真っ暗な空に、かろうじて見える小さな星が三つか四つ、今にも消えそうに光っていた。名前も無い星。普通の夜空。大したことのない景色。私は低いヒールでアスファルトの上を歩いていた足を止め、そんな夜空を見上げた。「ねえ、星」ゆっくりとそう呟けば、私の前を歩いていた彼も足を止めて、こちらを振り向き「星…?」と小首を傾げて、同じように空を見上げた。

「星、綺麗じゃない?」
「こんな都会では綺麗な星など見えません」
「同意してくれないんだね」
「同意?月でもないのに」
「月なら同意した?月が綺麗ですねって?でも残念、真太郎くんと会う夜っていつも月が出てないわ」

真太郎くんは視線を空から私に移し、あからさまに嫌そうな顔をしてすぐに、くだらないとでも言いたげにそっぽを向いて再び歩き始めた。そう、いつも、真太郎くんと過ごす夜に月を見たことがない。見えるのはほんの少しの星屑。「ねえ」とまた声をかければ「今度は何ですか」と面倒くさそうに真太郎くんが振り向く。「手を繋ぎたい」まるで初恋に胸をときめかせている少女のようなおねだりをしたら、真太郎くんは何か不満を言うために開けた口から言葉の代わりに溜め息を吐いて、左手を差し出してくれた。彼の行動に満足した私は微笑んで、自分の右手を重ねる。彼の手の暖かさを少しずつ吸収しながら、もう夜空には目もくれずに、真太郎くんと同じ歩幅で私のマンションまで向かった。



ベッドの上で真太郎くんとキスをして、私は想像力をはたらかせる。私たちはこれから魚になる。二人でシーツの海を必死に泳ぐ。こんな馬鹿げた妄想でもしないと、私はとても、真太郎くんと性行為をすることに罪悪感を感じずにはいられなかった。
ことに及び、だんだんと佳境に入ると、二人の荒い呼吸の音が鼓膜を独占する。ここまで酸素を求めて二酸化炭素を排出するのだから、もしかしたらセックスって地球温暖化の原因の一つかもしれない。なんてしょうもないことを考えて真太郎くんを見つめ、掠れた声で「好き」と漏らす。それは本当と言えば本当で、嘘だと言ってしまえば、どこまでも最低な嘘だった。この曖昧な、もはや媒体の役割を果たさない言葉が、真太郎くんの耳にどう届いたのかはわからない。真太郎くんは苦しそうな顔で私にキスをし、その行為はまだ続いていく。



気怠い身体を起こしベッドから下りて、床に落ちたワンピースを拾い、下着をつけず直に、着るというよりは身体に乗せるように身につけた。真太郎くんは寝息も立てず静かに眠っている。綺麗な顔。何も知らない、綺麗な顔。
私は寝室を出て洗面所へ行き、顔を洗って髪を整え、鏡に写った疲れた女の顔を何秒か冷めた目で見つめてから、今度はキッチンに向かった。何でも良いから何か飲みたいと思い薄暗い戸棚を眺めていて、目に留まった白ワインのボトルを取り出して開けた。小さなグラスにそれを注ぎながら行為中の真太郎くんの顔を思い出していた。熱の籠もった瞳。いつから彼はあんなに、情熱的な人になったのだろう。ワインがグラスの半分程を占めて私はボトルを置いた。
真太郎くんを初めて見たとき、ロボットみたいな人だなと思った。なかなか表情を崩さない。いつも一定の、ぶれのない音程で声を発する。そんな彼に私は好奇心をくすぐられた。この人が恋でもしたらどうなるんだろう。私のことを好きになったらどんなに面白いんだろう。そんな遊び心が私たちの始まりで、その結果、まるで魔法にかかったように彼は素敵な数々の表情を見せてくれた。今思うことは一つ。私なんかの遊び道具にするには真太郎くんは少し、高級すぎた。
無意味な考察を終了し、私はグラスを口元まで運ぶ。匂いがぐっと押し寄せてきたところで、ワインにありつけなかった。上から伸びてきた手にグラスをひょいと持ち上げられたからだ。特に落胆はせず、起きたんだなとだけ思い、後ろを向いた。私とは違いしっかりと服を着た真太郎くんと目が合う。

「おはよう真太郎くん」
「出勤前は飲むなと何度言えばわかるのですか」
「一口だけよ」
「医療の場で働く意識が低い」
「医学部の子ってみんなそんな真面目なことを言うの?」

真太郎くんは眉をひそめグラスをシンクの中に置いてしまった。もったいない、と訴えるような眼差しを意識して彼を見上げると、彼もまた自業自得だと抗議するような眼差しで私を睨んだ。思わず吹き出しそうになる。本当に自業自得だ。何もかも、自業自得だ。
ワインにはさほど執着せずに、私は真太郎くんのYシャツの襟が片方だけ立っていることに気づき、手を伸ばしてそれを直した。

