「どうしてもここで間違えるわね。そしてテンポが狂う。どうにかならないの?本番無理そうだったらここアレンジしてごまかすけど」 ピアノのレッスンから家に帰るときはいつも、先生の指摘する声を思い出しては憂鬱になっている。足が重い。そういえば学校で受けた模試の成績があまり良くなかった。お母さんに見せたら何て言われるんだろう。前成績が落ちたときは「ピアノばっかりじゃなくて勉強もしなさい」だった。もう少し上手だったらピアノばかりしてても許されただろうか。 小学校低学年の頃にテレビで見たピアノの演奏に心惹かれて、お母さんに執拗に頼み込んでピアノを習い始めた。練習すれば練習するほど上達していくのが楽しく誇らしかった。発表会のたびに綺麗な衣装を着て演奏した。ひどく緊張するけれど楽しかった。中学校の頃、合唱コンクールではいつも伴奏を弾く役割だった。歌いたい気持ちもあったけれど、ピアノを弾けばクラスのみんながすごいって言ってくれるから楽しかった。ずっとピアニストになりたいって思っていた。こんなにピアノが好きなんだから、練習すれば、努力すれば、ずっとピアノを弾いて暮らしていけるんだと思っていた。もちろん現実はそんなに甘くなくて、私は段々上達しなくなった。練習時間を重ねるごとにセンスの皆無さが際立っていく。結局私は習っている分周りより少し楽譜が読めるくらいで、才能なんかまるでなくて、ピアニストなんて夢のまた夢で……そうどんどん考えているうちにピアノがつまらなくなった。好きなのに、つまらない。楽譜に書かれているものがぼやけて見えて頭に入らない。ピアノは私を愛してくれない。 そんなネガティブを抱きながら帰り道にある小さな公園の横を通ると、ボールの弾む音が聴こえて私は足を止めた。元々滑り台と砂場しかなかった本当に小さな公園に、誰かが勝手につけたらしいバスケットボールのゴール。その下で一人ボールを自分の体の一部のように操っているのは大輝だった。大輝が撃った力強いシュートはすっとゴールを通り落ちる。大輝は本当にバスケが上手い。バスケをしている大輝はとても楽しそうで、かっこよくて、羨ましくて、少し憎い。 私が公園に入ると踏んだ砂利の音で大輝は気が付きこっちを向いた。 「よう」 「大輝がバスケしてるの久しぶりに見た」 「一言目がそれかよ。お前は?なんでここにいんだ」 「ピアノの帰り。通ったら大輝いたからさ」 「疲れきった顔してんな。なんか嫌なことでもあったか」 「え」 大輝は目線を私に向けたままボールをゴールの方へ放つ。それは綺麗な曲線を描いてゴールに入る。ボールがゴールに入ろうとするより、まるでゴールがわざわざボールを受け入れようとしているみたいだ。どうしてこんなことができるんだろう。何か仕掛けでもあるんじゃないのか。そう疑ってはみるけど仕掛けなんかどこにもなくて、はっきりと存在するのは大輝の抜群の才能だけだった。大輝はバスケが好きで、バスケも大輝を愛している。そう結論を出した瞬間私は胸の奥からあまりにも不必要な、醜い感情が滲み出てくるのを感じた。バスケットボールが転がる。その模様すら私を馬鹿にしているように見える。 「もう、ピアノやめようかな」 「は?何でだよ。お前ピアニストになるとか言ってただろ」 「やめてよ、そんな夢見てたの恥ずかしいから。私下手だし」 「練習すりゃ良い話だろ。つーか好きならやめんじゃねぇ」 「してるよ。でも好きだけじゃどうにもならないんだよ」 「なるだろ。俺だって」 「…大輝にはわからないよ」 「…は?」 「大輝と私は違うんだよ?バスケが好きで、才能もあって、それだけで生きていけるような大輝に私の気持ちなんてわかるわけないでしょ!!」 唾が飛ぶくらいに叫んだ私を見て大輝は驚いていた。とんでもないことを言ってしまった。大輝は私を元気づけようとしてくれていたのかもしれないのに。私は大輝を逆恨みして八つ当たりして、こんなの、最低だ。でも、今の私にとって大輝は眩しすぎた。本当は知っていた。才能だけじゃなくて、大輝は誰よりもバスケが好きで誰よりも練習していたからこんなに上手になったこと。