これの続き


 あれから辰也は、よく私にキスをするようになった。他のホストや客の目を盗んでは、密かに唇を重ねる。唇を離したとき、寂しいと、もっとしたいと、口に出さず表情にも出さず、でも、強く思ってしまう。辰也は意地悪だ。私が気づかないふりをしている想いにとっくに気づいていて、私に意識させようとしてくる。まったく仕事のできる男だ。
 この男はホストであり、私は彼を指名する客の一人であり、ホストの仕事は何かと言えば、客を楽しませ喜ばせ短い夢を見させる、そんなものだ。それはとても正しい。二人の関係は、店員と客であって、男と女ではない。そこに恋だとかましてや愛なんて、生まれるわけがない。自分の中でそう定義づけているからこそ、今現在の自分の中に潜む彼への欲望に苛立ちと焦りを感じる。まずいなと思う。こんなの、まずいに決まってる。早く抜け出さないと。そうは思っても、今日で最後と言い聞かせて、何度もこの城に足を運ぶ。その度に作り笑顔で迎えてくれる辰也は、最高に値の張る売り物だった。

「俺、辞めるんだこの店」

 隣にいる辰也が何気なく言った一言は、私が全く予期していなかったそれだった。持っていたグラスをテーブルに置いて辰也の顔を見る。いつものような穏やかな表情がそこにある。

「辞めるって?他の店に移籍するの?」
「ううん、この仕事を辞める」
「ホストを?」
「うん、またアメリカに住むことになってね」

 へえ、とだけ言って再びお酒に手を伸ばす。動揺するとグラスを口に運ぶ癖を、もしかしたら辰也は知っているかもしれない。辰也が次々にする発言は私にとって、きっと他の客にとってもこの店にとっても、大問題だった。辰也がホストを辞める。辰也がアメリカに行ってしまう。一体何人の客がこの店に通わなくなるのか。大問題だ。

「アメリカで何するの?」
「とりあえず子供たちにバスケを教えようと思ってる。凡人なりにね」
「そう。みんな悲しむでしょ」
「悲しんでくれるの?」
「…ええ、とっても悲しい」

 辰也が生意気なことを訊くから私も負けじとわざとらしく声を張り上げて言った。けれど、この口をついて出た言葉は自分の心の奥底の叫びと全く同じような気がした。辰也は「ありがとう」と言って笑う。
 辰也は帰国子女だという話を前に聞いた。作り話じゃないかと疑っていたけれど、どうやら本当だったみたいだ。バスケをずっとやっていて、高校時代は全国大会にも出場したことがあるとも言っていた。才能なかったけど、と笑いながら。そんな辰也がホストを辞めてアメリカに行き子供にバスケを教える。その姿を想像すると、今こうして女の子に奉仕している姿とギャップがあって、へんてこで、なんだか可笑しい。

「土曜日、最後の出勤なんだ。イベントもあるから、来てよ」
「辰也のラストなんて、お店混むでしょうね。遠慮しようかな」
「君と話す時間は絶対つくるから、ね?」

 辰也が私の手を優しく握った。同じ台詞をきっと彼の客全員に言ってるんだろうなと思いながら「気が向いたらね」と返事する。辰也の顔は、見なかった。
 時間になって店を後にする。お酒を飲んで熱くなった顔に、夜風が気持ちいい。ギラギラ光るネオン街をゆっくり歩きながら、ぼんやりと考えていた。辰也がホストを辞める。これは私がこの沼から抜け出せる良い機会だ。ただ辞めるんじゃない、辰也は遠いアメリカまで行く。きっともう会うことはないだろう。それで、いいんだ。私はやっと『ホストにハマった馬鹿な女』じゃなくなる。やっと自分のプライドを取り戻せる。土曜日は笑顔で手を振ってやろうと思う。





 そう、思っていたのに。ドレッサーの前に座り、化粧途中の自分の顔を見る。なんでこんなに、不安そうな顔をしているんだろう。親の大切にしている花瓶を割ってしまった子供のような怯えた表情をしている。今日は土曜日、辰也の最後の出勤日だ。
 時計はもう二十二時半を指していた。今頃店は盛り上がっているだろう。辰也は、たくさんの女に感謝の言葉をもらい励ましの言葉をもらい惜しみの言葉をもらっているんだろう。私はまだ店に向かう気になれずにいた。弱気で、彼のことがやっぱり好きな自分が嫌になる。もう今日行かなくても良いんじゃないか。行かない方が良いんじゃないか。行って、辰也を見て、泣いたりでもしたらきっとあの男は私を嘲笑うだろう。そんなの悔しくて惨めで恥ずかしくて、でも今日行かなかったらそれはそれで私のこの心の動きを見透かされる気がする。辰也は何でもわかる男だ。
 鏡を睨み、ボルドーのアイシャドウを上まぶたに乗せた。辰也は売り物だ。売り物が店から下げられてしまう、ただそれだけのことだ。私は店に行く決心をする。