「真太郎くんも大学でしょ。もう帰ったら?」
「そのつもりです」

寝室に戻り、真太郎くんが支度を終えて、私は玄関まで彼を見送る。時計を確認したら午前四時半だった。夜とも朝とも言い難い微妙な時間だ。
靴を履いた真太郎くんとキスをして至近距離に顔を近づけたまま「また連絡するね」と囁き、顔を離す。真太郎くんが出ていき、ドアが閉じる音を聴いて、私は疲れを表す溜め息をついた。
再びキッチンへ行き、シンクに置かれたグラスを持ち、何も汚れがついていないことを確認してワインを飲んだ。当然真太郎くんの言葉を思い出したけれど、本人のいない場所でそれに従うほど誠実でもない。結局少し残してグラスをシンクに入れ、それをぼーっと見て、自嘲したい気分になった。
こんなの間違っている。ただのナースである私が、勤め先の院長の息子である真太郎くんとこんな関係になっているのは間違っている。ずっと前から決められた婚約者のいる真太郎くんとこんな風に抱き合うなんて間違っている。
真太郎くんは知らない。私は彼の婚約者と会ったことがある。話したこともある。真太郎くんは何も知らない。



真太郎くんの婚約者である女性がここを訪ねてきたのは、一週間も経たない、二、三日前のことだ。玄関のドアを開けると、彼女は一瞬目を合わせてから申し訳なさそうに深々とお辞儀をした。年齢は恐らく真太郎くんと同じくらい。私より幾らか背が高く、長いストレートの黒髪はハーフアップにしていた。白いブラウスに紺色の膝丈のシフォンスカート。薄化粧ながらも上品な顔立ちはまるで女優のようで、清楚、まさにその形容詞にぴったりの人だった。
私も軽く頭を下げて、彼女を部屋に招いた。ソファに座らせ、紅茶を出した。彼女は不安そうな表情でずっと下を向いていた。ここに訪れるのにどれほど勇気がいっただろう。そう考えるといよいよ自分がしたことの重大さに直面した。それでも何故かあまり動揺はしなかった。いつかはバレるんじゃないかと思っていたし、学生時代に友達の彼氏を奪ってとんでもない修羅場になったこともある。もちろんその男と真太郎くんとじゃ全く別だけれど。それにしても学生時代と同じことをしているようでは、私は何も成長せずに歳ばかり重ねているんだと自己嫌悪した。
彼女がいっこうに口を開かないから私は自分用にも淹れた紅茶を一口飲んで話を切り出した。

「緑間くんのことだよね」

この場で真太郎くん、と馴れ馴れしく呼ぶのは気が引けて、久しぶりに彼の少し珍しい名字を口にした。こうして呼ぶと不思議と真太郎くんを遠く感じる。彼女は顔を上げ、私と見つめ合い「…はい」と小さく答えた。泣き出しそうな顔をしている。私は言葉に詰まった。この悲劇のヒロインに何と言葉をかければ良いのだろう。謝罪をするべきか。でもそれは一体何についての謝罪なのか。いっそ、学生時代の例の友達のように、今すぐ私の頬をひっぱたいてはくれないか。いや、この弱気なお嬢様がそんなことをするはずがない。
今度は彼女が口を開いた。

「真太郎さんと会うのを、やめてもらえませんか」

何の嫌味も恨みの念も感じられない、精一杯の懇願だった。
彼女は早口で続けた。

「自分勝手なのはわかってます。私たちはただ親の関係で幼い頃から将来を約束していただけで、恋人らしいことなんてしたことがないし、彼にはその気がないことも知っています。でも、私は真太郎さんと生涯を共にしたいと思っています。だから、これ以上真太郎さんと距離ができるのが私は嫌で…」

ごめんなさい。そう謝られた。何故私が謝られているんだろう。何故彼女は私を責めないのだろう。何故真太郎くんはこんな可憐な人を愛してあげないのだろう。嗚呼、何故、何故。疑問が浮かんでは答えを見つけられないまま消えていく。彼女はまだ一口も紅茶を飲んでいない。
私は、彼女の頼みに対しては何も返答せずに「あなた、真太郎くんが好き?」と訊いた。しまった。下の名前を呼んでしまった。彼女は怯えたような顔で私を見た。

「はい。…大好きです」

嘘偽りのない、芯の強い彼女の声に私は罪の意識を募らせ「そう」とだけ返して再び紅茶を飲んだ。その瞬間に、私は一本の演劇の配役を思い描いた。王子様が真太郎くんで、お姫様が彼女。私はお姫様から王子様を騙しとろうとする悪い魔女だ。いつか王子様に倒されるはずの悪役だ。それに不満はなかった。彼女の方が私よりずっと真太郎くんのことを想っていて、ずっとお似合いだ。だってこんなに綺麗な瞳をしているのだから。

