がたん、と音を立てて私は後ろの机に両手をつき、軽く腰を乗せるようにして、光の噛みつくようなキスに陶酔していた。漸く唇が離れたときに目を開けると相変わらず整った光の顔が少しずつ遠ざかり、私は体勢を直し、左手を伸ばしてその頬を撫でた。カーテンを引いていても強い西日がぼんやりとこの薄暗く狭い室内を照らす。三階の一番端。授業用の資料が散乱し少し埃っぽい、この社会科準備室がいつも私たちの落ち合う場所だった。何もかもがおかしい私たちの関係は、何もかもがおかしいまま、今日ここで幕を閉じる。
 頬から離した手を光が掴み、自分の目の前まで持っていく。その目を細めて見詰めるのは薬指、の根元に光るそれ。

「これ、外してもええ?」
「ダメよ」
「なんで?」
「私は彼のものだから」
「今だけ俺のものになるのは」
「ダメ。私は光のものじゃない」

 やっとリングから視線を外し今度は私を睨む。私よりずっと幼い、まだ少年の顔をしている。自分は余裕があると思い込んで、本当は余裕などないことに気づかない、光は可愛い。私は手を動かし、光の手のひらと自分のを合わせてから、ずらして指を折り曲げた。光も同じようにして、私たちは指を絡めている。光の指の皮は少し硬い。毎日ラケットを握っているだけはある。
 「今日まだやること残ってるの。早く終わらせよう?」特に嫌味な気持ちもなく、そのままのことを口にしたけれど、光は何か癇に障ったらしく、眉を寄せ再びさっきのようなキスをして「ひどくしたる」なんて若いから言えるような攻撃的な言葉を吐き捨てて、私の服に手をかけた。本当は授業の準備をするための場所なのに、こんな馬鹿な、生産性のないことをするために使われるこの部屋が何だか哀れだ。光の手が服の中を弄っていくと、そんなことも段々考えられなくなる。私たちは何もかもがおかしい。


 行為が終わって、何事も無かったかのように脱げかけた服をしっかりと着直し、整える。光もすっかり冷めた表情をしている。いつもそうだった。熱を帯びた身体を無理やり冷ます。余韻に浸る暇など与えられてはいない。そこに愛があるのかないのかもわからない。お互い好きだなんて口に出したことがないし、私に至っては好きかどうかなんて考えたこともない。ただ機械的にやるだけやって啼くだけ啼くこの行為に、光が満足していたのかもわからない。もう今日でお仕舞いなのだから、そんなこと考えるのも無駄かもしれない。
 机に置いていたペットボトルの緑茶を取って口に含む。ひとくち、と声が聞こえ、ペットボトルを光に渡して彼はそれを飲みすぐに返した。光が溜め息をつくから私は「お疲れ」なんてまるで他人事のように漏らし、それでまた光は機嫌を悪くする。光は子供扱いされるのが嫌いだ。それでも、私にとっては子供でしかなかったし、それ以外であってはいけないとも思う。そう言い聞かせながらその子供に抱かれるのもどうかと自分を咎めたくなるけれど。
 光が私の手を握った。さっきから思っていたけれど、どうやらリングが気になって仕方ないらしい。

「これくれた人どんな男なんすか。かっこええの?」
「ううん。光の方がかっこいい」
「優しい?」
「うん。すっごく優しい。私がこんなことしてるって知っても笑って許してくれると思う」
「最低っすね」

 自明のことを言われ、私は笑ってみせたけれど、光は冷たいままの表情だった。夕陽はいつの間にか沈んでいた。夜の学校にドキドキしていたのは随分と昔の話だ。夜の学校に残ることの憂鬱の方が今はずっと大きい。だけど、光とこういう風に無駄話をしていられるのは存外悪くないことだと思っている。
 もうすぐ帰さなくてはいけない。これでお仕舞い。そう思うとやはり寂しかった。私たちは今まで一体何をしていたのだろう。何のためにこんなことをしていたのだろう。愛し合ってなんかいないのに。たまたま光が選んだのが私で、私が選んだのが光だった。それだけで私たちは今日までこのおかしな関係を続けてきた。私たちは寂しくなるためにこんなことをしてきたのだろうか。

