夢の中で私は小鳥になっていた。雲のない青くて大きい空を遊ぶように、自由に飛び回っていた。私を邪魔するものなんて何もなかった。私の世界を壊す人なんていなかった。私は楽しくて、気が付いたら色とりどりの風船が浮かんできた空を、歌を歌いながら飛んでいた。途中で止まった木の枝から見下ろした景色に映った優しい男の子に恋をしていた。



「今日のラッキーアイテムはこけしなのだよ」

そう言った緑間くんはテーピングされた左手で、どこで買ってきたのだかわからない全長20センチくらいのこけしを私に差し出した。ありがとう、とだけ言って私はそれを力の入らない両手で受け取った。男の子にこけしをプレゼントされるのは生まれて初めてであり、恐らく最後だと思う。手にすると意外とすべすべした触り心地と、ずっと見ていると不気味そうに見えて本当は可愛らしい顔をしていることに気づく。緑間くんはといえば眼鏡のブリッジを上げていつも通りの固い表情を崩さずにいた。私はそんな緑間くんを見て頬を緩める。
緑間真太郎くんは同じクラスの男の子で、少し変わった男の子で、バスケがとても上手らしくて、朝のニュースの占いを強く信じていて、長い間入院している私にこうして毎日私のラッキーアイテムというものを届けてくれる男の子だった。それ以外は特に何もしない。他のクラスメイトがお見舞いに来たら大体、学校であった楽しい出来事や最近の芸能人のことを話題にして私を笑わせようとしてくれるんだけど、緑間くんはそういった話は全然しなかった。ただラッキーアイテムをくれて、あんまり会話もかわすことなく、でも時々勉強を教えてくれる。

「俺はもう帰る」
「うん。いつもお見舞いに来てくれてありがとう」
「ただ帰り道に病院があるから寄ってるだけなのだよ。ここの自販機にしか売ってないおしるこが美味いからな」
「うん。ありがとう?」

緑間くんが病室を出ていくのを見届けてから、ベッドに横になり、さっきのこけしをまたじっと見つめる。今の時期じゃ、おしるこは売ってないんだけどなあ。そんなことも知らずに素直じゃなくてあんな嘘をつく緑間くんがとてもかわいく思えた。
こけしを棚に置くと、一週間分のラッキーアイテムが溜まってることに気付く。またお母さんに頼もう。私は毎日もらうラッキーアイテムが一週間分溜まったらお母さんに家に持って帰ってもらうようにしている。自分の部屋には久しく行ってないけれど、もしかしたら緑間くんからのプレゼントで溢れかえっているんじゃないだろうか。そんなことを想像してわくわくしてきたところで、突然胸が痛くなる。くる、しい。私は涙目になって乱暴にナースコールを押した。



夢の中で私は赤い魚になっていた。エメラルドグリーンの海の中を踊るように泳ぎ回っていた。イソギンチャクが歌ってる。カラフルな小さい魚の群れが目の前を過ぎる。楽しいことしかない世界で私は自由に動いていた。時折優しい光が差す方へ導かれ、水面に顔を出す。そしたら見える、真っ白な船に乗っている男の子に恋してた。



「よう、元気?」
「高尾くん…?」
「あ、がっかりした?ごめんね真ちゃんじゃなくて。あいつ今日用事あるって言うから代わりに俺がラッキーアイテム届けにきた、のだよ!はは、ほーら、今日は砂時計だってさ」

高尾くんは小さな砂時計を私に渡して悪戯っぽく笑った。砂時計の中の青い砂がせわしなく上から下に落ちていく。斜めに持っているから正確ではないけれど、確かに時間を刻んでいる。高尾くんも同じクラスの男の子で、変わり者の緑間くんと一番仲良い(緑間くんは高尾くんのことを下僕だと言っていたけど)男の子だった。高尾くんはベッドの横の丸イスに座り、色んな話をしてくれた。学校の話、部活の話、緑間くんの話。私はその話に夢中になって、ずっと笑いながら聞いていた。

「緑間くんってバスケ上手なんだよね?」
「うめーよ、上手ってもんじゃないね。シュート外さないし」
「へえ、見てみたいなあ」
「退院したら試合見に来いよ。真ちゃん超かっこいいから。惚れるぜ?ついでに俺の応援もよろしく」
「…うん」

