしい。シャンパンコールが盛り上がっている。誰も私たちなんて見ていない。考えるべきことは他にもあるはずなのに、あまりにも突然で予想外のことで、私はどうすることもできない。唇はすぐに離された。うるさいはずの手拍子の音が遥か遠くから聴こえるように感じる。何が起きたのかわからないまま私は辰也から意識を離せずにいた。辰也は微かに笑みを浮かべた。

「別に売り物なんだから、いいよね、こういうことしても。何も感じないんでしょ?」

 辰也にそう言われ、世界が再び呼吸を始める。大きな拍手の音がダイレクトに耳に届く。シャンパンコールが終わったのだろう。でもそんなのはもうどうでもよくなっていた。問題はこの男だ。私のキスをしてきた辰也だ。嗚呼、畜生。その得意気な顔にそれこそシャンパンをかけてやりたい。騒ぎ始めた心臓を落ち着かせようと私はお酒を口に運んだ。

「顔赤いよ」
「…酔っただけ」
「何に?」
「お酒に決まってるでしょ。私もう帰るから」
「帰っちゃうの?」
「帰る」

 辰也がくすくすと、余裕たっぷりに笑っていて、敗北を感じる。売り物のくせに。お金が欲しいだけのくせに。そう思っているのは、思いたいのは、私の方だ。この人は売り物なんだと、サービスなんだと、他人なんだと、そう暗示するように心の中で幾度となく言い聞かせてきた。だって、怖い。保たなくてはならないはずの距離を越えてしまうのが怖い。なのに、なのに辰也は涼しい顔してこっちの心まで足音も立てずに踏み込んできた。馬鹿馬鹿しい。結局のところ私は、既に彼に惹かれてしまっているのだ。現実家のふりをして、まともなふりをして、他の客を見て安心して、でも本当は私こそどうしようもないホスト狂いなのかもしれない。
 ここは大人の城。魔法にかけられた何人もの女の子たち。夜が明けたら、寂しさだけを残して、いとも簡単に解けてしまう魔法。そんな無意味なものを求めて彼女たちは今宵も城に足を運ぶ。……また私も例外ではない。
 辰也が先に立った。私もバッグを持って立ち上がる。辰也が腕を差し出してきたので、組もうと思ったけれど、この店のナンバーワンが本日は調子に乗りすぎているのが不愉快だから、私は知らん振りして歩み出した。なんとか記憶の片隅に消えずに残っていた同僚に電話をしなくてはならないというメモを思い出す。店を出たらしようか。それとももう諦めてしまおうか。そう迷いながら歩いていると急に立ち眩みがしてよろけ、すかさず後ろを歩く辰也に支えられた。大丈夫?と訊いてくるその顔を見て、苦しくなった。悔しくもなった。好き、なんて使い捨ての台詞をさっき吐かれたけれど、お返しに私がその台詞を口にしたら、きっと明らかすぎる愛情を伴ってしまう。私は再び歩き出した。ふらふらする。おかしい。きっと私は酔っているんだ。“何に?”そんなのきかないでよ、ねえ。


グラスの底に残ったのは愛?


20121206 続きたい