※兄妹


お兄ちゃんは頭脳明晰で運動神経も良く、バスケットボール部のキャプテンを務めていて、おまけに容姿端麗。そして何よりも、誰にでも優しく、誰からも信頼されている。そんなお兄ちゃんを持っているということがいつだって誇らしかった。だけど同時にいつも、私はこの人の妹ではないんじゃないかという疑いを募らせていた。非の打ち所のないお兄ちゃんと較べて、私は明らかに欠陥だらけだ。頭は大して良くないし、何かスポーツや楽器などで秀でているものがあるわけでもない。引っ込み思案で友達をつくるのが苦手。こんなに対照的に違うのに、私は本当にお兄ちゃんと同じ遺伝子で構成されているのだろうか。私はこの家の子なのだろうか。
あなたはあなただから良いのよ。いつだったかママにこう言われ頭を撫でられたことがある。真とは違った良さがあるんだから、あなたはただお兄ちゃんの言うことを聞いて、お兄ちゃんの邪魔をしなければ良いの、と。ママは優しい。私の前で優しくいてくれる。だから私は、夜中にママとパパが口喧嘩していたことを知らないふりをする。「どうして同じように育てたのにこんなに違うの!」「落ち着けよ。あの子は普通なんだ。真が優れているだけさ」「普通じゃないわよ、鈍くさすぎるわ!」「声が大きいよ。起きるだろ…!」「どうして!」こんなの、聞かなかったんだ。
私は私にできることをすれば良い。お兄ちゃんみたいに優秀ではないけれど、少し家事をこなすことくらいならできる。パパもママも仕事で忙しいし、お兄ちゃんも勉強や部活に励んでいる。その間に私は家中を掃除して、夕飯の支度をすれば良い。それしかできない。


誰もいないことはわかっているけど、念のためというよりは単なる癖で、失礼します、と呟いてからお兄ちゃんの部屋に入る。そこは掃除をする前から全然散らかっておらず、お兄ちゃんを前にしては私は掃除すらできない無能な人形なのだと実感する。それでも、少しだけでも小さな埃を取ることができたらと。お兄ちゃんがより快適に過ごせる場所になれば、と。私は掃除を始める。
お兄ちゃんの部屋はいかにも頭の良い男の人が暮らしていそうな部屋だ。本棚にはびっちりと様々な本が収納されている。きっと私には理解できないような難しい本ばかりだろう。お兄ちゃんは読書が好きだ。小さな頃、よく私に絵本を読んでくれた。オズの魔法使い、ブレーメンの音楽隊、不思議の国のアリス、ピーターパン。私はそのおとぎ話を目を輝かせながら聞いていた。お兄ちゃんはただ読むだけではなくて、絵本を読み終わった後に必ずその続きを話し出した。「知ってるか?これには続きがあってな…」今ならあれはただの作り話だって解るけれど、あの頃の私は続きを聞く度にハラハラしていた。だって、お兄ちゃんが語るそれは絶対にバッドエンドになるから。
視線を本棚から勉強机に移す。そこに置いてあった、少ししわのできている紙に思わず手を伸ばした。模試の成績表だ。全国順位と書かれた欄には“1/61983”と記載されている。また、一位を取ったんだ。なんだか私まで嬉しくなってしまう。お兄ちゃんは世界で一番偉い人だ。
そんなことを考えているといきなり誰かに左肩を掴まれ、私はびくっとして振り向く。制服を着たお兄ちゃんが立っていた。

「何してんだよ」
「おかえりなさい。あの、掃除」
「勝手に入るなって言ったろ」
「ごめんなさい。でも、まだ何もしてないよ?それより、お兄ちゃんすごいね。また一位だね。ママ喜ぶだろうなぁ」

そう口にした瞬間、お兄ちゃんは今度は私の腕を掴み強引に引き、私は、わっと色気のない声を上げながらよろけてその場に尻餅をつく。お兄ちゃんはそんな私を一度確かに蔑むように見下してから、同じ視線の高さになるまでしゃがみ込んだ。いつも優しいお兄ちゃんの、こんなに冷酷で軽蔑を含んだような瞳は初めて見た。私は何も言えなくなる。