退院したら。そのフレーズがやけに脳内に響いた。退院したら。自分がこの白い部屋から出る姿をどうも想像できずにいる。手に持っている砂時計の砂は全部落ちきった。時間が止まったみたいだ。退院したら、可愛い服が着たい。遊園地に行きたい。映画も見たい。美味しいパフェが食べたい。学校に行きたい。バスケ部の試合が見たい。バスケをしている緑間くんが見たい。こんなにもたくさん浮かんでくるのに、一つとして現実味を持つものがない。これは私の被害妄想?
高尾くんは棚の上に置いてある昨日や一昨日のラッキーアイテムに気付いたらしく、それらを見てにやにやと笑った。

「これ全部真ちゃんが持ってきてんの?」
「うん」
「へえ、すげー。知ってる?真ちゃん最近自分のラッキーアイテム持ち歩いてないんだよ」
「…え?」
「信じらんねーよな。まあ緑間観察が趣味の俺が推測するに、自分がラッキーにならない分他にラッキーにしてあげたい人がいるんだと思うぜ?」
「何それ…」
「マジ不器用すぎて笑えるね。じゃ、俺帰るわ。お大事にな」

やんちゃな笑顔で手を振って、高尾くんは病室を出ていった。高尾くんの目は何だか鋭い。獲物を逃さないような目をしている。緑間くんの目はどうだっけ。いつもレンズ越しで、よく考えたらしっかりと目を見たことがなかった気がする。私はメモ帳とボールペンを取り出した。緑間くんの目を描いてみようと思った。けど、私はすぐに諦める。ボールペンを握る手が震えた。紙に重心を置いても震えは止まらず、まともに何かを描くことなんかできなかった。苛立ちからボールペンを投げ捨てる。それは床に跳ねて転がった。その過程を見て私は悟る。退院なんかできるわけがない。私はずっとここから出られない。被害妄想なんかじゃない。だって私の身体なのに私の思い通りに動かない。堪えきれなかった嗚咽が微かに漏れた。



夢の中で私は私だった。でも私じゃなくて、もっと自由な私。手も足も私の思い通りに動く。吐き気も頭痛もしない。私がいるのはこんな狭い病室ではなくて、もっと暖かい場所。賑やかな学校。私は友達とおしゃべりしていて、授業を受けていて、時々クラスメイトのある男の子に視線を送って、恋をしていた。



「今日のラッキーアイテムは万華鏡なのだよ」

緑間くんに手渡された赤い筒の万華鏡を覗いてみると綺麗な模様が視界を占める。ゆっくりと時計回りに回してみるとそれは少しずつ形を変えていく。万華鏡を手にしたのは随分と久しぶりのことで、懐かしい。小さい頃万華鏡を覗いてくるくる回して、模様が変わるのが不思議で夢中になっていた気がする。それから何年も経ったけれど、やっぱり万華鏡を覗いて見える世界は綺麗だ。
それから私は前に緑間くんが図書室で借りてきてくれた本を更に借りていたことを思い出して、ベッドの脇に置いていた文庫本を緑間くんに差し出す。

「本、ありがとう。面白かったよ」
「ああ。また読みたい本があったら借りてきてやろう」
「うん、ありがとう」
「…図書委員なのだから、仕事に人事を尽くすのは当然なのだよ」

そう呟いて本を受け取った緑間くんはやっぱりかわいい。殆ど毎日会っていればさすがに気付くけれど、緑間くんは多分お礼を言われるのが苦手だ。ありがとうと言うと必ず照れて言い訳めいたことを言う。それが好きで私は何度もありがとうと言う。心の底からありがとうを繰り返す。だって今の私にとって、こんな狭い場所から動けずにいる私にとって、広い世界を教えてくれるのは緑間くんだけだ。
膝においた万華鏡を無造作に回して、私はまた口を開く。

「緑間くんがバスケしているところ見てみたい」
「見に来れば良いだろう」
「緑間くんすごく上手なんでしょ?シュート外さなくて超かっこいいって」
「…高尾か」
「私もバスケしてみたいなあ」

