※全体的に気味が悪い


「わざわざ送ってくれてありがとう。気をつけて帰って」
「おん!…て、男なんやから平気やっちゅーねん」
「電車乗り間違えないでよ。環状線だからね」
「はいはい、わかっとる。ほな、またな」
「うん、またね」
「…好きやで」
「…何いきなり」
「い、いや、何となくや!」
「ふふ、私も大好きだよ、謙也」

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夜なのに明るかったあの空をまだ覚えている。夏休みが始まって一週間程経った暑い日、デートの帰りにしたこのやりとりが、彼とした最後の会話になった。
いつだって別れというのは突然だ。それまでの楽しかった思い出や大切な記憶を全て奪い去って抜け殻に変えてしまう。私はそれを受け止められずにいた。というより、信じることさえできずにいる。だから、液晶画面の向こうで何食わぬ顔をして彼の名前を読み上げるニュースキャスターの声を聴いては、ヒステリックを起こして、リモコンやテッシュボックスを画面に向かって投げつけた。近くの線路を走る電車の音を聴いては、両手で耳を塞ぎしゃがみ込んで耐えた。
受け止めてないのだから、悲しいわけじゃない。ただ会えないのが寂しくて、暑い部屋で冷房も扇風機もつけずに、彼との思い出が溢れるアルバムをめくることもあった。世界で一番好きな彼の笑顔がそこにある。いつか、その傷んだ明るい色の髪に触れた。その腕に何度も抱きしめられて、その口が何度も優しい言葉をくれた。鮮明な事実があるのに、今、彼はここにいない。暑い。汗が額を伝う。暑い。蝉の鳴く声が騒がしい。暑い。蝉の声がだんだん電車の走る音に変わって聴こえてくる。見たはずのない光景がぼんやりと目に浮かぶ。近づいてくる環状線の電車が、ホームから飛び降りた彼の身体を引き裂く、ような。ぱたん、と勢いよくアルバムを閉じて私は台所へと駆けた。乱暴にグラスを取って蛇口から水を入れ、口に運ぶ。ぬるい水が器官に入って噎せた。悲鳴のような溜め息を吐いてその場に座り込む。結局、私は何がしたいんだろう。どうしてここに彼はいないんだろう。いつになったら会えるんだろう。どうしたら会えるんだろう。夏というのはどうしてこんなに長いのだろう。わざと答えのないような問いを頭に浮かべては消して、また一人うなだれるのだった。


そんな毎日を繰り返して繰り返して繰り返しても、相変わらず彼のいない生活に違和感を感じる。あまりご飯を食べなくなった。痩せた。痩せた私を見て母親が不安そうな顔をしていた。彼に電話をかけてみた。おかけになった電話番号は現在使われておりません。無機質な声だけが耳をすり抜けた。彼に会おうと思って、手首を切ってみた。彼には会えなかった。でも会いたくて、もう一回切ってみた。やっぱり彼には会えなかった。赤い手首を見て母親は泣いた。抱きしめてくれた。私は彼に、会いたかった。蝉の声がだんだん聴こえなくなってきた。涙は出ない、笑えもしない。
休んだ覚えはないけれど、夏休みは終わった。この四十日間、私は何をしていたんだろう。ひたすら彼を探していた気がする。学校に行くことにした。いつも電車で登校していたけれど親が車で送ってくれた。私を電車に乗せたくなかったらしい。
学校に着くと、想像以上に騒がしくて、でも重たい空気が流れていた。私が教室に入ると、予想はしていたけれど、ほとんどの生徒の視線が向けられた。でも誰も話しかけてはこない。ひそひそと話す声が聴こえてくる。可哀相とか、大丈夫かなとか、感情がないみたいとか、恐らく私のこと。全く気にならない。私は本当に感情がないのかもしれない。始業式で、先生が彼の話をした。ニュースと同じような内容で、私が本当に知りたいことなんて誰も伝えてはくれなかった。彼の居場所なんて誰も知らないようだった。


学校が終わってまた車で家に帰った。私を家まで送ると親は出掛けた。何となく、何気なく、テレビの電源を入れてみた。賑やかなバラエティー番組が映って、リモコンでどんどんチャンネルを変えていく。ニュース番組では、内閣がどうのこうの政府がどうのこうのと私とは無縁にも思えるような内容ばかりで、私は不思議に思う。ニュースから彼の話題が消えた。あ、れ?そもそも彼の話題なんてあった?わからなくなってくる。単純なことなのに混乱する。私はここ最近夢を見ていたんじゃないか。あまりにもリアリティが無さすぎて、ここが現実だとは思えなくて、生きてる心地がしなくて。彼は、私の彼は…何処にいる?不意に電車の走る音が頭をよぎった。環状線。あの日彼は環状線に乗って帰ったはずだ。彼は環状線に乗っているんじゃないのか。環状線はその名の通り、環状になっていて、外回り内回り毎日ぐるぐるぐるぐるひたすら回っている。終点はない。彼は、そこから抜け出せずにいるんじゃないか。胸が苦しい。心臓がうるさい。行かなきゃ、彼の所に行かなきゃ。私は靴を履いて家を出た。
最寄りの環状線の駅まで走る。途中、蝉の死骸を踏んだ気がした。


