目を覚ますと、すぐ目の前にはバーナビーが眠っていて、私は彼の腕の中にいるのだと把握した。ずっとこの状態で寝ていたのだろうか。それともバーナビーが寝ぼけたか何かで抱き締めてくれたのだろうか。どっちにしろ私は幸福なのでそんなことを考えるのは止めて、しばらく彼の顔を見つめる。何度だって見たことのある寝顔だけど、何度見ても飽きないくらいにかわいくて、頬を緩ませずにはいられなかった。普段の彼からは想像できない程幼くて無防備なこの寝顔が私は好きだ。起こさないようにそっとバーナビーの腕をほどいて上体を起こす。そして彼の頭を軽く撫でてベッドから降り、裸のまま散らばった服だけ拾ってバスルームに向かう。
ぬるいシャワーを浴びて髪と身体を洗い流す。なんとなく、もったいない。私に纏わりついた彼の温もりまで流れてしまうような気がした。つい何時間か前までバーナビーとこのまま溶けて一つになってしまうんじゃないかと思う程に深く愛し合っていた身体は結局自分一人のものだと気付く。二人の人間が一つになることなど不可能なんだと気付く。
バーナビーとセックスしてるとき、いつも感じることがある。私を求める彼は、母親に縋りつく赤子のようだと。根拠なんてなくて勘違いかもしれないけれど、なんとなく。それは決してバーナビーの態度ではなくて、私に触れる彼の指先から、唇から、全てから、彼の切実な欲が伝わってくる。彼の大きすぎる孤独が伝わってくる。それは、彼が幼い頃に両親を亡くしているからだろうか。本当はお母さんとお父さんにもっと甘えたかったんじゃないか。そう思う度に私は自分の無力さに自嘲した。どれだけ愛していても、彼の寂しさを全て拭うことなんてできないのだ。彼が一人で、何かに怯えて、何かを憎んで、何かを許せずに生きてきた時間は消えないのだ。
バスルームから出て、柔らかいタオルで身体を拭き、下着とワンピースを身に付けて部屋に戻ると、バーナビーはもう起きていて着替えている途中だった。前髪についた軽い寝癖すら愛しい。

「おはようバーナビー」
「おはようございます」
「よく眠っていたね」
「あなたがちょうど良い抱き枕になったので」

ベルトを腰につけながらそう言うバーナビーを見て、じゃあ彼は意図的に私を抱き締めていたのかとさっき抱いた疑問を解決させて微笑んだ。バーナビーの居る空間が好きで、バーナビーと過ごす時間が好きで、溜め息が出そうになる。それを誤魔化すことも兼ねてバーナビーに背を向けて、不意に視界に入った、床に無造作に落ちていた彼のジャケットを拾う。昨日部屋に着くなりすぐにお互い服を脱ぎ捨ててベッドに飛び込んだ。そんな獣みたいな大人二人の姿を想像すると我ながら滑稽だ。
ハンガーにかけようとしたとき、ジャケットのどこかのポケットから写真が落ちてきた。なんとなくわかってはいたけれど、拾ってみるとやっぱりそこに写っているのは、産まれて間もない小さな小さなバーナビーと、とても優しい笑顔をしている彼の両親だった。今は亡き彼の両親。そう思うと胸の奥が苦しくなった。私じゃどうしようもできないことで、バーナビーや、どんなに素晴らしいヒーローにだって変えることのできない事実がそこに生温さを伴って写っている。

「何してるんですか?」
「バーナビー、」
「…ああ」

後ろからバーナビーに抱き締められていた。彼の匂いと体温に包まれると落ち着く。バーナビーは私の左肩の方から写真を覗き込んでいる。私は顔を少し左に向かせてみるんだけれども近すぎて表情はよく見えない。でも恐らく、前みたいに絶望に襲われたような顔はしていない。私がそう願いたいだけなのかもしれない。

「優しそうなご両親ね」
「ええ、とても。時々厳しいところもありましたけどね」

両親のことを語るときの彼の声はいつも穏やかで優しい。よっぽど幸せな思い出があるのだろうと勝手に推定する。人間は三歳までの記憶は忘れると聞いたことがあるし、私自身そんなに幼かった頃のことは殆ど憶えていない。バーナビーは憶えているのだろうか。大切すぎる思い出だから忘れずにいられるのかそれとも、忘れる程思い出をつくることができなかったのか。できれば前者であってほしいと祈った瞬間にそんな祈りは無意味だと悟った。

「バーナビー、私にあなたのお母さんみたいな温もりを求めてる?」
「…はい?」
「セックスしてるときいつも思ってたの。あなたは子供みたいに甘えてくる。必死に私を求めてくる」
「……」
「だから、寂しくて恋しいのかなって思ってた」

口にするべきじゃなかったのかもしれない。聞くつもりなんてなかった。こんなこと言ったってバーナビーを不快にさせるだけだと知っていた。彼なら両親を冒涜されているとすら解釈しかねない。でも彼の両親の写る写真を見たら、彼の壮絶な孤独に触れたら、聞いてみたくなった。傲慢だ。一瞬の沈黙に、私は何かフォローするような科白を吐こうとするが、バーナビーが先に口を開いた。

