明日、世界が滅びるらしい。

いや、もう滅びているようなものか。かつて確かに栄えていたはずの荒れ地をゆっくりと歩きながら思う。何処に何があったかわからないくらい朽ち果てていて、これはやっぱり夢なんじゃないかと何度も頬を抓る。その度に感じるヒリヒリした痛みに私は絶望する。何千何万何億何兆人と地球に溢れかえっていた人間が、まさかたった二人ぼっちになっちゃうなんてどこの予言者も学者も予想できなかっただろう。予想できたところで予言しても誰も信じてくれないと思う。ノストラダムスも案外馬鹿にはできない。嘘みたいだけど阿呆らしいけど有り得ないって思うけど、もうじき世界は終わるのだ。ずっと下を向いていた顔を上げる。見えるのは薄暗い空と変色した海。何も聞こえない、鳥の鳴き声も、スクランブル交差点を横切る幾数もの足音も。命の音がまるで聞こえない。思い切り息を吸ってみた。人口が激減した地球に立って吸った酸素は不覚にも昨日よりずっと綺麗に感じた。この場所で呼吸をしているのはたった二人だけ、私と私の目の前にいる白い人。

「えっと…白蘭、一発ぶん殴ってもいいかな」
「やめてよ、こんなときに殴り合いなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?」
「はぁ…、こんだけ世界をめちゃくちゃにしといてどんなに素敵な新世界に連れてってくれるのかと思ったら何、未完成?結局私たちはここで今死にます?」
「少し間に合わなかったね、計算が狂っちゃってさ」

そう言って白蘭は他人事のように笑ってみせた。私は呆れて溜め息をつく。全部、本当に何もかも全部、この人が悪い。この、たった一人の男のせいで今まさに世界が終焉へと向かっているのだ。白蘭はこの世界を壊して新しい世界を創ろうとしていた。神様になろうとしていた。ああ、思い返せば幼稚だ。それなのに、私は白蘭について来た。誰からも否定され、遂には世界に拒絶された彼を信じてしまったのが間違いだったのかもしれない。白蘭は馬鹿だけど、私も大概変わらない。

「何が神様よ。白蘭は所詮人間以上の何でもなかった」
「そうだね。そして散々見下されてきた君たちも、人間以下の何でもなかった」
「反省してるつもり?」
「いや全然」

良かった。今更反省なんてされて謝られでもしたら本当に殴ってやろうと思った。白蘭から視線を離して濁った空を見上げ、思う。間違ってるよ白蘭は。おかしいんだよ白蘭は。でも彼をこうさせたのはこの世界だ。だから、きっと仕方ないんだこれは。もう全て消える、世界も白蘭も引き分け。それにしても世界の終わりがこんなに穏やかで良いのだろうか。もっと狂っているものじゃないのか、もっと、醜いものじゃないのだろうか。何だかこのままではまたいつも通りの平凡で退屈な朝が来てしまいそうだ。

「早く明日にならないかなあ」
「君はやり残したこととかないの?」

白蘭は特に興味もなさそうに問い掛けてきた。やり残したこと。私は今までどう生きてきたんだっけ。白蘭について来て、仕事に没頭して、白蘭の言う通りに人を始末して、書類書いて、人を殺して、書類書いて、また人を…。考えたって惨めになるだけなので止めた。なんて彩りのない人生だったんだろう。結局私は何がしたかったんだろう。幸せになんてなれなかった。白蘭に出会ってからの私は、もしかしたら不幸になるために拳銃を握っていたのかもしれない。

「やり残したことばっかり。本当散々な人生だったよ。良い思い出なんて何もない」
「良い思い出なら今から作ってみる?」
「どうやって?世界最後の日に白蘭と二人きりなんて既に悪い思い出以外の何でもないよ?」
「へえ、よく言うよね。ねえ、君の人生に足りなかったものって何?」