駅まで辿り着いた。入場券を買ってホームまで出る。はあ、はあ、と息を吐く。走った甲斐も虚しく私は絶望した。そこに彼はいなかった。それだけなら良かったのに、私は見たくもないものを、ずっと見ないようにして過ごしてきた現実を視界の隅に入れてしまった。
ああ、もう、飛び込もう。よく頭に浮かんだ光景を思い出す。電車が彼を引き裂く光景。私もあんな風に肉も骨もすべて、壊れてしまえたら。私は線路側に足を向けた。点字ブロックより先に足を踏み出す。大丈夫、怖くない。もうすぐ電車が来る。「まもなく1番線に電車が参ります。黄色い線より下がってお待ちください」アナウンスと電車の近づく音が混じる。大丈夫、彼がいる。私は目を閉じて、右足を大きく踏み出した。
その瞬間に誰かに左腕を掴まれ思いきり引かれ、私はよろけて尻餅をついた。

「何やっとんねん、危ないやろ!!」

その人は両手で私の肩を掴んだ。一瞬、彼かと思ったけれどすぐに違うとわかった。顔を上げてみれば、息を切らして恐い顔をした白石くんにピントが合う。ああ、白石くんも私と同じように痩せたな。何故かすぐに頭に浮かんだのはそんな感想だった。その背景では電車が止まっていて、何人かの人が私たちを怪訝そうに見ながら電車に乗り込む。彼は降りてこない。なんで、

「……離して」
「なあ」
「離してよ!」
「ええ加減目覚ませや!あいつは、謙也は……死んだんや」

いやあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
白石くんの言葉を遮るように私は目を閉じ叫んだ。ばたばたと手足を動かすけれど白石くんは私を離してくれない。それでも私は必死に足掻く。すると、白石くんの左手が私の頬を叩いた。私は目を開ける。すぐに目に入ったのはホームの隅に置かれている、いくつかの花束とジュースとテニスボール。私が受け止められなかった現実。私が夢であってほしいと願った現実。この夏、私を絶望させ苦しめてきた現実がそこにあった。


あの日、謙也は死んだ。


謙也はここでこの電車に轢かれて死んだ。事故なのか自殺なのか、誰かに落とされたのか、わからない。信じられなかった。たったさっきまで彼は、謙也は確かに私の隣にいて笑っていたのに。一瞬で私の最愛は消えてしまった。その事実を受け止めたくなくて私は逃げた。どんどん廃れていった。感じることを止めれば、悲しむこともないと思った。彼はまだどこかにいるって、また会えるって、そう言い聞かせて、でも本当は、心の奥底では解っていた。謙也が死んだこと。もう会えないこと。もう二度とその髪に触れられないこと。解っていても受け止められない私は、この電車に謙也が乗っているんだと思い込むことにしていた。大阪、天満、桜ノ宮、京橋、大阪城公園、森ノ宮、玉造、鶴橋、桃谷、寺田町、天王寺、新今宮、今宮、芦原橋、大正、弁天町、西九条、野田、福島、そしてまた、大阪。終点のないこの環状線から謙也は抜け出せずにいるのだと考えた。でも違った。本当に抜け出せずにいたのは、環状線に、謙也の死に縛られていたのは、私の方だった。

「こんなことしても謙也は喜ばへんやろ?」

私の左腕を握りながら、白石くんが泣きそうな顔で言った。うん、それも知っていた。手首を切ったって、死んだって、もう会えない。罪滅ぼしのつもりだった。あのとき私を家まで送らなければ、謙也は死ななかったんじゃないか。そう思っては自分を憎んだ。どんな風に死んだのか知らないけれど、もしかしたら謙也をホームから突き落としたのは私なのかもしれない。いや、私でいいと思った。どう死んだとか誰が殺したとかずっと気になっていたことだけど、どう死のうが誰が殺そうが謙也はもういない。それは悲しいくらい揺るがない事実だった。

「…んや、好きだよ」
「謙也もめっちゃ好きやったで、自分のこと」
「白石くん、」
「いつも惚気られて正直うざかったわ」
「……」
「ホンマなんで死んでしもたんやろな。早すぎるっちゅーねん。そこまでスピードスターやなくてええわアホ…」

謙也に話し掛けるように呟いて白石くんは泣いた。私も堪えきれなくなって泣いた。声を上げて泣いた。その時初めて、謙也の死が私の心身にすーっと入ってきたような気がした。初めて受け入れられた。あの日からずっと回り続けていた環状線からやっと下車することができた。不安定だけど、謙也のいない線路に立って呼吸をしている。もう電車は要らない。優しい謙也の思い出を抱きしめながら歩いていく。
明日、謙也の家まで行こう。家族の方に挨拶してお線香をあげよう。花束を買ってここに供えよう。
こんなことを考えられなかった。自分は死んでいると思っていた。でも、まだ生きていた。私の線路は続いていた。謙也も私も、白石くんだってそう、みんな廻っているんだ。どうせ私もいつかそっちに行く。だからちょっと寂しいけれど、そのときまで、さようなら、大好きな人。








song / ハチ
image PV / 吉春
20120416