ほんの少しの微睡みから目覚め、真っ先に感じたのは嗅覚が仕留めた高尾さんの匂いだった。全身を包まれているように感じるのに、隣に高尾さんは不在で、ここが彼のベッドなのだと思い出す。ここでついさっきまで肌を重ねていたのだと思い出す。
きっといつものようにベランダにいるんだろうと、上半身を起こしてベランダの方を見ると、思った通り、開いたガラス戸の向こうで高尾さんは煙草を吸っていた。私はそれをベッドの上でシーツを握りしめながらぼんやりと見つめる。本当に何をやっても嫌味なほど画になってしまう人だな、と、とっくに分かりきっていたことを再確認した。このベッドからベランダまで何メートルだろう。5メートルもない。たったそれだけの距離なのに、どれだけ歩いても追いつけないほど遠く錯覚する。まだ夜は明けていない。もう一度本格的に眠って朝を迎えてしまおうかと一瞬迷ってすぐに、私は先ほど脱ぎ捨てた衣服を着始める。スカートのファスナーを留め終えたところで、高尾さんはベランダからこっちに戻ってきてベッドに腰掛けた。

「もう帰んの?」
「…はい」
「じゃあ送ってくね。あ、忘れ物しないこと」

そう言って人差し指を立てた高尾さんに、小さくありがとうございますとだけ言うと、笑って頭を撫でてきた。子供になったみたいだ。実際高尾さんは私より三つ上ではあるけれど、それ以上に、高尾さんの包容力だったり察しの良さだったりが、差を更に感じさせる。私なんて、黄色い帽子を被って手を汚しながら砂のお城をつくる幼稚園児だ。
スポーツカーのキーを持ち玄関を出る高尾さんに私もついて行く。マンションの駐車場まで手を繋ぎたい。そう思い、右手を伸ばしては引っ込める動作を繰り返し、やがて諦めた。
高尾さんが好きだ。恋をしている。高尾さんも私に好意を向けてくれる。甘えさせてくれる。抱いてくれる。それは幸福と言えば幸福で、一歩観点を変えれば壮大なる虚無感に襲われる。本当は私の一方通行なんじゃないか。その疑いが消えない。だって私は高尾さんがわからない。高尾さんは本当の姿を見せてくれない。普段が偽りだというわけではなく、あれはあれでやはり高尾さんなのだけれど、違う。いつも私との間に細い線を引いている。それは細くても確実に、私たちを裂く。高尾さんの本音が聞きたい。高尾さんにとっての私は何なのか知りたい。遠い、遠いよねえ。もっと近づきたいもっともっと対等な恋がしたい。いつも高尾さんばかり、ずるい。私の全てを見透かしているくせに、自分を見せようとしない。知りたい、知りたいもっと、ねえ足りない、足りないよ、もっと聞きたい知りたい愛されたい近づきたい。近づきたいよ愛されたい愛したい傍にいたい少しでも近く一秒でも長く、いたい、痛い、傍にいたい、あなたの、高尾さんの傍に。
堪えるのが困難なこのような想いは結局言葉として発せられることはなく、置き場のないままずっと浮かんでは膨らんでゆく。膨らんだそれが破裂する頃、一体私はどうなっているんだろう。
気がつけば高尾さんの車の前にいて、別れの時間が近づいてくるのを嫌々受け入れ始める。助手席に座り、シートベルトを締めれば、エンジンのかかる音も聴こえて、高尾さんがアクセルを踏むのに伴って車体が動き出す。運転席に座る高尾さんはやっぱり遠かった。





車が走り出してすぐに降り始めた雨が次第に強くなってきた。雨粒が太鼓のようにボンネットを打つ。速度が切り替わったワイパーが規則的に動く。水滴を流して、またすぐに水滴だらけになって、それをまた払い流す。そんなフロントガラスを見つめていても気が遠くなるだけなのでやめた。ステレオから微かにジャズのようなリズムが聴こえる。勝手に高尾さんはロックを好いてそうなイメージを持っていたから、車内でこういった類の音楽が流れるのは意外な気がしたけれど、その割には何の違和感もなく似合う。高尾さんがサックスを吹いていたら格好良いと思う。そんな妄想をワイパーと同じリズムで洗い流す。この時間、車は少ない。私のマンションまでの帰路がずっと渋滞していたら今より幸福感を得ていたかもしれない。信号の黄色が赤に変わり、車はゆっくりと止まる。

「ねえ、ジャンケンしない?」
「ジャンケン?」

こっちを向き、悪戯っぽい笑顔をした高尾さんが、唐突に言い出した台詞は私が全く予想していなかったそれで、臨機応変ではない私は思わず聞き返してしまった。対向車線に停止している一台の車のライトがぼやけて視界に入る。

「高校んときさー、毎日学校の行き帰りに友達とジャンケンしてたんだよ」
「負けた方が鞄を持つ、とかですか」
「そう思うっしょ?それが違ぇんだな。負けた方がチャリ漕いで、勝った方がリヤカー乗んの」
「リヤカー…?学校の行き帰りに?」
「そうそう。今思うとぶっ飛んでたなあの頃。ちなみに三年間俺の全敗!」
「一度も勝てなかったんですか?」
「すげぇ強運なのそいつ。あ、その顔は信じてねぇな〜?今度会わせてやるよ。ちょっと変人だけど良い奴だから」

