口を大きく開けて息を思いきり吸い込み、目を瞑って、水をたっぷりと張った洗面器に顔を突っ込む。じっとしているのが嫌いで、すぐ顔を上げそうになるのを我慢し、少しすれば鼻や口から空気が漏れ泡となって水の中に放たれる。もう限界だと感じ、バシャッと水の音を立てて顔を勢いよく上げ、さっきと同じように息を吸い込む。生きている。小さく荒い呼吸をし、前髪から落ちる水滴に本当にちょっとした不快感を感じながら、正面の鏡を見れば情けない男の姿が写っている。水も滴る良い男。ちゃうな、と一人苦笑いした。
そんな調子で風呂から上がり、タオルで体を拭いて部屋着を着て、冷蔵庫から取り出した牛乳をコップ一杯飲み、何となくリビングのテレビの電源を入れて、一通りチャンネルを回すが、この夕方の時間はワイドショーばかりで特に興味のある番組はやってなかったので、電源を消す。
そのまま自分の部屋に戻り、乱暴にベッドに飛び込み仰向けになる。気分が落ち着かない。ふと思う。アイツは今頃何しとんのやろ。元気やろか。はあ、と呆れたように溜め息を吐く。俺はいつもこんなことを考えてばかりだ。彼女とは付き合ってもうすぐ二年経つ。俺は大阪、彼女は東京、俗に言う遠距離恋愛。ホンマに年に何回か会うくらいで。順調なのか順調じゃないのかもよくわからないくらい、遠い。始めはどうにでもなると思っていた。実際どうにでもなってきた。離れてたって、全然、俺は彼女が好き。ただ、欲求不満になる。身体よりも心の方が。メールや電話でどれだけ会話しようが逆に距離を感じるだけだった。それでも彼女とのやり取りは全部大切なものだと感じる。時々思う。彼女が苦しいとき寂しいときに、俺は傍にいてやれない。今すぐ来て、と泣きながら言われたって行ってやることができない。それが物凄く悔しい。どこまでも情けない。この距離には敵わない。ああ、好きっちゅー気持ちだけで走り出せるんやったら、どんなときでも会いに行けるんやけどな。足の速さには自信があるのだが、彼女に会いに行くことができないとなると、途端にこの足も頼りなく感じる。大阪と東京の距離は決して変わらないはずなのに、どんどん遠ざかるような気がする。想いはこんなに募る一方なのに。しんどい。やめよ。彼女や距離のことを考えるのを停止し、俺は目を閉じた。難しいな、ホンマ。


距離


ぼんやりとした意識の中、目を開く。どうやらあのまま眠りに落ちたらしい。随分と寝ていたように思えるが時計に目をやればまだ八時半だった。静かだ。両親は共働きだし、弟は友達の家に泊まりとかで、家には俺一人しかいない。正確に言うと、一人と一匹。ペットのイグアナと俺だけがここにいる。何のやる気も起きないのでもう少し寝てようかと目を閉じれば、携帯のバイブの音が耳に入った。携帯を手に取って開いてみれば表示された名前に完全に目が覚める。体を起こし、さっき彼女のことを考えてたのを思い出して少し緊張しながら電話に出た。

「もしもし」
『もしもし謙也ー?今どこー?』
「どこ…て、何やねんいきなり。自分の部屋やけど」
『そっか、よかった。今謙也ん家の前にいるんだ』
「へえ…て、は!?」
『今からピンポン押すから出てね』

嘘やろ、なんで?は?寝起きの頭が一気に覚め、混乱する。冗談やろ、メリーさんかて。そして電話が切れるのとほぼ同時にインターフォンが鳴った。高い音が響く。今この状況だとインターフォンを鳴らしたのは彼女以外に考えられない。いやそもそも東京にいるはずの彼女が今俺の家のインターフォンを鳴らすのだっておかしい。酷く混乱したまま、心拍数がどんどん上がっていくまま、きっと自分の身体のどこかでは少し期待していて、俺は階段を駆け足で下り、躊躇わずに玄関のドアを開ける。

「ただいま、ダーリン…なんちゃって」

そう言って一人楽しそうに笑みを浮かべた女の子は、確かに俺の好きな人、亜澄だった。未だ状況が掴めない。そんな俺を余所に彼女は玄関の方まで入ってきて靴を脱ぎ丁寧に並べ、お邪魔します、とだけ小さく呟いて家に上がり込んだ。亜澄との距離がうんと短くなって実感する。確かに、亜澄だ。年に何回かしか会えない彼女が今ここに確かにいる。ありえへん。まだ俺は眠っているのだろうか。これは夢なのだろうか。

亜澄、」
「…会いたかったぁ!」

そう心から言ってくれた亜澄が俺に抱き着いてきた。何ヶ月ぶりやろ。俺も会いたかった。その匂いを体温を、全身で感じる。とにかく、彼女は会いに来たのだ。どういった理由でかはわからないけど、俺に会いに来てくれた。その事実だけで頬が緩み、胸が弾み、この上ない幸福感に襲われる。何や、きしょいな俺。亜澄の背に腕を回そうとしたら、そこには小さい背中に不似合いな大きなリュックが背負われていることに気づいた。いい加減気になっていたことを問い掛ける。

「いきなりどないしたん?」
「謙也に会いたかったから新幹線に乗って来たの」
「急すぎるやろ。言うてくれたらもっと準備とかしたんやけど」
「サプライズ的なあれだよ。何、なんか思ったより嬉しくなさそう。私に会いたくなかったの?」
「ちゃうわ。むっちゃ会いたかった」