スポーツは得意じゃないけれど、緑間くんや高尾くんみたいに上手くできるわけないけれど、私もあの、弾むボールを追いかけてみたい。服がびっしょりになるくらい汗をかいてみたい。走りたい。ガッツポーズをしてみたい。
万華鏡を握りしめる。緑間くんが毎日持ってきてくれるラッキーアイテムは本当に効き目があるのかわからない。わからないけれど、その優しさの詰まったガラクタたちは、この真っ白な部屋の中で何よりも鮮やかで、カラフルで、私を励ましてくれている。
ここで自分の一番奥底にある、どこまでも他力本願な欲望を発見する。私は多分、緑間くんに連れ出してほしいんだと思う。この病院から、この世界から、弱い私から。いつか夢見た鳥になりたい。魚になりたい。私になりたい。それを緑間くんだったら叶えてくれるんじゃないかって、そんな夢をいつの間にか抱いていた。

「教えてやらないこともないのだよ」
「…本当?」
「退院したらだが」
「退院、できるかな」
「当たり前だろう。これだけ人事を尽くしているのだから」

緑間くんが少しだけ怪訝そうな顔をして私に言った。ここから連れ出してよ。そうは言えなかった。もし言ったとしても、緑間くんはきっと、絶対に、私の手を引いてはくれないと思う。ここが私にとって一番安全な場所なのを知っているから。こうやって憶測を並べているけれど、本当はただ聞くのが怖かっただけで、拒絶されるのが怖かっただけで、私は結局彼の優しさに甘えて、この病室に拘束されながら依存して薄い呼吸をしている。これじゃあ生きているんだか死んでいるんだかわからない。

「ありがとう。緑間くんがそう言ってくれるなら、本当にそうなる気がする」
「当たり前だと言っているだろう。そうなる運命なのだよ」
「いつもラッキーアイテム届けてくれてありがとう。緑間くんってなんかサンタさんみたい」
「まだクリスマスではないのだよ?それに俺はソリなど乗ったことがない」
「そっか。そうだね、緑間くんは緑間くんだね」

そう言って私は笑ったけれど、緑間くんは難しい表情をしたままだった。それから少し話して緑間くんとお別れをした。緑間くんは殆ど毎日来てくれる。何か大切な用事がなければ明日も来てくれる。そう思うたびに安心しているのに、緑間くんが病室のドアを開けて出る時いつも、私はもう二度と緑間くんに会えないんじゃないかと不安に襲われる。思わずその背中を止めたくなるけれど言葉を発することは出来ず、毎回ただ見送るだけだ。緑間くんがいなくなってからの時間が、夜が、怖くてしょうがない。発作に痙攣、吐き気。次は何?明日、緑間くんが来るまでに私は死んでいるんじゃないか。冷たくなった私の死体を想像しては自分に更に恐怖を与えている。



今日、夢は見なかった。



また一週間分のラッキーアイテムが溜まっている。そのうちの一つ、一番お気に入りの万華鏡を手に取る。何回も覗いては色鮮やかな世界に恍惚とする。この世界が私の生きる世界だったら良いのに。
最近体調は一層悪い。たくさんの薬を飲んでいる。いくつも点滴を繋いでいる。緑間くんは毎日ラッキーアイテムをくれる。それなのに私の身体はどんどん機能しなくなるばかりだった。被害妄想だと嘲笑っていたことが確かな現実になる予感に身を震わせる。ここには、この場所にはたくさんの生と死が存在しているけれども、私は死に近づいている。
震えた手から万華鏡が落ちる。膝から更に転がってベッドの足元に落下し音を立てる。それを見た私は何故か可笑しくなって笑ってしまった。泣きたいはずなのに笑っていた。どうにでもなればいい。投げやりにそう思い、他のラッキーアイテムを手に取り次々に落としていく。一つ一つ違った音を立てて転がる。緑間くんの優しさを踏みにじっていく。私の世界にこんな綺麗なものは、もう要らない。

あと何時間かしたら緑間くんはいつものようにラッキーアイテムを届けに来てくれるんだろう。その前に私はガラクタになってしまいたい。いつか緑間くんがくれたこけしで良い。砂時計の砂粒で良い。万華鏡のビーズでも構わない。
ねえ、緑間くん。緑間くんはよく運命という言葉を使うけれど、じゃあ、これも運命?……無理だよこんなの、私には受け止められない。そんな簡単な言葉で片付けられないよ、ねえ、


カルマの音が聞こえない


20120725