私の左腕は手首から肘にかけて包帯が巻かれてある。すごくすごく、大切な包帯だ。これが無ければ私は私でいられなくなるような気さえする。
生きるのが嫌で、死にたいくせに死ねない私が、繰り返し傷付けた手首。元々はこれを隠す気はなかったけれど、いつだったか誰かに「気持ち悪い」と言われ、自分自身もその意見に激しく同意し隠すために巻いたのが包帯だった。リストバンドでは幅が足りなくて、他に何も思い付かず、少しあからさますぎるような気もしたけれど包帯を巻くしか、この中途半端な傷の残る醜い手首を隠す方法がなかった。
巻いて解いて、切って、また巻いて…そんなことを繰り返していた。この包帯が私の傷を隠してくれる。癒してくれるかどうかはわからない。ただ、私の手首と心の痛みを隠してくれるのだ。

「それ、俺とお揃いやな」

自分の席で一人本を読む私に、左手で学校の配布物であるプリントを渡し、笑いかけてきたのはクラスメイトの白石くんだった。少し、いや大分びっくりした。その言葉の意図がわからなくて。嫌だということだろうか。きっと特別な意味なんてなくて彼は思ったことを口にしただけかもしれない。何か返さなくてはと「うん」とだけ頷いた。白石くんは他の席をまわりプリントを配る。
同じクラスになったときから白石くんが左手に包帯を巻いてることは知っていた。私と同じ理由だろうか、という考えは彼の普段の行動言動をクラスメイトの範囲で知っていくうちに消えた。彼に限ってそんなことないと思ってしまう。そう決めつけるのはよくないかもしれないけども。ただ、白石くんが私と同じような人間だとは思えないのだ。私のように中途半端な呼吸なんてしていない。あの包帯の向こうは私みたいな気持ち悪い腕じゃなくて、それなりに逞しく優秀な腕なんだろうなと自分を憐れんでみる。


それから、何故か白石くんが私に話しかけてくれることが多くなった。本当に意味がわからない。人と話すのが下手な私は「うん」「そうだね」と頷くことしかできない。相手が白石くんだと余計怖い。何が目的なんだろう。…ああ、こういう風にすぐ裏を読もうとするのが私の悪いところだ。すぐ警戒し、疑う。それはすごく失礼なこと。白石くんは優しい人なんだ。私みたいな奴にも話しかけてくれる優しい人。それ以上のことは考えないようにした。



「ねえ、なんで腕包帯巻いとるん?蔵の真似?」
「…え?」

昼休みがあと少しで終わるっていう今、私の席を囲むように三人の女子が立っている。どちらかといえば私の苦手なタイプの、キツイ、感じの女子。その視線が怖い。すごく嫌な状況だ。特に、この腕のことに触れられるのは。そして、白石くんが関わるようなことは。あとちょっとで授業が始まるんだ。うまくやり過ごそう。

「そうなんやろ?蔵の気ィ引くためやろ」
「自分最近白石とよう話しとるもんなあ」
「違…」
「勘違いすんなや。蔵は優しいからアンタみたいな地味で暗い子にもクラスメイトとして話しかけてあげとるんやで」

知ってるよ、そんなの。だからお願い、もう白石くんの名前出さないで。彼は関係ない。何も関係ない。

「包帯外してええ?」
「…っ」
「ええやろ」

首を横に振る。でもそんなの無意味だ。彼女は質問したくせに一つの答えしか許さない。その女子が私の左腕の包帯に手をかける。嫌、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ!私はこの包帯が無かったら私ではいられない。きっと何もかもが崩れる。だって、私の傷を隠してくれるものがなくなって、気持ち悪い腕が剥き出しになって、私は、
そんなことを考えてるうちに彼女の手が、綺麗で冷たくて恐ろしい手が、どんどん包帯を解こうとする。

「…嫌っ!やめて!離して!!」

私は大声をあげて思いきり席を立ち、また思いきり左腕を振り上げた。三人の女子をはじめ、クラスにいるみんなが驚いている。みんなこっちを見ている、きっと白石くんも。どういう状況?何もかもがうるさい、周りのざわめきも、ちょうど重なったチャイムの音も、私の心臓の音だってうるさい。それなのに本当は心の奥底では時が止まったように冷たいくらいに静かだ。とても心地悪い。ただどうしたらいいかわからなくて、ついには涙がぼたぼたと零れ落ちる。左腕の包帯はほとんど解けてしまった。傷だらけの左腕を右手で強く握る。
「何の騒ぎや」と、次の授業の教科担当の先生が教室に入って来た。私はそんな騒ぎになるようなことをしてしまったのだろうか。さっき起きたことが自分でもわからない、わかりたくもないけど。握る手の強さを更に強める。骨、折れそう。

「先生、俺保健委員なんでちょお保健室まで連れてきます」
「おー白石、頼んだわ。ゆっくり休むんやで?何があったんか後で説明してな」

行こか、と白石くんが私の肩を掴む。こんなのみんなに見られたらまたさっきみたいに言われちゃうよ。でも思考回路がどうかなってしまったような私は両手で顔を覆って白石くんについていく。誰かの舌打ちが聴こえたような気がした。

白石くんと廊下を歩きながら思う。どうして包帯を巻いたんだろう。包帯なんて巻かなければよかった。私はずっと気持ち悪い腕を剥き出しにしてたら、きっと白石くんだって近づいて来なかったのに。あの女子たちだってこんな風に私に関わろうとしなかった。みんなみんな気味悪がって…私は一人でよかったのに。