「俺がプロポーズしたらどないする?」
「私に?」
「他に誰がおんねん」
「ふふ、やめてよ。そういうのは本当に好きな女の子にして」

 光は舌打ちをして、手を離し、今日一番の不愉快そうな顔をした。綺麗な顔でそんなに怒ってしまっては台無しだと言おうとしたけれど、よく考えたら怒ってる表情も尚綺麗だったのでそんなありきたりな台詞はどこかに放り投げた。プロポーズしたら、だなんて馬鹿馬鹿しい妄想も良いところだ。そう笑ってやりたいのに、光は思ったより真剣な様子で、私は笑えなくなる。部屋が暗い。電気は一つしかつけていない。光は怒っている。仕事は残っている。早く帰りたい。

「ええ加減無視するのやめてもらえません?」
「無視?」
「知っとるやろ俺の気持ち」
「知るわけないよそんなの。光がいつ自分の気持ちを私に言ったの?」
「言わなあかんほど小さくない」

 ばん、と光が机を叩いて私は言い返せなくなった。驚いた心臓がそのまま鎮まらずに波を打ち続ける。光と見詰め合ったまま、逸らすにも逸らせない。やめてよ、と言いたいのに、声を出せない。やめてよ。やめて。私に気づかせるのはやめて。どうしようもなく逃げ出したい衝動に駆られる。光の声の届かない場所に、リングをくれた愛する彼の場所に逃げたいと。
 光の口をついて出た言葉は核心をついていた。本当は、知っていた。目の前にいるのは、子供ではなく、一人の男だ。口に出さなくても痛いくらいに愛されている。私がこの人を好きかどうか考えたことがないのは結論を出すのが怖いから。リングを外さないのも自分を縛りつけるため。機械的に思えた性行為には確かに愛があった。二人は愛し合っていた。全部、わかっていたのだ。酷い。まさに最低な話だ。それでも私はやっと掴んだ幸せを捨てて、これを受け止められるほどの勇気はなかった。光の気持ちに、自分の気持ちに、気づかないふりをするしかなかった。

「ごめんね、光。ごめん」
「今から言ってもええ?」
「え?」
「無視されたまんまはムカつくんすわ」

 光は一切笑っていなかった。自分が思い描いていた最終章のシナリオとはあまりに違う展開に頭がついていけなくなる。私は光に好きだと言われたことがない。それは光の良いところだった。罪悪感を感じなくて済むからだ。お互いにほんの少し風邪をこじらせたような感覚でいられたら良かった。好き、だなんて言われてしまったら、私は、

「いいよ、耳、塞いでるから」

 両手でそっと両耳を覆う。その手は微かに震えていた。聞きたくない言葉は聞かなければ良い。相手がどんなに勇気を出して、心を込めて発した言葉だって、拒否してしまえば居場所を失いやがて消えていく。それでいい。私の好きは、彼の好きは、生まれてきてはいけないものだった。なのに生まれてきてしまったのだから、ならば、居場所を与えなければ良い。受け入れなければ良い。受け入れてはいけない。消さなくては、消えるのを待たなくては。私は手を強く耳に押しつけた。
 光は暫く呆気にとられたような顔をしてから、何か諦めがついたように小さく、穏やかに笑った。それを見て私も笑う。「ホンマ最低っすわ」と言った光の声はとても優しかった。結局それ以外の言葉は何も言わずに、光が私を抱きしめた。私も両手を光の背に回した。初めて、光の暖かさを素直に感じた気がした。身体を離して、光は下に置いていた鞄を持ち、ドアまで歩いた。

「帰ります」
「うん。気をつけて」
「結婚おめでとう、先生。さよなら」
「ありがとう、財前くん。また明日」

 財前くんが出て行き、ひとりになって、私は椅子に腰掛けた。左手の薬指にしっかりとはめてあるリングを見て自分が誰なのかを確認する。安心していた。財前くんは一度も私を好きだと言わなかった。それは彼の最後の手加減か、優しさか、それともただの臆病か。どうでもいい。どうでもいいけれど、救われた。私は手を顔に近づけリングにキスをした。
 好き、だなんて言われてしまったら、私は、恐らくこのリングの呪縛を解いて自分も好きだと口走ってしまうほどには、財前くんに、光に、恋をしていた。


美しき箱庭の崩壊


20121112