私の人生に足りなかったもの。たくさんある。足りなかったというより、奪われたと言った方が正しい。でもさすがにそれまで白蘭のせいにはしないでおこうと思う。たくさんあるけど具体例をあげられない。私に何があったら、幸せになれたんだろう。そうなると、幸せとは何か、とまで疑問を遡らなければいけないから厄介だ。幸せとは何か。私が知るわけない。一般世間で言う幸せって多分お金たくさんあって欲しいもの全部持ってていつでも周囲に優しくされて暖かくて、愛する人に愛されるような、それがこの上ない幸せだ。そういえば私は恋というものを忘れていた。私には恋人も旦那もいないのだ。愛する人がいないまま、つまるところの負け組の女のまま、最期を迎えるのだ。

「あー、恋したかった」
「あれ、僕がいるじゃん」
「よくそんな恥ずかしいこと言えるわね。大体白蘭のせいなんだから」
「男運が無いのは僕のせいにしないでよ」

それを言われると悔しいけれど何も言い返せない。白蘭のこと別に嫌いじゃないけど、近くにいたけど、そういえば恋愛対象として考えたことがないと今気付いた。白蘭とはいつも皮肉のドッヂボールをしていた。嫌味を見つけては容赦なくぶつけあって、毎回毎回、よく飽きないものだ。他のことなんて記憶にない。ほら、こんな緊急事態だっていうのにいつもと変わらない情のない会話。あまりにも普通すぎる。だけど普通ではない。目に見えずとも、その瞬間は一刻一刻と近付いていた。白蘭は終わりを迎えようとしている世界を食い止める気はないのだろうか。すんなりと世界と共に死ぬのを受け止めるなんて、彼らしくないと思った。それとも白蘭は解っているのかな、自分じゃ止められないこと。この世に神様なんていなかったんだ。

「死ぬ前に一回くらい結婚してみたかったなー。真っ白なウェディングドレス着てさ」

きっと隣には一生を預けると決めた、素敵な素敵な旦那さんがはにかんで笑っていてさ、

「結婚する?僕と」
「はい?」
「どうせ何時間かで終わっちゃうけどね。少しでも自慢のダーリンが出来た気分にならない?」
「そっか、白蘭しかいないのか。ゴリラでもいたらなあ、間違いなくゴリラと結婚するのに」
「ねえ、明日まで待てない?今すぐ死にたいの?」
「冗談。はいはい結婚しました今から私とあなたは夫婦です」

投げ捨てるように白蘭のプロポーズに返事した。あれ、これでいいのかな。なんだ、プロポーズってもっとロマンティックでドキドキして一生忘れられないようなものだと思ってた。こんな時だからしょうがないかもしれないけど。指輪の代わりに、と白蘭が私の左手の薬指に軽く口付けをした。よくやるわ。悪い心地がしないのはきっと、ゴリラ以下とか言っときながら結局白蘭は私の中でそれなりに輝いていて触れてもいいと思うような存在だったからなんだ。私は今幸せだろうか。

「どんな家に住みたい?高層ビルの頂上?それともお城?なんなら島ごと買い取ってあげてもいいけど」
「ううん、海が見える丘で木でできた小さなお家がいい」
「ふーん、君らしくないなぁ」
「朝ごはんは毎日甘い甘い玉子焼きを作ってあげる」
「焦がさないでね」
「白蘭もたまには家事を手伝ってよね、買い物くらいでいいから」
「うわあ、やらなきゃ夕食抜きにされそう」
「庭にはたくさん花を埋めましょ、白蘭が好きな花」
「……ねえ、」
「ペットは猫がいいの。アメリカンショートヘアーの可愛い猫」
「ねえってば、」
「それで、子どもは三人、ううん五人くらい居て、毎日毎日笑いが絶えないの、すっごく、しあわ、せ…」
「ねえ、泣いてる?」