 店の近くにたどり着いたのは結局閉店を少し過ぎた時間だった。わざわざこの時間に来た私は本当にどうしようもない臆病者だ。看板はもう光っていなかった。中にはまだ辰也や他のホストがいるんだろうけど、営業時間が終わっているのだから、ただの客である私が会えるわけがない。もっと早く来るべきだったような気もしたし、本当はこの展開を望んでいたような気もした。ここは、大人の城。出した金額と対等な魔法にかかる場所。もう私は、魔法にかかることはない。
 引き返そうと後ろを向いて歩き出したとき、前から歩いてくる男と目が合い、足を止めた。

「辰也、」

 意図せずとも、その名前を呼んでしまった。大きな花束を抱えた辰也が驚いたような顔をして目の前に立っていた。

「来てくれたんだ」
「一言くらい挨拶しようと思って。閉店時間過ぎてたから、会えないと思ってた」
「嬉しいよ。グループの会長が来てくださったからね、今見送ってきたところなんだ」
「そう」

 鼻の奥がつんとする。辰也は本当に辞めてしまうんだ。高価そうな花束は辰也にぴったりで、彼の旅立ちによく合っていた。ありがとうとか、がんばってとか、そんな一言で良い。そんなありきたりな言葉を吐き捨てて、さっさと帰って眠ってしまいたい。

「ねえ、俺のことを売り物って言ったの覚えてる?」
「え?」
「一番高い値札をつけてるって」
「……そんなの覚えてたの」
「もちろん」

 辰也がいきなり、いつかの夜にした何の需要もなかった話のことを口にして、綺麗な顔で笑う。憎たらしいこの笑顔が、大好きだった。
 私は辰也から視線を逸らして辺りを軽く見回した。ネオンが光っていない。いつでも綺麗に光り輝いていた花園は、こんなにも、普通の街でしかなかったのだ。この街にいるスーツを着た男たちは、全部売り物。営業時間以外は赤の他人。きっと今、午前1時を過ぎて、ホストじゃないときは全く別の顔をしているんだろう。私は再び辰也の方を見た。目の前にいる男もきっと。

「だってそうでしょ?私があなたと楽しい時間を過ごせたのは、それに相当するお金を払ったからで、そんなの売り物でしかないじゃない」
「氷室辰也って言うんだ、本名」
「はぁ?」

 全く噛み合わない会話に思わず眉を寄せた。せっかく私が正論らしいことを言ったのにそれを無視された不愉快さと、店で使っている辰也という名前が本名だということに対する小さな驚きと、何故そんなことを唐突に言ってきたのかという戸惑いを一気に抱く。そんな私のことは気にもせず、「ネタバラしをするとね」と辰也が続けた。

「俺は君のことが好きなんだ。でも売り物って言われて流石にカチンときたよ。頑なに俺の気持ちを拒絶して商売だのサービスだのって本気にしようとしないんだからさ」
「……」
「それでちょっとムキになっちゃって、意地悪しちゃった。ごめんね?でもさ、俺のことちょっとは好きだって自覚してくれたでしょ?また騙されてるだけなんて思ってるだろうけど、それは間違ってるよ。俺はね商売とかサービスとか除いて、君に恋してるんだ。それで多分愛し合ってるんだよ俺たち」
「……」
「ああ、でも確か、俺の言葉は信じないんだっけ?」
「…根に持ちすぎ」

 今日の辰也は調子がおかしい。抜群の会話力と傾聴力を持つ彼がここまで自分勝手にべらべらと話をするのは見たことがない。そんなことよりも問題はその内容だ。好きだの、恋だの愛だの……ホストクラブに存在するはずのない幻想をいくつも使って私に攻撃してくる。心臓が壊れそうだ。辰也の口にする甘ったるい科白が全て本当のことだったら、きっと私は嬉しさで死んでしまう。でも、信じたくなどない。認めたくない。今までの時間を振り返れば、いつだって私たちを繋いだものは私が辰也にボトルを入れるために出したお金だった。そんな二人の間に愛なんて、生まれるわけないじゃないか。

