彼女が、先日ニュースで大きく取り上げられた高速バスの爆発事故に巻き込まれたと聞いたとき、俺は本当に心臓が止まったかと思った。ただの驚きや恐怖以上に絶対的に不吉な予感が俺の心臓に釘を打っていた。彼女が死んでしまったかもしれない。もう目覚めないかもしれない。そう思うともう自分がこの世に生きている意味がまるでないような気がした。だけど彼女は右足を骨折しただけで命の別状は無いということを知ったとき、その釘は溶けて、止まっていた時間が再び動き始めたような感覚になった。早く彼女に会いたいと思った。きっと怖かったはずの彼女を抱きしめてやりたいと思った。生きていてくれてありがとうと言いたいと思った。もちろん、右足が治るまでは何かと不便だろうから手伝えることがあれば手伝いたいとも。そしてすぐに彼女の入院する病院に向かった俺は、彼女と会えなかった。

「ごめんね、あの子、蔵ノ介くんにはどうしても会いたくないって言うの。せっかく心配してお見舞いに来てくれたのに、ごめんなさい。今本人も色々混乱しているだけだと思うから、もう少しだけ待っていてね」
彼女のお袋さんにそう言われ、俺は絶句した。全て事情を話してくれた。彼女は事故の際に骨折だけではなく、顔に大きな火傷を負ってしまったらしい。彼女は鏡でケロイドに覆われた自分の顔を見て絶望したのだという。周りがどれだけ気にすることはないと宥めても彼女は気にして、人に、特に俺に会うことを拒絶しているらしい。
正直そう聞いたとき俺は腹立たしさを感じた。火傷が何だと言うんだ。俺は彼女を顔で好きになったわけではないし、どんなに醜くなったとしても絶対に離れない自信があった。けどまあ女の子だから、そういったことを気にするのは仕方ないことだと妥協し、彼女が俺との面会を許してくれるのを待つことにした。
だが思ったよりずっと深刻で、いつまで経っても彼女が俺に姿を見せようとしてくれることはなかった。さすがに辛抱出来ず俺は、ずっと後ろ向いてて良いから、顔を見せなくても良いから話がしたいとお袋さんに告げ、彼女も了承してくれた。


病室のドアを開けるとすぐに飛び込んできたのは白いベッドに座る彼女の後ろ姿だった。それは事故前と変わらない、小さくて愛しい後ろ姿。久しぶりに彼女の姿を確認できたことに安心した。大丈夫、彼女は何も変わっていない。俺の大好きな彼女のままだ。俺は嬉しくなって、難しいことを考えるのをやめた。

「…蔵?」
「会いたかった」
「……」
「良かったわ、無事で」
「良くないよ」

そう呟いた彼女の声は、女の子らしいソプラノなのに、決して感情はこもっておらず、平淡で、酷く凍っていた。九死に一生で助かった恋人との感動の再会とは思えないほど、法廷のようなピリピリとした空気が漂っている。そして悟った。彼女は俺を恐れている。自分を食い荒らしに来た獣に向けるような雰囲気で警戒している。恋人同士の甘えや安らぎがまるでない。それが俺にはすごくやるせなくて、悲しかった。でも一番悲しいのは彼女だ。何とかしてその深く沈んだ心を掬い上げたいと思った。

「なあ、こっち向いてくれへん?」
「後ろだけって約束だよ」
「せやけど…なあ、何でなん?俺は絶対に嫌いになったりせんわ。見してや」
「嫌だよ。こんな顔…蔵は嫌いになる」
「ならへん言うとるやろ」
「別れて」
「はあ?!」

まさか彼女の口から放たれるだろうとは想像もしていなかった言葉に、愕然とした。俺はムキになって、彼女を自分のいる世界へ連れ戻そうと決意し、口を開く。

「ちょお待て、意味わからん。なんぼでも言うわ、俺はお前の内面が好きやねん。顔なんかどうでもええわ」

それは嘘偽りのない、本心だった。彼女を救い出せる自信のある言葉だった。しかしそれを聞いた彼女は少し間を置いてから「…蔵じゃなくて、」と細い声を出した。背中が小刻みに震えている。

「…私が嫌なのよ!こんな顔で蔵の隣にいるなんて、ただの笑われ者じゃない!私はもう、蔵のそばにいて良いような女じゃない……あなたに愛されるような女じゃないの……」

怒っているような、泣いているような声で叫んだ彼女は俯き、背中は更に小さくなった。もうどうすることもできなくて、後ろからぶつけるだけの言葉では何も伝わらなくて、俺はベッドの元まで歩み寄り、目を瞑って後ろから彼女を抱きしめた。小さな悲鳴と拒絶の言葉が聞こえる。それでも俺は離さない。久しぶりに触れた彼女は暖かかった。その体温を確かめて、彼女が生きていることを実感して、怖くなる。怖いくらいに愛しいんだと思った。奇跡だ。俺が嫌いになる?ふざけるな。醜いわけがない。彼女は美しい。彼女は俺の愛する彼女のままだ。

「生きててくれてホンマにありがとう」
「何するの、」
「怖かったよな、痛かったよな。ごめんな、傍に居てなくて。助けてやれへんくって」
「蔵」
「何も変わってなんかあらへん。世界一かわええ」
「やめてよ」
「大好きや。むっちゃ好きやねん。なあ、頼むわ、ずっと一緒におって」
「蔵、ノ介…っ」

ダムが壊れたように彼女はわーっと泣き出した。俺は目を更に頑なに閉じて彼女を強く抱きしめる。真っ暗な世界で手探りに泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。
そのまま頭の中に彼女の笑顔を思い浮かべる。春風のような優しい笑顔。それがどんどん変形していく。混ざりきらない絵の具のように、ぐるぐると。炎を浴びた彼女の顔。想像しただけでも痛々しかった。どうして彼女なのだろう。俺の皮膚と交換してやりたいくらいだった。いつか嫌でも俺は目を開けなくてはならない。それは三秒後かもしれない。その前に誰かに針でこの目蓋を縫い付けてほしかった。もう二度と開けないようにしてほしかった。彼女の顔を見たくないわけじゃない。見たら嫌いになるなんて有り得ない。ただ、彼女と同じ薄暗い闇の中で生きたいと思った。こんなの偽善だ。俺の目が開かなくなったところで彼女のケロイドが消えるはずなんてないのに。俺が優しい恋人面したいだけだ。そんな風に自己嫌悪に陥っていると耳元で彼女の小さな嗚咽が聴こえてくる。そして俺はまた更に、もう限界まで筋肉を働かせて目を瞑った。意地でも開けない。
もう彩りのある世界なんて見えなくて構わない。こうして彼女を抱きしめることができるなら。彼女の命を感じることができるのなら。


暗 闇 の ふ た り
20120806