目が覚めて時計を見たら午前9時だった。普通の高校生なら遅刻だと急いで支度を始める時間だけど、私にはどうでもよく、いつもに比べてわりと早く起きてしまったと思うくらいだった。今日は何曜日だろう。多分水曜日か木曜日。そんなこと知ってどうする。どうせ私は毎日が日曜日のニートみたいなものだ。私は再び布団を被る。
こんな生活が送りたいわけじゃなかった。こんな風になるなんて思ってもいなかった。中学校の頃ずっと憧れていた桐皇学園に合格したとき、私は何の不安も持たず、ただ嬉しくて、これからの学校生活を想像しては幸せになるだけだった。なのに。いざ入学してみると、自分が思っていたのと結構なギャップを感じた。学校が楽しくない。つまらない。情けないけれど、最初は本当にこれだけだった。面倒くさくなって一日ずる休みをして、そしたら次の日も行きたくなくて、そうしているうちに気付いたら私は不登校になっていた。今日こそ行こうと思っても、クラスメイトの反応を想像しただけでモチベーションは下がる。明日から行けば良い。そう何度も思ったけれどその明日は未だ来ていない。最低で親不孝でクズだと自覚はある。学校に行かず、勉強もしないで、毎日テレビを見て本を読んでの繰り返し。もし親が泣いてでもくれたりしたら、学校に行く理由ができるのに。私が思っていた以上に親は放任主義だった。憧れだった桐皇の制服は何回か着ただけの綺麗なまま、ハンガーに掛かっている。時々この制服をびりびりに引き裂いてしまいたい衝動に駆られるけれど、駆られるだけで実行に移せない。ただのヘタレじゃないか。眠気が再来してきたところで、布団を勢いよく剥がされる。

「おい、まだ寝てんのかよ」
「…大、輝…?!」

私はぱっと起き上がった。目の前にいる、どんだけ日サロ行ってんだよみたいな、ちょっと焦げた感じの大きな男は幼なじみの大輝で、彼はあまりに普通のような顔をしているけれど、普通こんな所に居るわけがない存在で、学校の時間で、しかも我が家は私以外誰も居ない上に玄関には鍵が掛かっているはずで、この部屋は二階で、とりあえず意味がわからない。眠気はどこかへ帰宅した。

「窓開けっ放しだったぜ、危ねえな。気をつけろよ」
「どうやって入ったの?」
「ピンポン千回押したのに出ねえからそこ登ってきた」

言ってることが滅茶苦茶すぎる大輝が“そこ”と指さすのは部屋に唯一ある窓で、つまりそれは家の外側をロッククライムのように登ってきたということを意味するわけで、普通冗談だと思うけれど、大輝の野生動物のような運動神経と非常識な脳みそだったらそれが可能だろうから、私は呆れて溜め息をつく。大輝が言う通り窓を開けっ放しにしていたのが危険だったのかもしれない。けれど大輝にはもうちょっと、自分が不法侵入をしたという自覚と罪悪感を持ってほしい。そう祈りを込めて大輝に目を向けるけれど、まるで元々ここに住んでいたかのようにナチュラルに私の雑誌を読んでいる。もちろん堀北マイの特集ページ。

「で、何しに来たの?」
「え?ああ、一緒に学校行くぜ」
「は?」
「いや、は?じゃねーよ。お前頭大丈夫かよ、まだ夏休み始まってねぇけど?」
「行かないから」
「なんでだよ」
「つまんないし」
「へえ、…じゃあセックスでもすっか」
「は?!」

隙なく大輝が私を押し倒す。覆い被さる大輝を見上げながら私は衝撃とともに困惑していた。もちろん大輝はただの幼なじみで、そんなことをするような仲のはずがない。大輝が私のスウェットに手をかける。私は大輝の胸を叩いて抵抗する。

「何すんの!」
「うっせーな。ずっと家にこもってたって退屈だろ。大丈夫だって。ゴムねぇけど外に出すから」
「大輝!やめて!」
「安心しろって。俺上手いから。…多分」
「や、め…ろ!!」

そう叫ぶのと同時に私はほぼ無意識的に右足で大輝の、恐らくお腹辺りを全力で蹴っていた。足の裏に鈍い感触が伝わるあたり、結構強くいったかもしれない。大輝は蹴られた箇所を押さえながら退ける。私は乱れかけた服を整えた。

「痛ぇ…あー、久しぶりに食らったわ。お前のキック」

大輝のその言葉で、そういえば今よりずっと小さい頃にさつきの頭に小さなカエルを乗せて泣かせた大輝に今と同じようなキックをお見舞いしたことがあったと思い出した。あの頃は三人毎日一緒に日が暮れるまで遊んでいた。探検をして秘密基地を作った。楽しかった。そう思い出に浸る余裕があることに驚く。だって今の状況で、男に襲われかけてる状況で。そこで気付く。大輝は全く本気じゃなかった。もし本気だったとしたら、この体格の良い大輝が私の蹴りで退けるわけがない。

「何考えてんの馬鹿」
「馬鹿はお前だろ。ヤりたくねぇなら学校にでも逃げろよ」
「言ってること滅茶苦茶だよ」
「どこがだよ。学校来いっつってるだけだろ。さつきも心配してんだぞ。引きこもってるうちに頭まで悪くなったのかよ」
「…私みんなみたいに頑張れないんだよ。甘ったれてて最悪だってわかってるけど」

こんなことを誰かに言ったのは初めてだ。大輝の表情が変わる。少しだけ真剣になる。
大輝はただ私を迎えに来てくれただけだ。学校なんて、行った方が良いに決まってる。ちゃんと卒業しないと社会には出られないし、それ以上に、この時期に学校でしか学べないことはいくらでもある。それでも私は、もはや意地になってでもこの部屋から出ようとしない。学校は面倒な場所だ。何百匹もいる金魚を無理矢理一つの桶に詰め込んだような、窮屈な場所だ。その認識が頭から離れない。

