テーブルの上のノートパソコン。少し変わったペットの住む水槽。手軽なドラムセット。何枚も重なっている、恐らく大学の課題。飲みかけのペットボトル。二つの色違いのマグカップ。
久しぶりに来た謙也の部屋は相変わらず謙也の部屋だった。蔵ノ介の部屋より少し狭い。蔵ノ介の部屋より少しごちゃごちゃしてる。視界に入る景色を捕らえながら、こうやってすぐに蔵ノ介と比べていることに気付いて、自己嫌悪する。私は切り換えてなるべく蔵ノ介を頭の中から追い出そうと努めた。今、私は謙也の彼女だ。もう何度目だろう。以前はそうやって切り換える度に私は私が醜くなっていくのを感じて吐き気を覚えていた。でも、慣れた。手遅れのその先まで来てしまったのかもしれない。
前まで居心地良く落ち着ける場所だと思っていたこの部屋に、窮屈さと不安を感じた。悪いことをしている私に何か罠でもしかけているんじゃないかと恐怖を感じた。けれど、隣で私に話しかける謙也の顔を見たら、とてもそんなことはなさそうだと安心する。

「あ、前観たい言うとった映画あったやん?借りてきたでDVD」
「え、嘘?」
「公開中観れへんかったもんな、観よ」
「うん。嬉しい。ありがと、謙也」

そう言うと得意げに笑ってDVDをセットし始めた謙也を見ながら、自分の中で得体の知れない何かが、零れた牛乳のようにゆっくりと広がって染みを作っていくのがわかった。もし、今、第三者が私たちのこの風景を見たら、ごく普通のうまくいってるカップルに見えるのだろうか。蔵ノ介の部屋に行ったときと、言葉にしてしまえば同じ疑問だが、その意味内容は全く違う。切なげなBGMが流れて、本編が始まった。悲恋系のストーリー。どうせ謙也は途中で寝るんだろうなと思いながら液晶画面を眺めることにした。

ごく普通のうまくいってるカップルのはずなのだ。私が浮気さえしていなければ。私が蔵ノ介を好きになる前までは、誰が見ても憧れるような仲の良いカップルだった。
謙也と付き合って四年近く経つ。四年前の私は確かに謙也に恋をしていた。もう世界には謙也と私しか要らないと思っていたし、たまに喧嘩しても別れるという選択肢はどちらも用意していなかった。お互いの良いところも悪いところもたくさん知っていって受け止めてきた。それこそ映画かドラマのような順調な恋愛で、私は謙也との永遠に何の疑いも抱かなかった。謙也が私に蔵ノ介を紹介したとき、それは一瞬で崩れた。誰が悪いのかと言えば、謙也でも蔵ノ介でもなく、この浮気女だ。
蔵ノ介が好きだ。たった今、私の中心にいるのは間違いなく蔵ノ介だ。蔵ノ介と付き合いたい。最低だけど、蔵ノ介に彼女さえいなければ私はとっくに謙也と別れて蔵ノ介だけを愛している。けれど蔵ノ介に彼女がいるこの状態で、もし私が謙也と別れたら、私は蔵ノ介にとって重い女になってしまう。きっと蔵ノ介は私との関係をお互い恋人がいながら時々会って抱き合い、すぐに恋人の元に戻るような、渇いた関係だとしか思っていない。謙也と付き合っている私だから、蔵ノ介とちょうど良い関係を保っていられる。そう考えると謙也はどこまでも損な役どころだった。

映画が終わる頃、隣にいる謙也はやっぱり寝ていた。アクション映画だと起きているのに、こういった恋愛ものは必ず眠くなるらしい。二十時を指す時計を見て二人ともまだ晩御飯を食べてないことに気付いてキッチンに立った。冷蔵庫を開けて相変わらず偏食だなあと他人事のように思ってから卵を取り出した。料理なんて全然得意ではないけれど、今まで何度も謙也に作ってきて、謙也は何度も美味しいと言ってくれた。そういえばいつか、真夜中に凄まじい孤独感に襲われたときに謙也に電話をかけたら寝起きで電話に出た謙也がすぐに私の元まで来てくれたことがあった。私が風邪で寝込んでるときは心細くならないように必ず傍にいてくれたし、親と対立して悩んでるときは親身になって話を聞いて励ましてくれた。そんなことがある度に私は最高のパートナーと出会えたのだと感動した。今はその優しい思い出が私の罪悪感をせき立てていく。
二人分のオムライスが出来上がってそれをテーブルの上に置いたとき、謙也は起きた。

「おはよう、謙也」
「…あー、俺、寝た?」
「絶対寝ると思った」
「映画どうなったん?」
「んーとね、男の方死んじゃった。白血病だったんだって。オムライス食べよ」
「あれ白血病やったん?普通あんな症状あらへんけどな。おー、うまそ」

