美しいものはいつだって人を魅了して、心を癒して、思想を豊かにして、世界に彩りを与えて。けど、それは刹那的事象。ずっと眺めていれば、だんだん気づいてくる。溢れてくる。羨望、嫉妬、劣等感、そして孤独。やがて人は、私は、その美しさに狂っていく。きっと相容れることなんてないんだと思う。私の生きる世界は、もっと仄暗くて生臭い、醜いところ。今までずっと、そうだった。

 夕陽の赤が二人きりの教室を照らす。私は私と向かい合って座っている緑間くんの顔とスケッチブックに交互に視線を配りながら、短い鉛筆を持った手を忙しく動かした。その表情を、その美貌を、スケッチブックに閉じ込めるように集中して描く。
 緑間くんは、芸術的だ。芸術を体現したような人だ。外見ももちろんそうだけれど、彼の性格や才能、信念、人生までもが芸術そのものだった。私はそこに強く惹かれる。無い物ねだりとは、よく言ったもので。

「そろそろ、いいか?」
「うん、もうほとんど終わったから。いつもごめんね」
「構わん。お前が人事を尽くすためだ」

 緑間くんは外して机に置いていた眼鏡をかけた。私は無意識にでもその瞳を見てしまう。緑間くんの顔は整っている。ホクロ一つない肌、薄い唇、形の良い鼻。中でも私が一番好きなのは、彼の目だ。深い二重まぶたに長い睫毛。そして透き通るような翡翠色の瞳。眼鏡のレンズ越しに見えたそれは、陳腐な表現だけども、ガラスのショーケースに飾られたエメラルドの宝石のようだった。

「緑間くんはコンタクトにしないの?」
「コンタクトにしたら右手だけで眼鏡をかけるというジンクスが果たせなくなるだろう」
「そっか。そうだね」

 緑間くんは、美しい。でも本人はそれを鼻にかけることはない。気づいてもいない。美しさを自分に必要なものだと思っていない。興味すらない。だから余計、美しいのだ。そしてそういうところが時々、憎たらしい。

「俺はこれから自主練に行くが、お前はどうする」
「私は……待っててもいい?」
「退屈だろう」
「平気。ここで試験勉強してる」
「そうか。終わったら迎えに来てやるのだよ」
「うん、ありがとう」

 教室から出ていく緑間くんを見送った。「頑張ってね」と呟いた声はひどく弱々しかった。一人きりになった教室で、丸くなった鉛筆をカッターナイフで削る。削り終えた鉛筆をくるりと回転させてキャップをつけた。
 自主練が終わったら、緑間くんが迎えに来てくれる。その後はきっと一緒に下校する。ありきたりな高校生の付き合いだ。平凡で心地好いはずの幸せだ。けれど私は、いつだってこの幸せに違和感を感じる。私には場違いのような、そんな違和感。鉛筆をペンケースにしまうと、私は、そっと左の頬を触った。
 私の顔には生まれつき大きな痣のようなものがある。左の頬に、コーヒーを零したような茶色い大きな痣だ。原因はわからない。お母さんのお腹の中にいる時に何かあったんだろう。珍しいことではないらしい。痛みや痒みは感じない。病気でもない。別に、なんてことないものだ。ただの模様。生活に支障を与えることなどない。だけど、それは、私という人間にいくつもの憂鬱と諦めをもたらした。自分の顔が、嫌いだ。鏡なんて見たくない。誰かに見られたくない。醜いこの顔が、大嫌いだ!できるだけ目立たないように横の髪を伸ばして、できるだけマスクをして過ごしてきた。そして人とあまり関わらないようにしてきた。顔を見られるのが嫌だからだ。それでも、隠しても、隠れただけで、痣は消えない。事実は何も変わらない。私はずっと醜いままだ。そうしていると、必然的に暗い性格になってしまった。どんどん自分を嫌いになっていく。その度に全部、痣のせいにしてきた。
 だから、こんな私のことを、緑間くんが好きだと言ってきた時、本気で動揺した。混乱した。何だか、素直に受け止められずに、馬鹿にされているような気分にもなった。だって、おかしい。緑間くんは私よりずっとずっと美しい。醜いものが美しいものに惹かれることはあっても、その逆はないと思っていたからだ。だからもう、意味がからなくて、でも、自分にまっすぐに向けられた彼の目を見ると、全ての思考は停止して、私は緑間くんの手を取っていた。
 今でも、わからない。なんで緑間くんは私といるんだろう。私はあの日からずっとこの幸せを飲み込んでは吐いて飲み込んでは吐いてを繰り返している。一生交わることなんてできない。
 ふと開いたままのスケッチブックに目をやった。私が描いた緑間くん。緑間くんの美しさを、私の手で表現するのは難しい。ただ技量がないだけなのか、それとももっと別の、私の内面に何か問題があるのか、わからなかった。緑間くんの頬には痣どころかニキビもホクロもない。もしこの頬に私と同じような大きな痣でもあったら、私はいくらか楽になれただろうか。緑間くんは美しくて、好きだけど、焦がれるけれど、一緒にいると苦しい気持ちを感じずにはいられない。このまま一緒にいたら私は発狂してしまうんじゃないか。そんなことを考えていたら、痛くないはずの痣が痛み出したような気がした。