知っていたけれど、じゃあ、私と何が違う?私だってピアノが好きでずっと練習をしていたのに、なんで大輝みたく輝けない?そう考えたときに浮かんでくるのは、忌々しい生まれ持ったギフトというやつだった。 「そりゃちげーし、人の気持ちなんかわかんねえよ。けど、才能とかそういう言葉で片付けられんならお前の好きってその程度だったんじゃねーの?」 「ごめん、今大輝に何言われても嫌味にしか聞こえない」 私は嫌な子だ。 「あー、めんどくせぇ」 大輝は心底苛立った表情で舌打ちをして私の前から走り、ボールをドリブルして豪快なダンクを決めた。大輝はきっとプロの選手になれるだろう。本当に生涯バスケだけをして生きていくんだろう。きっと私みたいに中途半端に諦めたりなんかしないんだろう。やっぱり大輝はすごい。どうして私は、 「じゃあもう何も言わねーよ。言わなきゃいんだろ。けど俺は楽しそうにピアノ弾いてるお前が好きなんだよ、覚えてろブス!」 私の胸ぐらを軽く掴んだ大輝が恐い顔をして一息に言った。大輝の言葉が頭の中でループする。楽しそうにピアノを弾いてる私か好きだって。私は呆気にとられていたけれど、私から手を離し気まずそうな顔になってそっぽを向いた大輝を見ていたら涙が出てきた。唇を噛んで堪えようとしてもどうしようもなくて小さな嗚咽が漏れる。私が泣いているのに気付いた大輝は更に焦っていた。 「わり、ブスは言い過ぎた。泣くなよ」 「ごめん、ね」 「ああ?」 「八つ当たり、してごめん。大輝だって頑張ってるのにね。私…ごめん、大輝」 「…泣くなって。ただでさえブスなのにもっと酷くなってんぞ」 「ひどい」 両手で涙を拭っている私の頭に置かれた大きな手がぶっきらぼうに、それでも優しく、撫でる。だから余計涙が溢れる。ただひたすら泣いていると今度は大輝に抱きしめられた。驚いたし、恥ずかしいとも思ったけれど、それ以上に安堵を感じて私は大輝の腕の中で、ピアノや自分に対する不満を吐き捨てた。大輝はめんどくさそうにしながら、さっき言った通り本当に何も言わずに聞いてくれて、いつの間にか私にまとわりついていた憂鬱は軽くなっていた。 「ごめん、ありがとう」 「おい」 「うん?」 「今からお前ん家行くわ」 「え?」 「ピアノ教えろ」 「…大輝が弾くの?」 「当たり前だろーが」 「ふっ、似合わない!」 「うっせーよ!ああ、あとあれだ、腹減ったから飯も食う。決まりな。ほら、早く行くぜ!」 「え、ちょっと、大輝…!」 ボールを持って公園から出る大輝についていく。大輝の後ろ姿は大きい。持っているボールはやっぱり体の一部みたいだ。そんなことを考えていたら少し距離が空いてしまって私は歩く速度を上げる。すると大輝が振り向いて左手を差し出してきた。私がその手を掴むと大輝が笑ったから私も笑い返す。 笑ってしまうくらい私は単純だ。ついさっきまで大輝を憎んでいたのに、こんなに愛しいなんて。ついさっきまでピアノなんか一生弾きたくないと拗ねていたのに、こんなに早く鍵盤に触りたくて指が疼いてるなんて。でもきっとこの単純さが必要だったんだ。単純に楽しむことが、大輝にあって私にないものだった。 ピアノを弾く大輝を想像してみる。似合わなすぎる。何を教えよう。ねこ踏んじゃったくらいなら弾けるかな。無理だろうな。大輝にレッスン中の曲を聴いてもらおうかな。でも大輝は途中で寝そう。ドラクエのテーマソングでも弾いたら聴いてくれるかな。もう何でも良いから早くピアノが弾きたい。いつもつっかえてしまうあのフレーズだって、今なら、大輝がいるなら弾ける気がする。そんなことありえないのに。私って本当単細胞。 そうして帰路を歩いているうちにどこかの家からカレーの匂いがした。カレー食べたい。きっと隣にいる大輝もカレーを食べたい衝動に駆られてる。作ろうかな。でも我が家には今ニンジンがない。どうでもいい。うるさい心臓は少しテンポの速いメトロノーム。楽しくなって私は鼻歌を歌った。ああ、ピアノが弾きたい。 20120723 |