「お前毎日こんなことやってんの?」
「え?」
「掃除とか料理とか、こんなシンデレラみたいなことやってんのかよ」
「これしかできないから」
「バカじゃねぇの。お前みたいな奴が一番ムカつくんだよ。謙虚なふりばっかしやがって」
「…ごめんなさい」
「お前本当なんで生まれてきたんだろうな?わざわざ俺と較べられて惨めになるため?失敗作だって笑われるため?」

悪童。確かお兄ちゃんは高校バスケの世界でそう呼ばれている。私はずっとそれが疑問で少し不愉快だった。お兄ちゃんはこんなに優しいのに、なんで悪だなんて呼ばれなきゃいけないんだろう。ずっとそう思っていたけれど、今私の前で、いつもの綺麗な顔のまま私に鋭利な言葉を投げつけるお兄ちゃんは、まさに悪童だった。
でも、違うよお兄ちゃん。私はお兄ちゃんと較べられても惨めになんかならない。失敗作だとしても、私はお兄ちゃんのために生まれてきたんだよ。

「父さんと母さんがお前のことで喧嘩してんの聞いてただろ?」
「…知らない」
「ふはっ!現実逃避かよ。お前が起きてリビングのドアの前にいたの知ってるよお兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「可哀想な奴」
「お兄ちゃん、どうして泣きそうな顔をしているの?」

お兄ちゃんの目つきがより一層鋭くなって私は少し怖じ気づいた。けれど本当に、お兄ちゃんは泣き出しそうな顔をしている。小さな子供が大きな遊園地でパパやママとはぐれたときのような。
お兄ちゃんは左手で私の顎を持ち上げ顔を近づけた。私は少しだけピントを外して、お兄ちゃんのずっと後ろの壁に掛かっているダーツ盤をぼんやりと眺めていた。ちょうど的の真ん中に矢が刺さっている。お兄ちゃんはいつだって何も逃さない。

「してねぇよバァカ」
「お兄ちゃん、」
「お前は俺のことが嫌いなんだよ」
「…好きだよ?」
「はっ、なわけねぇだろ。お前は俺のこと恨んでるんだよ。わからねーの?」
「わからないよ、お兄ちゃんみたいに頭良くないもん」
「俺と較べられる度に、お前は俺を憎んでた」
「やめて…」
「そうだろ?」

お兄ちゃんは笑っていない。違う。全力で否定できる。違う。お兄ちゃんはいつだって自慢のお兄ちゃんだった。頭が良くて、運動神経も良くて、かっこよくて優しい、私とは正反対の優良品で、ずっと憧れていた。そんなお兄ちゃんのことを嫌いになるわけがない。憎むわけが。
確かに較べられることは何回もあった。お兄ちゃんはできるのに、妹は残念だねって。でもそれは鈍臭い私が悪いだけで、お兄ちゃんは何も悪くなくて、いつもみたいに優しくて、こんなに近くいるのに両極にいるように遠く感じるだけだった。私はお兄ちゃんとは違うんだから仕方ないって言い聞かせれば何も気にすることなんてなかった。お兄ちゃんは私の尊敬する人。一度だって恨んだことなんか、ない。


ほ ん と う に ?


私は目を見開く。お兄ちゃんは相変わらず美しい無表情を貫いていた。本当に?誰の声だかわからないくぐもった声がこだまする。誰?パパ?ママ?お兄ちゃん?それとも、私?
本当にお兄ちゃんのことを恨んだことは一度もなかった?
うるさい。やめて。脳みその中がぐるぐるとかき混ぜられる。痛いくらいに強く、お兄ちゃんに抱く全ての思いが露呈される。嫌だ、思い出したくない。そんな希求を無視して私の頭の中は既に消えかけていた感情を甦らせていた。
優秀なお兄ちゃんが好きだった。それは本当だ。だけど物心がついた頃に、周りから向けられる冷めた視線に気付いた。お兄ちゃんへのそれとは明らかに違った態度。パパもママもお兄ちゃんしか愛していない。幼稚園で描いた私の稚拙な似顔絵より、お兄ちゃんの満点のテストの方がずっと価値がある。私はスケッチブックを抱きしめて一人考えていた。どうして私はお兄ちゃんの妹なの?お兄ちゃんの妹じゃなかったら私は失敗作なんかじゃないのに。私は良い子なのに。そうだ、ずっと抱いていた疑いは本当は願望だったんだ。お兄ちゃんと他人になりたかった。この家の子じゃなくなりたかった。私はただひたすら渇望していた。でもそんなの有り得ない話で、私の願いは無意味で、変えられない真実で、だから私は諦めた。素直に出来の悪い妹というレッテルを受け入れた方がずっと楽だった。周りの声も気にしなくなったし、パパとママの喧嘩も知らないふりをするようになった。純粋にお兄ちゃんに対して尊敬という気持ちを抱いていた。
今、全てを思い出した。私がそうなる前、自分を諦める前、私はお兄ちゃんのことが憎くて憎くて仕方がなかった。恨んでいた。この人のことが、大嫌いだった。