「いやお前何世界が終わったみたいな顔してんだよ。少し学校サボっただけだろうが」
「一回休んじゃうと行きづらくなるんだよ」
「お前の意思なんか知らねーよ。でも来い」
「なんでそんな必死なの?」
「決まってんだろ。お前が居なきゃ誰の宿題を写せば良いんだよ」
「…は?」
「さつきはケチだから見せてくんねーしよ。それに俺の弁当作れよお前。さつきが料理破滅的なの知ってんだろ?」
「あんたどんだけさつきに世話してもらってんの」

大輝がさつきに宿題を見せてもらおうとして断られる姿や、さつきのお世辞にも美味しいとは言えないお弁当を食べさせられている姿を想像したら、可笑しくて、懐かしくて、頬が緩む。大輝は本当にさつきがいなきゃだめだなあ。
ああ、桐皇に合格したとき嬉しかったのはただ憧れていたからだけではなくて、この二人とまた一緒に学校に通えるからだった。三人であの頃と変わらず、大輝がカエルを捕まえて、さつきが大泣きして、私が大輝を蹴っていたあの頃と変わらず、同じ思い出を作っていけるんだと思うと幸せだった。

「お前本当は行きたいんじゃねーの?」
「え?」
「学校」

大輝が抑揚をつけずに呟いたその単語は、私にとって何よりも忌々しく、だけどまさに核心をついていた。ずっと言えなかった。言えなかったけど、本当は、本当に、

「…行っても良いのかな」
「良いに決まってんだろ。つうか親に金払ってもらってんだから来いよ、この不良娘」
「居場所あるかな」
「そんなもんすぐに俺がつくってやるよ」

間を入れずに大輝が放った台詞に驚き、俯いていた顔を上げる。あの日確か大輝は私に蹴られた後、バツ悪そうに少し照れながらだけどちゃんとさつきに謝っていた。なけなしのお小遣いでさつきと私にまでアイスを買ってくれた。そんな優しくて頼もしい幼なじみが、あの日より随分と大きくはなったけれど、あの日と変わらない表情のまま、今、目の前にいる。
…学校に行きたかった。勝手に逃避して堕落した私だけど、コンビニに行ったときに桐皇の制服を着た女の子たちが楽しそうに話しているのを見て、羨ましさだけを感じていた。なんであの子たちはあんなに楽しそうなんだろう。私も同じ制服を持っているのに、どうして違うんだろう。ずっと疑問だった。今ならわかる。私はあれほど夢見ていた学校生活は既に待ってくれているものだと思って、自分で創ろうだなんて考えていなかった。幼稚だった。
だけど今、それを私と一緒に創ろうとしてくれている人が目の前にいる。居場所を探してくれる人がいる。私は笑った。

「しょうがないなあ。学校でさつきが一人でこの怪獣を面倒見るのは大変そうだから、私も面倒見てあげるよ」

皮肉のつもりでそう言ったら、少しだけ間を置いた後に大輝も笑った。久しぶりに酸素を吸ったような、そんな気分になる。私は今までどうしてこんなにふてくされて落ちぶれていたんだろう。自分で手を伸ばさなかったんだろう。でも、きっともう大丈夫。

「じゃあ着替えるから大輝出てって」
「ああ?めんどくせぇ。良いだろ、ついこないだまで一緒に風呂入ってたんだから」
「やっぱり学校行くのやめようかな〜」
「ちっ、わかったよ。下いるから三秒で出て来い」
「出るときは玄関使ってね」

そうして部屋から出て行った大輝を見届けてからハンガーに掛かったワイシャツを手に取る。こんな簡単に出て行く大輝がさっき頑張って私を襲う演技をしていたんだと思うと笑える。同時に本当にありがたいとも思う。制服を着終わって、革のスクールバッグに適当に教科書を押し込む。新品同様の教科書はこれからピンクのマーカーでたくさんの線を引かれたり、隅っこにパラパラ漫画を描かれたりするのだろうか。
全ての支度を終え、階段を下りて、玄関の横にある鏡を見る。いつか憧れていた制服を着た女の子がぎこちない笑顔を浮かべて立っていた。よし、とガッツポーズをしてから私はローファーを履いて玄関を出る。

「おっせーよ馬鹿。後ろ乗れ」
「チャリ?」
「今日は特別な」

黒いママチャリに乗った大輝に急かされるまま私はその後ろに座る。するとすぐに大輝は「しっかり捕まっとけよ、落ちても拾わねぇから」と言ってペダルを漕ぎ始める。速い。本当に振り落とされそうで怖くて私は全力で大輝にしがみつく。強い向かい風が私たちに吹く。太陽は高く眩しい。暑い。もうそろそろ夏だろうか。自転車は確実に学校へ近づいていくのに私は全く緊張していなかった。楽しみとすら思っていた。

「大輝」
「何だよ」
「大輝って童貞?」
「は?」
「さっき、俺上手いから“多分”って」
「うっせーよ。俺の童貞はマイちゃんに捧げるって決めてんだよ」
「ふははっ」

そんな他愛のない会話を心から楽しいと感じて、その後に私は小さい声で「ありがとね」と呟いた。風の音で聴こえてないかもしれないと思ったけれど、それは確かに大輝に伝わったらしく、大輝は笑って更に漕ぐスピードを上げた。
ずっと引き裂きたいと思っていた制服を着て久しぶりに踏み出した世界は、六畳の部屋に依存した私が思っていたよりずっと、広くて、暖かかった。



迷子が見つけた宇宙



20120727