そう言われて、会わせる、ということは高尾さんが友人に私を紹介することも含まれているのかと気になったけれど、どうせこれは口先だけの軽い話で、私はきっとその運が良い人とは会うことなんてないのだろうと、喜んでしまいそうだった気持ちを冷ましてゆく。第一、高尾さんの話が嘘か本当かもわからない。だって、私は高校時代の高尾さんを知らない。高尾さんがどんな高校生だったのか想像は出来ても、確認することは出来ない。私が知っているのは、たった半年前からの、しかも私といるときの高尾さんだけだ。
信号が変わる前に素早くジャンケンをした。私がパーで、高尾さんはグー。その結果に高尾さんは参ったというように笑って、私も笑った。全敗していた、というのは本当かもしれない。信号が青く光り、車は動く。

雨は強くなるばかりだ。もうすぐマンションに着く。私の憂鬱が嵩を増す。私は昨日よりどれくらい高尾さんに近づけたんだろう。毎日そんなことを考えては落ち込んでいる。そもそも自分がどこにいるかもわからないのに。
今日、もっと高尾さんに話したいことがあったはずだ。もっと触れたかった。もっと傍にいたかった。私の恋はいつだって過去の願望系で終わる。後悔とは少し違う。悔やむほどの勇気もない。
マンションのエントランスの真ん前に着いて、車は停止した。途端に身体が重くなる。嫌だ、帰りたくない。高尾さんと離れたくない。いたい、もっと一緒にいたい。

「泣いてる?」
「え…」

高尾さんに言われて気付いた。そっと頬に触れた右手の人差し指と中指に液体がつく。ダッシュボードの上に無造作に置かれた煙草の箱が、私の顔を覗き込んだ高尾さんが、世界が滲む。私は今、泣いている。涙が溢れて止まらない。高尾さんに見られたくない。高尾さんを困らせたくない。そう考えると余計に涙が出る。この涙に理由をつけようとしてもよく見当たらない。いろんな感情が入り乱れている。一つだけわかるのは、高尾さんがいなかったら決して流れることのなかった涙だということだ。私は俯き両手で目を覆う。

「寂しくなっちゃった?」

高尾さんは後ろから腕を回して私の肩を優しく掴んで抱き寄せた。よしよし、と、まるで赤ん坊をあやすようにされて急激に恥ずかしくなった。この歳にもなって、訳の分からない涙を流している自分を憎む。それでも嗚咽は止まらない。ごめんなさい、ひたすらそう繰り返していると高尾さんがキスをしてきた。唇はすぐに離されて、私は目を見開いて高尾さんを見つめ、高尾さんは少し眉を下げて困ったような笑顔をしていた。すぐにまた唇がくっつき、今度はディープキスをする。やっとキスを終える頃には涙はもう出なかった。
段々落ち着いてきて、シートベルトを外そうと手をかけた時に、車は動き出した。Uターンをして、来た道を戻るように走る。

「やっぱうちにいなよ。つうか、そんな顔されちゃったら帰せねーじゃん」
「でも、」
「なーんて。本当は俺が寂しくなっただけなんだけどね」

目を細めて笑った高尾さんに、また惹かれているのだと、胸の奥からじわじわと主張が届く。高尾さんはよく笑う人だ。そしてきっとその笑顔のずっと先でまた違う表情をしている人だ。私がそれを知る日はまだ当分こない。一生こないかもしれない。
何もわからないのに、何もかもを求めてしまいたくなるくらい、高尾さんに恋している。もうこれ以上好きになりたくない。そう思っても一秒ごとに想いが加速する。私と高尾さんの想いを天秤に乗せたら私の方がずっと重い。それでもまた私は天秤が壊れるまで愛してしまう。高尾さんと会えば会うほど孤独になる。孤独になればなるほど高尾さんに会いたくなる。こんなに寂しい恋は初めてだ。
相変わらず雨は降り続けている。うるさい雨音に紛れてなら、好きだと言っても気付かれないだろうか。何度も何度も好きだと、愛していると言っても、許されるだろうか。口を開いた瞬間、どうせ私が何か言わなくても高尾さんは全てを、私の膨大な気持ちすらも本当は暴いていることを思い出して、口を閉じた。
曇った窓に目をやる。水滴とワイパー、ステレオのジャズ、赤信号のジャンケン、タバコの空き箱。次第にそれらに愛情を抱いていく。私はこれから高尾さんの部屋で高尾さんと朝を迎える。それは私が望んだことで、でも明日は一緒にいられない。そうしてまた悲しくなることも私は知っている。その上で、今抱いている嬉々とした気持ちは、高尾さんに依存している証にしか成りえなかった。
また赤信号に出くわして停車した車内で、私は赤信号だとわかりながらも猛スピードで進む何かが自分の胸に潜んでいることに気付かないふりをした。


サンクチュアリに触れさせて

20120930