さすが医学部。感心しながらスプーンを口に運んだ。謙也も美味しそうに食べてくれる。前だったらこれがどんなに幸せだったことか、今は考えたくない。先日、蔵ノ介と会ったときに蔵ノ介の彼女が浮気を疑っているらしいということを聞かされた。少し会う頻度を減らすことにした。当分、会うときは少し遠くで、セックスは部屋ではなくホテルですることに決めた。そんな話し合いをしていると蔵ノ介が彼女と別れる気が全くないというのがはっきりわかって落胆した。あくまで彼女優先なのだと。そんなの最初からわかってるはずだった。こんなに欲深くなる予定じゃなかった。
謙也は私の浮気に気付いていないのだろうか。もちろん隠しているけれど。自分の彼女と親友が不倫している。謙也が知ったらどう思うんだろう。知ったときの謙也の悲しい笑顔を想像して、私は死にたくなった。

「この前大学で…」
「……」
「なあ、」
「……」
「おーい」
「え、あ、ごめん」
「何や今日疲れてへん?」
「うん。最近課題続きで全然寝てないんだよね」

無理しすぎはあかんで。深刻そうに言った謙也に私は笑顔をつくった。すると安心したような謙也は大学の話をし始めた。それに耳を傾け相づちを打ちリアクションをとる私はつくづく馬鹿馬鹿しい生き物だ。いつの間にか二人ともオムライスを完食していて、食器を流しに置いた。それを洗おうと蛇口にかけた手を謙也が止めた。

「謙也」
「ええよ。寝てへんやろ。今日は帰って休み」
「…エッチは?」
「…アホか。別にいつでもできるっちゅーねん」

少し照れた謙也に誘導されるまま私は帰り支度を始めた。別に二人分のお皿を洗うくらいどうってことないし、抱き合えないほど疲れてるわけでもなかった。謙也は過保護だ。そんなに優しいから、甘いから、女に浮気されちゃうんだよ。冗談で考えたつもりだったけど責任転嫁しているみたいでますます嫌悪感は募っていった。
部屋を出て家の近くまで謙也に送ってもらう。手はしっかりと繋いでいる。謙也の体温はいつもと変わらない。四年前からずっとだ。謙也は私を愛してくれている。苦しい。

「もうここでいいよ。ありがとう」
「おん。また何かDVD観たいのあったら借りとくで」
「うーん、謙也が寝ないのがいいな」
「…すんません」
「うそうそ。また連絡するよ。じゃあまたね」

謙也と別れて家の方向へ歩き出す。謙也に背を向けた瞬間涙が出そうになったけど、どうにか堪えた。私は泣ける立場じゃない。私は悪いことをしているんだ。加害者なんだ。泣くなんて、そんな被害者ぶったことをするのはお門違いだ。泣きたいのは謙也の方だ。
謙也がもっと人間的に価値の低い男だったら良かった。例えば女にすぐ暴力を奮うような、そんな男だったら私は罪悪感などに苦しめられることなく浮気していた。平気で別れ話を切り出していた。もちろん謙也はそんな男じゃないから私は好きになったし、そんな男じゃないから私は今こうして墜落している。
居心地が良かったはずの謙也の部屋が窮屈に思えたのは私が変わったからだ。あの部屋は何も変わらなかった。謙也は何も変わらなかった。私だけが変わってしまった。どうして謙也はこんなに素敵なのに、私は蔵ノ介にばかり惹かれていくのだろう。どうして前までのような感情を謙也に抱けないのだろう。別に謙也が蔵ノ介より劣ってるわけじゃない。むしろ私はきっと蔵ノ介より謙也といた方が傷つかずに生きていられる。謙也はずっと誠実で、何があっても私の味方でいてくれる人だ。模範的な恋人だ。蔵ノ介は違う。私が真夜中に電話をしても出てくれないかもしれない。会いに来てくれないかもしれない。わかっているのに、私はこんなにも蔵ノ介を求めている。蔵ノ介に愛されたくてしょうがない。蔵ノ介に、会いたい。
あとほんのちょっとで家に着くところで足を止めた。向きを変えて大通りに出てタクシーを捕まえた。中年の運転手に蔵ノ介のマンションの場所を告げ、走り出した車内で揺れる景色を横目に見ながら思う。私は何をやっているのだろう。連絡もせずに会いに行こうとしている。そんなに遠くもないのにわざわざタクシーに乗って。だけどもう止められないくらいに会いたくなった。私を許してほしかった。謙也といるときに感じずにはいられない苦しみから解放されたかった。一緒に罪を分かち合いたかった。
しばらくするとタクシーは目的地に着き、私は運転手にお金を渡して車を降りた。そのままマンションに入りエレベーターで四階まで上がる。蔵ノ介の彼女が来てたらどうしよう。浮気を疑われたばかりなのに。一瞬そう思ったけれど引き返す気になれなかった。私はクズだ。蔵ノ介の部屋の前に立ち、インターフォンを押した。



20120620