そう言って私の顔を覗き込んだ白蘭の困ったような顔を見て、私は自分の頬を伝う温かいものに気付いた。手で触れてみればそれは確かに悲しみの産物でしかなくて。やだ、私どうして泣いているの。悲しいことや苦しいことなんて何もないのに。虚しくなったんだ。それから、それから、とどんどん理想を語る自分が。だってどんなに言葉にしたってこれはただの夢で、私たちは明日消えてしまう。私はこんな生活に憧れていたなんて、そんな、今更。

「ごめん、なんか寂しくなって」
「ごめんね」
「白蘭に謝られたの初めてだよ。やめてよ、なんか怖い」
「もうすぐ日付が変わるよ」
「そうだね…。あ、白蘭見て、あっち!花が咲いてる!」
「ん?」

大きく腕を伸ばして指を差した方。瓦礫の中で小さく咲いていた白い花。びっくりした。まるで誰かが私たちに希望を与えるために仕組んだみたいだ。もう植物なんてみんな枯れ果てて死んだのかと思っていたから。よりによってこんな小さい名前もないような花が生き残っていて懸命に咲こうとしていたなんて。感動したのと同時に失望した。気分が落ち着かない。今現在この世界に生があるのは私と白蘭とこの花だけ。それもそろそろ消えてしまうね。

「世界の終わりってもっと凄まじいものかと思ってた」
「僕はもっと美しいものかと思ってたよ」
「案外怖くないかも」
「僕も」
「また会えるといいね」
「生まれ変われたらね」
「うーん、白蘭は精々ミジンコくらいにはなれるんじゃない?」
「顕微鏡か何かで見つけてよ」

悪いことした人ってね、絶対人間に生まれ変わることはできないんだよ。そう言った瞬間わからなくなった。だって白蘭のしたことは悪いことなんかじゃない。彼なりの正義でしかない。それを人は悪だと呼ぶんだって、おかしな話。そもそも正義って言葉があること自体がおかしいくらい正しいものなんて一人一人違うのにね。白蘭の創ろうとした世界を想像してみる。きっと明るくて楽しい世界なんかじゃない。白蘭を中心に回る冷たくて理不尽な世界だ。それでも良いから私はそこに行きたいって思っていたよ。あとちょっと、あとちょっとで夜が明け世界が終わる。

「思い出ができると死ぬのがやになるね。どこか捨てられる場所はないかな」
「ほら、そこの海とかさ」

真っ暗で底の見えない海が広がっていて、そこに飛び込んだらすぐにでも綺麗に消えてゆけそうだった。思い出をくしゃくしゃに丸めて放り込んだら跡形もなく消えてしまいそう。そうできたらいいのに。幸せになると不幸になるのが怖いように、私も忘れてしまうのが怖くて仕方ない。嫌だな、私はそんな臆病じゃなかったはずだ。何人も何人も殺しておいて今更死ぬのが怖いなんて罪深すぎる。本当はもっと罰を受けるべきだった。いやもしかしたらこれが、世界が終わるまで死ねないことが、最大にして最悪の罰なのかもしれない。罰、という単語で、一つの妄想にも似た予感が頭をよぎった。計算が狂ったなんて嘘じゃないのか。白蘭は、世界に対する最も大きい反撃と、懺悔のために、こう仕向けたんじゃないのか。いやそんなの白蘭らしくない。きっと私がそう思いたいだけだ。白蘭を正当化したいだけなんだ。だってもしそうだとしたら、彼の操る世界と共に死んでいけるなら少しは救われるから。妄想の話は終了。大丈夫、怖くない。私は拳を強く握った。

「……ありがとう」
「何が?」
「好きでもない私と結婚してくれて」
「やだなあ、好きでもないなんて誰が言ったの」
「え?」










「ずっと好きだったよ君のこと。ずっとずーっと」


白蘭が寂しく笑ったその瞬間、真っ白な光にのみ込まれた。



さよなら最後に愛した世界



20090806 企画提出
20111103 修正 改題