「この前のバスケ部の試合さ、緑間くん超活躍したらしいよ」
「またぁ?」

 トイレの個室から出ようとして鍵にかけた手を止めた。手洗い場の方から女子の話し声が聴こえてきたからだ。私は、なんとなく胸がざわついて、個室の中で祈るような気持ちでその話が早く終わるのを待っていた。

「緑間くんってさ、よく見るとイケメンだよね。彼女とかいるのかな」
「ほら、あの子…名前出てこない……あの“痣の子”」

 鼓動が早まる。手に汗をかいて、足が震える。やめて。やめて。私の話をしないで。緑間くんの話をしないで。そんな願いはドアの向こうの彼女たちに少しも届かない。

「えー、あの二人付き合ってるの?…やっぱり緑間くんって変わってるね」
「あの子も結構かわいいよ、痣がなければ」
「火傷でもしたのかなぁアレ。かわいそう」
「てかもう授業始まるじゃん、行こ」

 小走りの足音が遠ざかって、トイレの中は静かになった。私はまだ、個室から出られずにいる。心臓が激しく跳ねる。惨めで悲しくて、でも、少しほっとしていた。やっぱり私の感じた違和感は正しかった。やっぱり、緑間くんの隣に私がいるのは不自然でおかしい。それをどこかの誰かが証明してくれただけだ。そう思うと重荷が降りたような気分になった。
 やっと個室から出て手を洗う。いつもは決して見ない正面の鏡をじっと見つめた。大きな痣。さっきの女子の声が頭の中で混ざり合う。痣の子。緑間くんって変わってる。痣がなければ。かわいそう。そこに低い男の人の声が響く。すきだ。あの日の緑間くんの声。
 左目から溢れた涙が痣を撫でた。ハンカチを出してそれを拭う。わかりきったことなのに、やっぱり悲しい。私だって、緑間くんが好きだ。不自然でも場違いでも、どうしようもなく好きなんだ。矛盾ばかりが転がっている。私は目が赤くなるのを気にしながらトイレから出て廊下を歩いた。





「できた」

 鉛筆を机に置いた。放課後の教室、いつものように緑間くんにスケッチのモデルをしてもらっていた。スケッチが完成した。やっぱり私は緑間くんを上手く描けない。
 緑間くんは眼鏡をかけて「見せろ」と言ってきた。彼が私のスケッチを見たがるのは初めてで少しドキッとする。

「えっ、見るの?」
「俺には見る権利あるだろう」
「いいけど、下手だよ…」
「構わない」

 緑間くんにスケッチブックを渡す。私が描いた緑間くんを本人に見せるというのは気持ちが落ち着かないことだった。嫌な思いをさせてしまうんじゃないか、何かつっこまれるんじゃないか、ドキドキしていた。緑間くんは渡されたスケッチブックをまじまじと見ている。