「別に、あなたを母親のように思ったことありませんよ。僕の母は一人だけですし、あなたはあなたです」
「そう。なんか厚かましいこと考えてごめんなさい」
「いえ、僕こそ…そんなに甘えてますか?」
「あら、結構好きよ。勝ち気で完璧主義なヒーローのあなたが子供みたいに甘えてくるのが」
「やめてくださいよ」

いつも通りのテンションの会話に心地よさを感じる。どうやら私の深読み、もしくは自惚れだったみたいだ。写真の中で笑っている彼の両親。彼が失った宝物。その大きく空いた穴を私が充填できるはずもないじゃないか、そう思いながら口だけで笑った。全然笑えなかった。そろそろバーナビーの腕から抜けようと体を動かしたら、私の下腹部の前で交差してた彼の手が首元に移動して、更に強く抱き締められ、私は少し驚いて不思議に思い、バーナビーを気にかける。

「…バーナビー?」
「でも、」
「ん?」
「寂しかったのかもしれない」

力が抜けて写真を落としてしまった。ゆっくりと床に辿り着いた写真は表向きで、幸せそうな家族がこっちを向いている。寂しかったのかもしれない。耳元で響いた静かな声が私に助けを求めているように聴こえた。そう感じることこそ、傲慢だ。それでも、私は自分のそんな傲慢さを自粛せずに彼の声を取りこぼさないように耳を澄ます。

「あなたを母親みたいに思ったことはありません。でも確かに僕はあなたの体温に触れてるとき、安心していられた」
「……」
「ずっと、恋しかった…」

掠れたような声で呟いたバーナビーは私の左肩に顔を埋めた。重みを感じる。柔らかい髪が私の耳に当たる。その瞬間、私は泣きたくなった。いつも感じていた彼の切実な欲は、やっぱり赤子のそれと同じものだった。絶対的な愛情と安心感を求めていた。彼は、私が思っていたよりずっと、ずっと孤独だった。ひとりだった。
泣きたくなったのは一瞬で、その後はどうしようもなく悔しくなった。どうしてもっと早く出会わなかったんだろう。早く会いたかった。一人で足掻くバーナビーの手を引きたかった。一人ぼっちの箱庭から解放してあげたかった。笑ってほしかった。泣いてほしかった。愛したかった。
私は空になった右手でバーナビーの頭を撫でる。

「えらいえらい」
「…何するんですか」
「寂しかったね、今まで。一人で抱えていて、苦しかったね」
「やめ、」
「怖がらなくていいわ。一人で生きようとしなくていい。もう誰もいなくならないから。素敵な相棒も、頼もしい仲間も、私だって」
「……」
「バーナビーはもう何も失わなくて良いんだよ」

自分の言葉がどこから出てきているのか把握できなかった。本心なのかその場しのぎなのか。愛なのか同情なのか、もっと酷いものか。何が本当なのかわからなかった。でも、私の言葉を聞いたバーナビーの腕が小刻みに震えていることに気づいて加速して止められなくなった愛しさだけは真実だと信じたかった。私まで震えてしまいそうになる。バーナビーの、やっと少しだけ姿を現した寂しさの塊を心に受け止めながら思う。たまらなく、彼が好きだ。一人で平気だと言う彼を、一人にしたくない。幼い頃から一人で生きていく選択しか与えられなかった彼を、一人にさせちゃだめだ。させてたまるか。
力が弱くなった腕の中で私は体の向きを変えて不安そうな顔をしたバーナビーと一度目を合わせて口角を上げてから、目を閉じ、魔法を使えない両腕で彼の体をきつく抱き締めた。



マリアのいない星で
子守唄は流れ続ける



しばらくしてから身体を離し、何もなかったみたいに再び緩やかな時間が流れ、私たちは各々の支度をしていた。あの写真はしっかりとジャケットの内ポケットに入れて、どうかこの先もバーナビーのことを見守っててください、と、図々しくも祈った。祈らなくたって、見守ってるに決まってる。きっと大きくなったバーナビーにびっくりしている。彼のヒーローとしての活躍を心から喜んでいる。そんな二人の姿を想像しながら、私は化粧をしていた。バーナビーは髪を弄っている。もう寝癖は直っていた。もう、さっきまでの哀切的な空気は消えていた。

「今日、空いてる時間ありますか」
「今日?夕方までなら暇だけど」
「父さんと母さんのところに行きたいんですけど、一緒に来てくれませんか?」

一瞬天国に行きたいという意味かと誤って、変な箇所にアイシャドウを入れそうになった。けれどすぐに、墓地に行きたいという意味だと理解した。理解すると同時に驚いた。化粧する手を止め、バーナビーの方を向く。

「良いけれど…良いの?あなたいつも一人で行っているでしょう」
「もうこの歳ですし、恋人の紹介くらいしないと心配されそうで」
「…何それ」
「あなただから来てほしいんです」
「ふふ、嬉しいわ」

明日、今日よりも世界が彼に優しくなりますように。


20120603