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視界に広がる青、青、青。沈む、深く、落ちる。私は海に居た。浜辺じゃなくて海の中に。浅瀬じゃなくてずっとずっと深い海の底に。息ができない。駄目だ、このままでは死んでしまう。だけど上がれない。両足に重たい鎖が絡みついて離れない。苦しい!誰か!誰か助けて!声にならない声でそう叫ぶと、頭の上にまばゆい光を感じ、見上げたら誰かの手が差し伸べられていた。私を救おうとしたのであろう、誰かの手が。私はその手を掴もうと伸ばした自分の手を、はっとして一瞬で引っ込めた。なに私は助けられようとしているんだ?なんて情けないんだろう。私はヒーローだ。人を救う側の人間だ。助けてなんて叫んだ自分を恥じる。誰かに助けられるくらいなら死んだ方がましだ。必死に伸ばされる手をただ見つめながら次第に私の意識は消えていった。


そんな夢を見た。ゆっくりと瞼を開けると青い海ではなくて、見慣れた、いや、見飽きた機械的な白が広がっている。額にじっとりと汗をかいているのがわかった。右手に温かさを感じて視線をやると、ベッドの横の椅子に座るイワンが私の手を握っていた。いつでも自信のなさそうな彼の表情は普段に増して淀んでいる。イワンが私の手を握っている。目の前で起きているたったそれだけの事実に私は怖じ気づいて、右手を振り離した。イワンの視線が私の視線とかち合う。憎い、一瞬でそんな卑劣な気持ちが込み上げた気がした。発狂してしまいたくなったけど、どうにか堪える。

「起きたんだ」
「帰れば良いのに」
「…ごめん」
「イワンの顔見たくない」
「ごめん」

私はイワンから視線を逸らして前を向いたまま、なるべく抑揚をつけないように声を発した。どんどんイワンの顔が曇っていく。なんて理不尽で冷たい言葉を彼にぶつけているのだろう。彼は何も悪くない。でも、イワンの顔を見たくないというのは本音だった。この人を見てると私はどうしてもあの日のことを思い出して、自己嫌悪と後悔に苛まれる。罪悪感に潰される。ヒーローを続けることができないという現実に絶望する。見た目はどこにも異常がないのにもう二度と動くことのない自分の両足を切り落としたい衝動に駆られる。
私はずっとイワンのことを見下していたんだと思う。ずっと馬鹿にしていた。あからさまに態度に出さずとも、心の奥で、彼より私の方がヒーローとして能力が高いと自負していた。だけどあの日、私は一人で平気だと言い張って出動した現場で絶体絶命の窮地に追い込まれていた。そこにヒーロー姿の彼が現れた。当たり前のように私を助けようとした。私はそれがどうしても嫌だった。自分が散々見下してきたイワンに、救われるなど。私のプライドが彼を拒絶した。「来ないで!あんたの助けなんか要らない!」その結果が、この有り様だ。私はもう自分の両足を自由に動かせない。もちろんヒーローも引退だ。あまりにも子供じみていることは自覚しているけれど、私は真っ先にイワンを恨んだ。もしあの時来たのがイワンじゃなかったら私は素直に助けを求めていたのに。とんでもない言い掛かりだ。イワンが来てなかったら命を落としていたかもしれないのに。本当は感謝するべきなのに。それでも誰かを恨んでないと私はこの現実に耐えられそうになかった。

「イワンが悪いんだよ」
「ごめん」

イワンは俯いた。彼のこの猫背気味の背中がずっと気に入らなかった。私と正反対の彼が、嫌いだった。違う。イワンは何も悪くない。どう考えたって悪いのは私だ。要らないプライド故にイワンに助けを求めなかった私だ。自意識過剰になりイワンを見下し続けてきた私だ。きっとあの日からイワンは私を救うことができなかった自分を責め続けている。そんなイワンに追い討ちをかけるように私も責め続けた。イワンはただ小声で謝り続けるだけだった。泣きそうになりながら何度も私に謝った。それがすごく気味悪かった。腹立たしかった。いっそ私のことを責めてほしかった。私のことを叱って、見捨ててくれれば良かったのに。そしたら今よりはいくらか楽だったと思う。イワンは一度も私のことを責めたことがない。私を悪く言ったことがない。だから余計に私はその甘さに漬け込んで、イワンが感じている、本当は感じなくて良いはずの罪悪感を駆り立てていく。馬鹿みたいだ。というより、馬鹿だ。どうしようもなく、私は馬鹿だ。自分の足をそっと撫でる。

「嫌い」
「……」
「大嫌い」
「…ごめん」
「イワンなんて大嫌い!」
「……僕は好きだよ」

イワンがそう呟いた瞬間、涙が出た。ずっとイワンの優しさが憎かった。自分の醜さを思い知らされているようで惨めだった。ああ、なんで私はこんなに優しくて強いイワンのことを信じなかったんだろう。認めなかったんだろう。馬鹿にしていたんだろう。私なんかよりイワンの方がずっとヒーローだった。今になってそれを知った。きっと彼はこれからも私じゃ護れない誰かの笑顔を護っていくんだろう。あの日、私はイワンを拒絶し、足の自由を失い、ヒーローという栄光を失い、自分だけ傷つくべきだったのにイワンにも傷をつけた。私を救おうとしてくれた彼の心を踏みにじった。きっと夢の中で水没する私に手を差し出してくれたのもイワンだった。夢の中でさえも私は頼ろうとしなかった。自分は一人で平気だと思っていた。こんなに弱くて頭の悪い生き物だと知らなかった。
歯を食いしばって、私は泣く。小さな声で何度も嫌いと呟く。イワンの顔を見ることができない。彼は今酷く傷ついている。溺れた私を助けようとして彼自身もまた溺れかけている。ここは深海だ。悲しみの連鎖はそうして続いていく。


彷徨した世界の果てで、



もし今日もまた同じ夢を見ても、私はあの手を掴まない。それはもう変な自尊心やイワンを軽蔑する気持ち故の拒絶ではない。私にはイワンの手を掴む資格など、助けを求める資格などなかった。深く沈んで息絶えて、藻屑となるのは私だけでいい。

20120516