彼女が出て行った後、私は一度も口をつけられなかった紅茶を片付けた。もしかしたら毒入りだと警戒されたのかもしれない。毒林檎を食べない白雪姫とはなんて賢明だろう。でもそれじゃあ王子様はキスしてくれない。そう思うと、魔女という存在はお姫様と王子様が結ばれるために絶対に必要ではないか。皮肉だ。どの童話にも幸せになれる魔女なんていない。
片付けながら決心した。真太郎くんに会うのはやめよう。きちんとけりをつけよう。



思い返してみて、結局まだけりをつけていない自分に気付く。私たちの関係を知った人間がいる今、もう断ち切った方が良いというのは私にとっても正しい判断だと思う。何を躊躇う必要がある。もともと真太郎くんは遊び道具でしかなかったのだから。それでも彼の体温を感じると、一時的な中毒性に襲われ、別れの言葉など言えなくなる。
私はシンクに置いたグラスをそっと倒した。ワインが流れていく。次に真太郎くんと会うのは四日後だ。そのときに言おう。ここではない場所で。真太郎くんに抱かれる前に。





「ねえ、もう会うのはやめよう」

私の声とほぼ同時に音を立ててグラスの中の氷が崩れた。二人でよく行く、というより私が強引に彼を連れて来る、この、大して雰囲気のあるわけではないありふれたバーを最後の場所に決めた。真太郎くんはもう十九歳なのだから少しくらいお酒を飲めば良いのに、と思うけれど真面目な彼はそれを許容しないため、安っぽいウーロン茶が彼の前に置かれている。青い照明に私たちは照らされた。
真太郎くんは当然驚いたように、それでも落ち着いた目で私を見た。負けじと私も見つめる。

「何故ですか」
「よくないなって、思っただけ」
「今更?」
「そう、今更」

予想通りだけど、真太郎くんは納得のいかないようだった。散々振り回しておいて、これは、誰だって不服だろう。億劫で、できることなら早くこの場から立ち去りたいけれど、こうなるともう少し真太郎くんと話をしなくてはならない。ウーロン茶の入ったグラスが汗をかいていくのを眺めていると「嫌です」と低い声が聞こえた。いつから真太郎くんはこんな風に声に感情が表れるようになったんだろう。

「じゃあ真太郎くんはずっと一緒にいられると思っていたの?」
「それは…」
「私は思っていなかった。違いすぎるんだもの。あなたは将来病院を継ぐし、何より婚約者がいる」
「そんなこと、俺が父親に全て話せば、」
「全て?婚約者は相手にもせずに年上の看護士と寝てるって?冗談よしてよ。そんなことされたら私があそこに居られなくなる」

真太郎くんの口から出てくる言葉はどれも愛に対しての忠誠心を貫いている。一方、私の口をついて出る言葉は全て真太郎くんを突き放すような理不尽で冷たいものだ。
真太郎くんは納得できないどころかそろそろ怒鳴るんじゃないかと思えるほど怒りに満ちていた。そして私の言葉に傷ついているようだった。私に夢中になった馬鹿な人。

「勝手すぎるだろう」
「うん。最初から勝手だったでしょ私は。こうなるって知ってて真太郎くんで遊んでたんだから。嫌いになって良いよ、私のこと。部屋にももう来ないで」
「俺は…!」

声を荒げて何か言いかけた真太郎くんの口を自分のそれで塞いだ。それ以上続きを聞きたくなかった。続きを聞いたら揺らいでしまいそうだった。唇を離して、目を丸くしている真太郎くんに微笑んでから、彼の耳元で「ごめんね」と小さくも確かな声を残して、私は立ち上がりグラスの横に自分と真太郎くんの分の代金としてお札を置いた。そのまま真太郎くんには目を向けず歩き出す。重い扉を押し、ベルの音を聴いて、私はバーの外に出た。静かな世界の終焉を感じる。終わった。真太郎くんと私が終わった。
それから私は、マンションに向かって歩き続けた。何度かバッグの中で携帯が振動したけれど無視を決め込んだ。ふと立ち止まって空を見上げる。月はない。真太郎くんと会う夜はいつも月が見えない。今夜は星すらも出ていない。星が綺麗だと言うこともできない。
自分の部屋につくとバッグと上着を全て投げ出してベッドに飛び込んだ。枕に顔を押し当てて私は泣いた。意味がわからない。いつからこんなに真太郎くんを愛しく思っていたのか。最初に抱いたのは好奇心だったはずだ。ただ恋愛経験に乏しい真太郎くんがかわいかっただけだ。年下の男の子と遊んでみたかっただけだ。何故私はこんなに泣いているのか。
きっと顔が酷いことになっている。化粧を落とす気にもなれなかった。本来はこの時間、真太郎くんがここにいるはずだった。二人で魚になっているはずの時間だ。真太郎くんがいないとこのベッドはとても広い。そして冷たい。全部私が悪い。あの可愛らしい人を絶望させて、最後に真太郎くんまで傷つけた。
真太郎くんは遊び道具。味のしなくなったガム。火種の落ちた線香花火。違う。真太郎くんはそんなんじゃない。噛んでも噛んでも味は消えずに増すばかりで私は夢中になるし、火種はしぶとく落ちずに綺麗に光り続けて私は見とれてしまう。真太郎くんは遊び道具なんかじゃない。私はいつの間にか、こんなにも、真太郎くんを好きになっていた。
そう自覚したところでもうどうにもならない。どの童話にも幸せになれる魔女なんていない。私は声をあげて泣いた。