「…今日は、随分と饒舌なのね」
「もうホストじゃないからね」
「いつもと違って少し勝手なあなたも魅力的だけど、でも、信じられるわけないじゃない。だって、じゃあ、今までのお金返してくれるって言うの?」

 辰也に釣られて私までお喋りになってきた。しかも喧嘩腰で、皮肉なほど整った顔を睨みつけながら、馬鹿なことを口にする。今日はまだ一口もお酒を飲んでいないのに、何故だか顔が熱くて心拍数が上がっているような気がした。次に辰也から視線を逸らしてしまったら、涙が出るかもしれない。

「そうだね、俺の客の中でも断トツで大金を出してくれたね。他の客の分と合わせたら二人の男女がアメリカに行くには十分そうだ」
「何言ってるの、」
「一緒に来てよ」
「馬鹿なこと言わないで」
「大真面目。ねえ、俺もう売り物じゃないんだよ。ただの男が一世一代の告白をしているわけだけど……返事、聞かせてくれない?」

 そんなめちゃくちゃなことを次から次へと放った辰也がスーツの内ポケットから出して私に寄越してきたのは、小さな手帳のようなものだった。手の平に収まるような大きさの黒い手帳で表紙に金色の字で店の名前と辰也の名前がアルファベットで刻まれている。私は軽くパニックに陥っているのをどうか彼に悟らせないようにと努めつつ手帳を開く。そこには辰也の出勤日と指名を受けた客の名前がいくつも記録されてあった。何故これを私に見せるんだろうと不思議に思いながらページをめくる。指名の数がものすごい。やはり彼はナンバーワンホストなのだということを痛感する。めくっていくと自分の名前を見つける。初めて店に来て辰也を指名したときのものだ。人気のホストならきっと良いサービスしてくれるだろうと考えて指名したのが辰也だった。指名がいくつも入っていて数分しか話せなかったのに、あの時私はすでに辰也に惹かれていた気がする。ページをめくって自分の名前を見つけるたび不自然なことに気づく。私が店にいる時間の、他の指名した客の名前にすべて斜線が引かれている。考えてみれば、おかしい。辰也はこの店のナンバーワンだ。指名の数はいつでもすごいはずだ。それなのに私が店に来たとき、少しも待たされることなく辰也とテーブルにつくことが出来た。そして帰るときまでずっと相手をしてくれていた。それは、こういうことだったのか。さらにページをめくっていく。辰也の出勤は少なっていく。私がいつも決まって行く曜日だけに出勤している。最後の方になると、もう、指名を受けた客は私だけだった。

「好きだったんだ、ずっと」

 辰也がさっきまでよりずっと細い声で呟き、私は顔を上げた。辰也はいつもの余裕たっぷりの穏やかな笑みではなくて、まるでさっきまでの私が鏡の前でしていたような、余裕のない、怯えた表情をしていた。こんな人、知らない。ここにいるのは辰也が言ったとおり、紛れもなく、一人のただの男だった。手帳を持つ手が震える。泣きたい。苦しい。吐きそうだ。愛おしい。勝てない。私の負けだ。これはもう恋情と呼ぶべきものでしかなかった。手帳を閉じて、精一杯に笑顔をつくった。

「あなたってどうしようもない人ね、辰也」
「ああ、俺はどうしようもないよ。どうしようもないけど、好きって言ってくれるんだろ?」
「ええ、好きよ?大好き…めちゃくちゃに好き。もう愛してる」

 大きな花束と小さな手帳が落ちる刹那には、私たちはきつく体を抱きしめ合っていた。私たちはもう男と女だ。どうしようもない、馬鹿な、男と女なのだ。
 ここは大人の城。一時的な魔法にかかる場所。でも、もう魔法は要らない。辰也についていた透明の、私にしか見えない値札はいつしか溶けて無くなっていた。もういいんだ。お財布なんて開かなくてもきっとこの人は私を愛してくれる。疑似恋愛なんかじゃなくて、本当の恋に一緒に落ちてくれる。辰也はとっくに売り物なんかではなくなっていた。私の愛する人であることを、やっと認めた。
 暗くなった街の中はもう煌びやかな花園ではないけれど、今までで一番居心地の良い場所だと感じる。辰也を抱きしめたまま、爽やかな香水の匂いを感じながら、アメリカに行くんだったら英語を教わらないといけないな、なんてことを考えていた。




夜が明けても愛して



20141228