俺がそう言うと一瞬で沈黙になり、目が合う。なんとなく、その場のノリで、といった感じで自分の唇を彼女のそれに重ねた。少しくっつけただけで離しては、また角度を変えて口付けをする。これはノリ以上の勢いと本能で。それを何回か繰り返して、口を離したとき、また目が合った。そして二人、やっと笑い出す。照れ隠しをするように、俺も亜澄も同じ笑顔をつくる。今二人が同じ場所にいる。その喜びを噛み締める。その愛しさを飲み込む。

「今日は泊めてもらうからね」
「急すぎるっちゅーねん」
「明日には帰るから、ね?」
「…おん」
「謙也に話したいことたくさんあるんだよ」
「俺も」





仕事から帰ってきた親に事情を話して亜澄を泊めることにした。それから濃い時間を過ごした。お互いの近況の報告をして、わざわざする必要もないようなくだらない話ばかりして、笑い合って、じゃれ合って、急に「好き」なんて言われたりして、俺も「好きや」と言ってみたりして。一緒に居られなかった時間を必死で繕うように、俺たちは恋人らしいことをした。気がついたら二人ベッドの上で無造作に眠っていて、呆気ないくらい早く無機質な朝は訪れた。
どう考えても、ただ一泊するには多すぎた荷物をまとめる彼女を眺めて、結局何も伝えられなかったのだと思い知る。学校の話をした。テニスの話をした。アホな友達の話をした。楽しかった。だけど、本当に言いたいことはこんなんじゃないはずだ。もうすぐ亜澄が帰る。また俺たちの距離がぐんと遠くなる。その前に俺は何か伝えなくては、と妙な使命感と焦りに苛まれていた。
支度し終えた亜澄を駅まで送ることにした。最寄りの小さい駅から一本で大きな駅に出て、そこから新幹線に乗って帰るという。彼女は礼儀正しく俺の親にお礼を言って、靴を丁寧に履いて玄関を出て、俺もそれに続く。駅までずっと手を繋いでいた。他愛ない会話をしながらゆっくりと歩くが、確実に別れの前の寂寥感は漂っている。
駅に着き、ホームに並ぶ。あと五分で電車は来る。俺はまた何もできずに、距離に負けてしまうのか。そう苛々しかけていたら、隣にいた亜澄がこちらを向いて、俺を真っすぐ見つめてきた。

「昨日と今日はありがとう」
「おん」
「いきなり来たのに謙也嫌な顔しないんだもん、嬉しかった」
「サプライズ言うたのはそっちやろ。ちゅうか、彼女と会えて嬉しくないやつがおるか」
「ふふ、そっか、ありがとう」

亜澄の照れたような笑顔が無性に可愛くて俺は視線を逸らした。別にもう何も言わなくても平気なんじゃないか。そう安心していると、本当にか細い声で、まるで独り言のように「もっと一緒に居たかったな…」なんて聞こえてきたもんだから、俺は今までのうじうじした全てが吹っ切れたような気がして、もう一度彼女と向き合い、ごちゃごちゃと考えずに口を動かした。

「次は俺がそっち行くからな」
「うん。待ってるね」
「あと、その、亜澄。あんま無理すんなや」
「え?」
「気ィ遣って良い子ぶってんのバレバレやっちゅーねん。俺の前くらい我が儘言うてええから。ちゅうか、俺が居てなくてももっと甘えてくれてええから」
「…なに、いきなりどうしたの?」
「お、俺もようわからん!けどな、俺たち遠いけどちゃんと好きやから。安心しろや」
「なんかくさいよ謙也」
「うっさいわボケ」
「…ありがとう」

そう優しく笑いながら目に涙を浮かべた亜澄を見て我慢がきかなくなり抱きしめた。二人の距離はゼロセンチだ。もう遠さを嘆くのはお終いにしよう。笑いたいときに笑えば良い。泣きたいときに泣けば良い。好きなときに好きだと言えば良い。そんなシンプルなことを、俺たちは距離のせいにして、怠ってきた。だからいけなかったんだ。もし素直にこうすることができたら、ずっと心が近くに居られるだろう。違う場所で感じた喜怒哀楽や愛しさは、いつか、二人の強さになるんじゃないだろうか。彼女の言う通りだ。俺ホンマくさい。

「謙也、大好き」
「俺もやで」
「絶対迎えに来てね」
「当たり前やろ。浪速のスピードスターやで?」
「…まだそんなこと言ってたの?」
「人が時代遅れみたいに言うな!」
「頼もしいよ」
「まあ精々浮気せんで待っとくことやな」

電車の近づく音が聴こえ、俺たちは身体を離した。彼女の涙を拭い、目を合わせて笑う。もう寂寥感は薄らいでいた。電車が停車する。別れの言葉を一つ二つ繰り返してから亜澄は電車に乗り込んだ。きっとそこはもう別の世界なんだろう。寂しくないわけではない。けど、いつもより心強くいられた。ドアが閉まり、電車が発車する。ドアの向こうで手を振る彼女に俺も振り返す。電車は徐々に加速する。ドラマのようにそれを追いかけるような真似はしなかった。する必要がなかった。亜澄はこんなにも近くにいる。電車が完全に見えなくなってから俺は駅を後にした。空が青い。それだけのことが何だか愛しくて、俺は家まで走り出した。以前よりずっと自分が勇敢になれたような気がした。


距離


song / DECO*27
20120912