「俺は、こんな顔をしているのか」
「…うん、でも本物の緑間くんはもっと綺麗だよ」

 私の言葉を聞いた緑間くんは訝しげな顔をして視線をスケッチブックから私に移した。

「お前はよく俺のことを綺麗だの芸術的だの言うが、俺にはさっぱりわからないのだよ」

 きっと、そのままの意味なんだろう。本当に緑間くんはわかっていない。気づいていない。私は、ガラスにヒビの入る音を聴いた。心の中で。

「わかってないのは緑間くんだけだよ。みんな思ってる。緑間くんは美しくて……私じゃ不釣り合いだって」

 言うつもりのなかった言葉が口から漏れた。緑間くんは目の前で交通事故でも見たかのような傷付いた顔をした。ガラスにまたヒビが入っていく。私がいくつもヒビをつけていく。早く、割ってしまいたい。緑間くんが何か言おうとしているのがわかって、私が先に口を開いた。

「やっぱり、おかしいよこんなの。私と緑間くんは違うんだよ。違うのに、どうして緑間くんは私といるの」
「そんなこと、」
「私の顔見て。…わかるでしょ?緑間くんが私を好きになるなんておかしいよ。…私は、緑間くんといると、苦しいんだよ」

 自分勝手な言葉が次々と口をつく。何枚もガラスが割れていく。粉々になっていく。私は全て言ってしまった。緑間くんは呆然としている。きっともう彼は離れていくだろう。正しい世界に行ってしまうのだろう。それでよかった。
 緑間くんは悲しい顔で私を睨んだ。そして、机に置かれた私のカッターナイフを掴んだ。想定外の行動に狼狽える。カッターの刃を出すと、緑間くんは、それを、自分の左の頬に向けた。私は目を見開く。あと少しその手を動かせば、きっと、緑間くんの頬は切れてしまう。

「何、するの、緑間くん…」
「俺がこうすれば、苦しみは紛れるのか」
「やめて…」
「こうすれば、一緒にいることを許すのか」
「やめて!」
「…くだらん」

 緑間くんは左手を動かした。綺麗な白い肌に一筋の赤い線が出来る。血が垂れる。カッターナイフは緑間くんの手からすり抜けて地面に落ちる。そこにも少し血が付いていた。私は慌てて立ち上がり、ハンカチを緑間くんの頬に当てる。声を出せないままでいると、緑間くんはハンカチを当てる私の手の上から自分の手を重ねた。そして私と視線を交わした。何か訴えたいような目。その翡翠が、一番好きだった。

「確かに俺とお前は違う。外見も性格も、何もかもだ」
「……」
「だが、それが何だと言うのだよ」
「……」
「違う人間同士が好き合ってはいけないのか?」
「…緑間くん」
「違う人間が一緒にいたら、一緒にいたいと願っては、罪になるのか…?」

 眼鏡の向こうで瞳が揺れる。緑間くんは泣いていた。私は、何と返して良いかわからなくて、パニックになって、緑間くんにつられたように涙を流した。ただひたすら、とめどなく泣いた。何もわからなくて、怖くて、悲しくて、自分の手に重なる緑間くんの手だけが温かかった。それがまた、私の涙腺を緩めた。

「大体美しいか醜いかなんて、個人の感性に拠るものだろう。そんな理由で俺から離れようとするな」
「ごめ、ん、ごめんなさい…」
「……俺にとってはお前の方がずっと、美しい」

 緑間くんが椅子に座ったまま、立っている私を抱き寄せた。力の入らない私はもたれるようにして緑間くんの首に腕を回す。

「好きだ」

 あの日と同じ言葉を緑間くんが呟いた。私はそれを飲み込む努力をする。吐かないようにちゃんと受け入れられるように。うん、私も好き。ずっと好きだった。緑間くんのことが。自分には不釣り合いだってわかっていたけれど、本当は、

「一緒にいたい、です」

 今度は私が声を出す。切実な想いを初めて伝えた。緑間くんの私を抱き寄せる腕の力が強くなった。愛情が膨らむ。私、この人と生きたい。緑間くんと、幸せになりたい。
 夕陽が射す、二人ぼっちの教室で、私たちは互いの涙を拭い合った。互いに、愛しい傷と痣を、優しく撫で合った。


うつくしいひと
20150413