“只今留守中です。何かあったらすぐ他の先生を呼びましょう。”
保健室のドアにかかってあるこの無責任なボードを無視して、白石くんと私は保健室に入り、向かい合うように二つの椅子に座る。
私は暫く泣いていた。何故泣いてるのかよくわからない。苦しいのか悲しいのか恥ずかしいのか、そのどれにも当て嵌まらない気がする。ただひたすら泣いて、泣いた。泣いてるとき白石くんが何をしてたか、どんな顔をしてたかは知らない。何も言わないで私が泣き止むのを待ってくれていたことだけ、泣いてる間もずっとわかった。泣き止んで顔を上げて初めて目が合った。

「すまんな」
「え?」
「いや、なんちゅうか…自意識過剰かもしれへんけど、さっきの、俺のせいやろ?」
「ち、がうよ。白石くんは絶対ちっとも悪くない!」
「はは、そない大声出さんでええよ。おーきに」
「私こそごめんなさい。迷惑かけちゃって」
「迷惑かけられた覚えあらへんで」

そう言って白石くんが笑ったから、やっと私の周りに穏やかな空気が流れる。さっきまでの嫌なドキドキはもうない。今現在、全くドキドキしていないと言えば嘘になるけれど。白石くん、私のこと嫌いになってないのかな。なってないように見えるんだけど、優しい彼だから実際のところはわからない。
ふと自分の左手首に目をやる。包帯は完全に解けてしまった。見るだけでうんざりするような傷たちが剥き出しになっている。いっそ腕ごと切り落としてしまいたい。こんな腕公害だ。みんなこれを見てどう思ったんだろう。白石くんはどう思ったんだろう。そう考えると今度こそ死んでしまいたくなる。

「包帯、巻き直したる」
「…は、い?」
「俺包帯巻くの上手いで」

得意げな顔でそう言った白石くんはどこからか取り出した包帯を持っていた。変な人。この状況では大体の人がこの腕については触れないと思う。なんとなく気まずくなるから。下手な慰めや励ましなんて以っての外。白石くんは例外。そうだ、この人。いつも何だか、他の人、みんなとは違う言動行動を私に対して起こしてくる。気のせい?勘違い?それが少し怖くて、同時に何故か安心する。

「いいよ、もう巻かないから」
「せっかくお揃いなんやで?巻こ」

一瞬、ほんの一瞬だけ白石くんが寂しそうな顔をしたから、何も言い返せなくなる。そんな顔すらあまりにも整っていて、周りの女子はみんなコレにやられるのか、とまるで他人事のように考えていた。白石くんが私の左手首に包帯を巻いていく。やっぱりその手つきは慣れているようだった。汚い傷がどんどん隠されていく。どんなに隠されたって傷は傷のままなのに、まるで傷なんて最初からなかったかのように錯覚する。私の手首は綺麗なものなのだ、と。馬鹿馬鹿しい。

「私の手、」
「んー?」
「気持ち悪くないの?」
「気持ち悪ないわ。細いし白いし、綺麗な手やん」

白石くんは包帯を巻きながら答えた。嘘だ。何が?どこが?綺麗?慰めているつもり?こんな手、こんな手。そう思ったけれど口に出す気にはならなかった。これ以上白石くんを困らせたくない。困らせたくないというより、困らせて嫌われたくないという方が正しいか。なんでこうなるの。私は一人でよかったとさっき考えたばかりなのに。嫌われたって別に構わないと思っていたはずなのに。そもそも好かれてるわけでもないし。白石くんの優しさに触れた途端全てが矛盾し始める。

「巻けた」

考えすぎて自分に嫌気がさしてきたところで白石くんの声が耳に入り、我に返る。私の左手首に綺麗に包帯が巻かれていた。いつも私が巻くときよりもきつく巻かれてる気がする。もったいない。無駄だよ、白石くん。私いつかこの包帯を解く。そしてまた切っちゃう。わからないけどやめられないの。

「ありがとう」
「解けへんようにしたから」
「え?」
「もう、傷つけるんやないで」

……。うまく呼吸ができそうにない。誰かにこんなこと言われたら、捻くれ者の私は偽善だと言って手を振り放すけれど。でも、まだ私の左手首を包帯の上から掴んでいる白石くんの手が少し震えてるのが伝わったから。だけど、だけど、白石くんのその言葉に頷くことはできない。多分何を言われても無理だよ、私。

「すぐ解けちゃうよ、こんな包帯」
「解けたら俺がまた巻き直す」
「…、」
「もっときつく巻いたるからな」

少し強気な声が返ってきた。私は俯く。もう何も聞きたくない。耳も包帯で塞いでしまいたい。やめてよ白石くん。その手も離して。勘違いしそうになる。さっきの女子が言った通り、白石くんは誰にでも優しい。こんな私にすら、酷く優しい。その優しさが痛くて、苦しい。それでも恋しい。

「…ありがと」
「おん。俺は教室戻るけど、自分はもう少しここにおった方がええな」
「うん、そうする」
「落ち着いたら戻ってきてな。先生には適当に言うとくわ」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」

そう微笑んで白石くんは保健室から出ていった。そのドアをしばらく見ていた。まだ少し彼の温もりを感じる、なんて思うのはきっとこの包帯のせい。また女子たちに何か言われちゃうかな。白石くんとお揃いって答えよう。余計嫌な顔されそう、どうでも良い。ふと、心臓が鳴り止まないことに気がついて恥ずかしくなる。この勘違い女。でも、もう少し勘違いしていたいという欲も出てくるもんだから、本当に呆れる。遠くの音楽室からピアノの演奏が僅かに聴こえる。ゆったりとしていて落ち着いたメロディー。そっと包帯の上から左手首を撫でた。この傷だらけの汚い手が、なんだか少し、愛しく思えてきた。



少しだけ優しくなった世界


20110406