私の憂鬱はいつも綺麗な紫色をしている。

 そんなの困る、不都合だ。そう思っても、目を逸らすことなんてきっとできない。
 体育館ではバスケ部の部員たちがいつも通り必死に練習をしていた。目の前でバスケットボールを適当に放り投げた敦がこっちまで来る。屈んで、体育座りをしている私の横に置かれたタオルとスポーツドリンクを手に取った。私はただその揺れる紫色を見上げていた。この人はいつだって私をこんなにも孤独にさせる。「あつし、」小さく呟いたそれは私の口から1.5メートルほど距離のある彼の耳にしっかりと届いたらしく、敦はスポーツドリンクを飲みながら私と目を合わせて首をわずかに傾げた。私が何を言うか察しているのか少し億劫そうな顔だ。

「死にたい」
「死ねば?」

 返答に1秒もかからなかった。喉が潤った直後のよく通る綺麗な声が、私を殺そうとしている。意外でも何でもないその言葉は、恐らく、彼の素直な提案だ。別に、何か特定の言葉を望んでいるわけではなかった。反吐が出るような優しい言葉をかけてほしくて、こんなこと口にしたんじゃない。ただ、この莫大な憂鬱を表現する語句が、これしか見当たらなかったのだ。嬉しいだとか悲しいだとかその類の形容詞と全く変わらない役割を、この不謹慎な言葉に持たせた。敦の、私のことなんてどうでもよさそうにタオルで首元の汗を拭く姿を見ながら、その願望がいっそう強くなるのを感じる。

「死にたいよ敦」
「うん、だから死ねばいいじゃん。こういうの何て言うんだっけ、メンヘラ?うぜーんだけど。優しくされたいなら室ちんに言ってよ」
「…敦の前じゃなきゃ死にたくならないんだよ」
「はぁ?」

 敦は眉間に皺を寄せた。もうとっくに怒っているんだろう。敦は言葉の意味をそのまま正しく受け取っていて、私はあまりにも特殊な使い方をしていて、だから噛み合わない。でも敦が本当は頭が良いことを知っているから自粛しようとは思わない。敦だって誤差が生じていることに気づいているはずなのに、わざと辞書通りの意味でしか捉えようとしないのだ。それは面倒だからか臆病だからか、その瞳を見ても、わからなかった。私は懲りずに彼の嫌がる話をする。

「敦を見てるとね、死にたくなる」
「ふーん、なんか言ってることイミフメーだけどさ、止めたりしないから好きなように死になよ」
「死なせてくれないのは敦だよ」
「は?人の話聞いてた?死ねって言ってんの俺」
「死ねるわけないんだよ、敦が生きてるのに」
「…何それ俺も一緒に死ねってこと?なんでそんなことしなきゃいけないの?そろそろひねり潰すよ」

 それは敦がいつもキレている時に使う常套句だ。でも表情にいつもその言葉を口にする時のような殺気はない。ただ私との会話を終わらせたいだけなんだろう。私は敦の顔を見たまま、小さく横に首を振った。逸らしてしまえばいいのに、馬鹿だ。私はいつまで経ってもこの人から離れることができない。

「私ね、敦の行き着く先が見てみたい。こんな奇跡みたいな人が一体どんなバスケをするのか見たい」
「…いつも見てんじゃん」
「まだ途中でしょ?可能性がありすぎるんだよ、敦には」
「でも俺見てると死にたくなるんでしょ?」
「うん。私には届きはしないんだって悲しくなる。敦が成長すればするほど、死にたくなるんだよ。でもそれでも見ていたいから、苦しい」
「解決方法ないじゃん」
「そうだね、一生死にたいって思いながら敦のこと見てるのかもしれないね」
「いい迷惑だよもう…」

 テンポのいい会話はそこで失速した。敦はキレているというよりは困惑かもしくは疲弊の表情を浮かべていた。抽象的な話に参ったのだろう。解決方法なんてない。敦の言ったそれが全く正しい結論だった。わかっていた。解決のしようがないんだ。敦の未来が見たいと思う。敦のつくるバスケが見たいと思う。それは本当だ。でもその未来が近づくのが怖い。これも本当だ。今目の前に立っている男は、私の憂鬱であり、同時に希望なんだ。希望を持ちたいのは当たり前じゃないか。なのに、その希望は憂鬱と隣り合って存在しているから、困る。絶望じゃなくて、憂鬱だ。だから困る。望みは絶たれていない。
 敦が急にしゃがみ込んだ。大きい体が縮む。お互いの顔の距離がぐんと近くなる。それでもまだ私が見上げる形になっているけれど。

「じゃあさー、乃英ちんが言う俺のバスケ?が行く先?…よくわかんねーけどそれを見ることができたら乃英ちんはどうなるの?死ななくてよかった、生きててよかったって思うわけ?」
「……」
「それとも本当に死んじゃうのかな」

 全く想定外の尋問だった。敦はクエスチョンマークをつけるような表情と口調で話しているけれども、私の返答なんてまるで必要としていないようだ。もちろん私も返答できるはずもなかった。そんなことを考えたことはない。今敦に聞かれるまで気づきもしなかった。私は自分で敦の行き着く先が見たいなんて口走ったくせに、それは半ばファンタジーのようなものだと思っていた。それを言い訳に、目先の苦しみにしか意識を向けていなかったのだ。
 何も言うことのできない私をしばらく見つめた敦はだんだんと得意気な顔になっていった。おもしろい悪戯を思いついた子供のようなそれだ。

「俺もなんかそれは気になるから、その時までは俺の近くで生きてていいよ。あーでもあんま死にたい死にたい言わないでね、湿っぽい女嫌いだから」

 瞳孔の紫色がキラリと光ったような気がした。一瞬で約束が交わされたのだ。その約束が私に与えたものは希望でも憂鬱でもなくて、安心感。感じ取ることができたのは、ただの優しさだけだった。胸が詰まって涙が出そうになるくらい、暖かなものだった。私の頭の中に居座っていたいくつもの理屈は吹っ飛んだ。敦が息を吹きかければ飛んでいくような薄っぺらい理屈だった。残ったのは、この人に向ける愛しいという気持ち。

「俺ね、分かったの」
「…何が?」
「秘密」

 そう言って笑った敦はずっと手に握っていたスポーツドリンクを置いて、タオルを私の膝に投げるようにかけて、立ち上がった。近くに転がっていたボールを取り、ドリブルして私から遠ざかっていく。私はずっと目で追いかけていた。敦がバスケをしている。髪が揺れる。依然として、私は死にたい。
 私の希望はいつも綺麗な紫色をしている。どこまでも深く澄んだ、アメジストのような色だ。きっと私は明日も明後日も、死にたいんだろう。死にたいと思いながらこの希望に縋って、紫色を追いかけて、生きていくんだろう。この色を見失った時、それまで小さくも確かに動いていた私の心臓は止まって、やっと安らかな眠りにつくことができるんだろう。それは全て、彼がもたらす幸福だ。

と と も い 
 り め な 話

つまりそれってさぁ、ただ単に俺が好きってことでしょ?
20150128