それから、私は真太郎くんと出会う前の生活に戻った。病院に行って、入院中の患者さんの世話をして励まして、時々先輩ナースに嫌味を言われ、若い先生からの食事の誘いを断るような、ごく普通の生活を送っていた。これが私の送るべき生活だった。この色味のない、つまらない場所が私の生きる世界だった。



加熱した牛乳をマグカップに移し、私は両手でそれを持ち口元に運び、息を吹きかけた。出勤前の朝、今日はお酒を飲みたい気分ではなかった。
真太郎くんと会わなくなってから三週間。だんだん彼の温もりを思い出せなくなってきた。泣いたのは別れた日だけで、胸に突き刺さるような痛みももうない。これでよかったと爽やかに思えるようにもなった。真太郎くんとあの婚約者が上手くいけば良いな、とも。あの人だったら大丈夫だと思う。真太郎くんがどんなに頑固でも黙って後ろについてきてくれそうな人だ。そんなことを考えながらホットミルクを飲む。甘くて温かい。
ピンポーン、とインターフォンが鳴り、私はホットミルクを置いて「はーい」とドアの外に届くはずもない声を出して玄関まで向い、いつものくせで何の確認もせずにドアを開けた。
信じられなかった。平均より随分と高い背、モスグリーンの髪に、黒縁の眼鏡の奥に見える双眸。会いたくて、会いたくなかった、真太郎くんがそこに立っていた。

「来ないでって言っ…」

真太郎くんに抱き締められ、文句を最後まで言うことが叶わなかった。思い出してしまった。この人の暖かさを。真太郎くんは次第に抱き締める強さを増し、私は苦しくなった。どうして良いかわからなかった。何が起きているのかわからない。普段計算高く生きているつもりだけど、今ばかりは思考回路が追いつかない。
「会いたかった…」真太郎くんがそう言った。辛そうな声だった。

「なんで、なんで来たの」
「呼んでいたからです」
「呼んでいた?私が?いつ?」
「ずっとだ。ずっと、いつでも痛いくらいに呼ばれていた」
「ふ、生意気…」

私も真太郎くんの背中に腕を回した。暖かい。溶けていく。溶かされていく。私は彼のことを呼んでいたのだろうか。自分でも気づかないうちに求めていたのだろうか。それを真太郎くんは聞き取ってくれたのだろうか。追いつかない思考回路は停止した。脳みそよりも心臓の指示に従おうと思う。私も、会いたかった。どうしようもなく会いたかった。死ぬほど真太郎くんに会いたかった。
一旦身体を離し、真太郎くんと見交わす。かわいい、子供。そう思っていたはずの彼がひどく大人びて頼もしく見えた。

「好きだ」
「私も」
「愛している」
「…私も」
「なら、何の問題があるのだよ。一緒にいれば良いだろう。それともまだ、遊びだと言うのか?」

私は首を横に振った。真太郎くんはそれに満足したように口に微かに弧を描いて、再び私を抱き締めた。どうしようもない、馬鹿な人だ。彼も私も。
真太郎くんの腕の中で「好き」と呟いた。これは本当に本当の本当だった。一瞬、あの子の顔が頭をよぎったけれど、すぐに消した。王子様と魔女が結ばれる童話が一つくらいあっても許されはしないか。だって私も真太郎くんがたまらなく好きなのだから。
こんなの、間違っている。もはや正当化する気もない。月のような絶対的な光なんてない。あるのは幾つかの小さな星屑。頼りない光。そんな薄暗い世界で、私たちは恋をしている。
身体を離して、今度はどちらからとでもなくキスをした。初めて会ったときに比べて真太郎くんは魔法がかかったように変わったと思っていたけれど、本当に魔法にかけられてしまったのは私の方かもしれない。



花園に眠るプリズム



20121026