「思い出した?」
「なんで今更…」
「別に理由なんかねぇよ。まあ強いて言うならお前の顔が歪むのが見たかったから?」
「お兄ちゃん」
「…本当似てねぇな。なあ、まだ俺のこと好きだって言うのかよ」
「………」
「だろうな!言えるわけねぇよな」

私はひどく錯乱している。今、このお兄ちゃんに対してどういう意識を向けたら良いのか。好きだって思って良いのか。嫌うべきなのか。私がそんなことを考えているのを知ってか知らずにか、お構いなしにお兄ちゃんは、私の顎にあった左手を移動させて私の髪を耳にかけた。何とも言えない、誘拐現場のような雰囲気が漂っているように感じる。お兄ちゃんは綺麗な白い歯を見せて笑った。普通じゃない。何か来る。

「誰もお前のことなんか見ようとしなかったよな。みんな俺ばっかりだ」
「………」
「良いんだぜ?恨んでも。痛くも痒くもねぇよ。ただその代わり…」

俺が愛してやるよ。

お兄ちゃんの唇が私のそれと接触して、異常なことをしているのに気づく。これがキス…?私は男の人とこういったことをしたことがなかった。とても不思議。白雪姫も眠り姫もこんな風に王子様にキスをされたのだろうか。こんなに冷たいキスで目覚めることができたのだろうか。
お兄ちゃんが唇を離す。そのとき、私は確信する。この人は私の兄だと。私たちは同じ遺伝子からつくられている、と。だってこんなに、似ているのだから。お兄ちゃんを見つめながら、恐れさえ覚える。悲しいくらいにそっくりだ。ほら、心臓の音だって同じ速さでリズムを刻んでいる。成功作のお兄ちゃんと失敗作の私は、どうしようもなく、こんなにも似ていた。なんで私はお兄ちゃんと別々に生まれてきてしまったんだろう。鈍臭いせいか。もし私たちが二つにならないまま、融合したまま、生まれてくることができたら、きっと誰よりも人間らしい人間になれた。なのに二つになってしまったから、私たちは二人とも欠陥だらけだ。寂しがり屋だ。呼吸をするのがちょっと苦手だ。
憎くて憎くて、愛おしい。可笑しな程撞着したこの想いが溢れ出して止まらない。お兄ちゃんはやっぱり泣きそうな顔をしている。もう一度ママのお腹にいた頃のようになれば良い。羊水で眠っていた頃、私たちは幸せだった。
私はお兄ちゃんに飛びつくように抱きしめた。驚いたお兄ちゃんが小さく声を漏らしたのを間近で聴いた。お兄ちゃんは何かを諦めたように面倒くさそうな溜め息をついて私の背中に腕を回した。
ああ、どうしよう。まだ夕飯の支度をしていないのに。こんなところパパとママに見られたら叱られてしまうね。悪い子だね、私たち。ね、お兄ちゃん。




ネバーランド
喪失




「知ってるか?これには続きがあってな、ピーターパンは本当は悪い奴だったんだよ」
「えっ?」
「ずっとウェンディたちを騙してたんだぜ。最後には殺しちまったんだ。酷い話だろ?」
「やだよそんなの…」
「ふはっ、無様だよな。お前も覚えとけよ、ネバーランドなんかありゃしねぇんだよ」


20120729