適当な室温に心地良さを感じる彼の部屋でハードカバーの推理小説をのめり込むように読んでいた。一枚ページを捲った瞬間に、どこからかトカゲの形をした玩具のようなものが明朝体の羅列の上に飛んできた。深緑色をしたそれはよく見るとなかなかリアルで今にも足が動き出しそうだ。そして少し愛らしい。それの尻尾にあたる部分を右手の親指と人差し指でつまんで、私は顔を上げ、目の前でそれはもう機嫌の悪そうな顔をした清志くんと何分ぶりかに口をきく。

「何これ」
「あー、クソ、これもだめか」
「何?」
「お前ほんといつも同じ顔だよな」
「整形でも勧める気?」
「ちっげーよ!表情だよ表情。もっと驚いたりしねぇ?普通」
「驚いた方が良かった?」
「あはは、もういいよ。そういうの訊いちゃう辺りやっぱお前だわ。どうぞ読書続けて」

そう言われ、再び小説に視線を落とし、何秒かしてから私は例のトカゲを勢いよく清志くんの方へ投げつけた。不意打ちだったのか清志くんは少し驚いたように目を見開き、すぐにさっき以上に機嫌の悪そうに、というよりもはや沸点を突き抜けたかのような黒い笑顔を私に向けていた。人にトカゲの玩具を投げられたときはこういう反応をすれば良いのか、と学習して私は小説を読み進める。
表情が変わらない。薄い紙に列べられた文字以上に、清志くんの言葉がくっきりと頭に浮かぶ。表情が変わらない。自覚はある。何故そうなったのかも概ね理解している。でもこれで良いんだ、と誰かの声がずっと響いて消えない。私は無表情でいれば良い。頭の中で話が展開してしまった今、夢中になっていたはずの推理小説はただの文字の固まりに成り下がり、私はそれを読み続けることを諦め、ハードカバーを閉じた。私のことを気にしていた清志くんと目が合う。

「私は人形なんだよ」
「え、いきなり何、アンドロイドごっこ?」
「お前は人形だって言われたの」
「は?誰に?」
「あの人、私の無表情が美しいって言ってた。だから、笑ったり泣いたりすると怒られてた。表情を崩すなって」

清志くんの顔から殺気が消えていく。あどけない少年の表情になる。清志くんは美少年だ。
お前は人形なんだ。笑うんじゃない。お前は無表情が一番美しい。ずっとその顔で俺の隣に居ろ。いつだったか私にそう言った人がいた。その人は、私が今のところ人生で一番好きだった人で、多分依存していた。元から変わっている人だと思っていたし、むしろそこにたまらなく惹かれたのだけど、さすがに言っている意味が解らず、私は聞き流していた。そして私が何気なく笑顔をつくったときに、その人は私の頬を叩いた。笑うなと言っただろ。そう叱られ、私は笑うことは罪なのだと覚えた。泣くことも怒ることも、許されてはいないのだと。
そして今、目の前にいるのはあの人ではないのに、清志くんなのに、私はあの頃の癖が抜けない。もしかしたら忘れたくないのかもしれない。まだ私はあの人のものなのかもしれない。

「だからね、人形なんだよ」
「は、くっだらね」

いつもより大分静かで低いその声を聴いた次の瞬間には、清志くんの両手が私の首を掴んでいた。状況が全く飲み込めず、清志くんの目を見て私は戦慄した。今まで見たことないくらいに清志くんは怒っている。何に対してかはわからないけれど、その怒りが彼の手に集中して、私の首を絞める力が増す。苦しい、苦しい。死ぬ。殺される。声をあげようとしても、もうその声帯から届く音はなく、私はただ口を開ける。死ぬ。清志くんの顔がわからなくなる。どうしてこうなっているのか。考える余地などもちろんなかった私は目を閉じた。そのとき閉じた目から涙が流れた。それを待っていたかのように清志くんは両手を離した。
私は手で首を押さえ、下を向いて咳き込んだ。解放された管に酸素を送り込む。涙は依然溢れ出していた。清志くんの両手が今度は私の肩を掴んだ。私は力なく顔を上げる。

「人形が、こんな風に泣いたりすんのかよ」
「…し、くん」
「こんな風に酸素を求めたりすんのかよ」
「……」
「ふざけんな。その男の側にいたのがどんな奴だったか知らねぇけど、今俺の目の前にいる奴はちげえ。ちゃんと呼吸してる人間だよ」
「清志くん、」
「お前は人形なんかじゃない」

怒っているようで怯えているような顔をした清志くんが放ったその言葉が確かな色彩を持って、私の胸に飛び込んでくる。まるで魔法にかかって石にさせられていたのが解けたみたいに、自由の扉を開ける。空っぽだった小瓶に一個一個カラフルな飴玉が、少し乱暴ではあるけれど、しっかりとその孤独を埋めていく。ああ、私は呼吸をしている。何を馬鹿なことを言っていたのだろう。私が人形だというのは、あの人の願望に過ぎない。あの人は私を人形にしたかったんだ。あの人が望んでいたから、私も努力した。あの人の満足する私になりたかった。自分は人形だと、そう思い込んでいた。感情などないと。でもそれは全く叶わなかったこと。だって私は、人形じゃない。綺麗な洋服に身を包んだフランス人形でなければ、清志くんが投げてきたトカゲでもない。私は生きていた。あの人の側にいた頃も、今も。どんなに願っても人形になんてなれなかった。あの人に、人形じゃない私なんて必要ない。あの人は表情をつくる私を愛さない。清志くん。清志くんは?

「つうか、悪い。マジで殺しかけたわ。ごめん」

本気で焦っているようで、珍しく綺麗な眉を下げて清志くんが謝った。テッシュボックスから何枚か雑にテッシュを抜いて、私の涙を拭ってくれる。清志くんは、私が泣いていても怒らない。頬を叩かない。この人は、あの人とは違う。私が目一杯愛して、どうしようもないくらいに恋い焦がれたあの人より、ずっとずっと優しい。

「平気だよ。おかげで自分が生きてるの思い出した。これが狙いだったんでしょ?」
「そんなんじゃねぇって。ただ少し、嫉妬しただけ」
「え?」

清志くんの口からそんな、嫉妬なんていうワードが出てきたのが意外で、すっかり涙が引っ込みクリアになった視界に真っすぐ清志くんを移す。照れたように、視線だけそっぽを向いた清志くんが「見んな。刺すぞ」と言って抱きしめてきた。これでお互いの顔は見えなくなってしまった。
清志くんの腕の中は暖かい。また同じように私も体温を持った人間であることを確認する。二人分の心臓がちゃんと動いている。足音のように、小刻みな音が波となって微かに鼓膜を震わせる。私は静かに笑った。罪悪感はもうなかった。ぎこちないかもしれないけれど、心から感じた幸福を笑顔に宿した。残念なことに清志くんからは見えないけれど。まだそれでも良い。これからたくさん、私は清志くんの側で笑って泣いてまた笑って、ちょっとだけ怒ったりして、過ごしていけたら。それは全て清志くんが思い出させてくれたことだった。さっきまで私の首を絞めていた手は今私の背中を撫でている。その手が私の居場所を教えてくれる。

「清志くん」
「ん」
「清志くん」
「何だよ」
「ありがとう」
「別に」



優しさ仕掛けのモンスター

20121009