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目を覚ますと私は謙也のベッドの上にいた。昨日トイレで吐いた以降の記憶が全くなくて、もしかしたら謙也と寝たのかもしれないと一瞬考えたけれど私はちゃんとあのダサい服を着ているし、謙也はといったらベッドではなく床にクッションを枕にしてタオルケット一枚だけかけて寝息を立てているので、何も起きなかったことを確信した。近くにあったデジタル時計に目をやるとまだ五時半だった。昨日あれだけ降っていた雨はもう止んだようで、辺りは静かだ。デジタル時計の横に私の携帯があることに気付いて少し気を落としながらも昨日の夜ぶりに携帯を開いてみた。ら、予想通り、彼からの着信が二十二件程あった。深海から浅瀬に一気に引っ張り出された気分に陥る。これは私が人間ではなくて、深海魚だと仮定して、だ。私が彼の元に戻ったら何されるだろうか。男の家に一晩泊まったなんて知ったら彼は私を殺すかもしれない。携帯を持つ手が震え出す。私は彼が怖い。ずっとずっと怖れて、それでも愛して生きている。もっと普通の男、例えばここにアホ面で眠っている医学生なんかと付き合ったらこんなに怯えなくて済むのだろう。もっと普通の、普通に愛されるのだろう。普通の愛され方って何なんだろう。結局私は異常なそれしか知らない。自分が惨めになって携帯を適当に投げつけた、と思ったら携帯は謙也の頭に当たった。

「…った!」
「あ、起きた」
「わ、もう起きとったん?おはよ」

謙也が上半身を起こす。寝起きで、私が携帯をぶつけたという事実を理解してないようなので黙っておく。なんて平凡な朝なんだろう。ブラインドを開けて窓から空を見上げる。薄暗いというよりは薄明るくて、綺麗で、私が呼吸する場所とは全然違う気がした。謙也は部屋着からカジュアルな服装に着替えてトイレに入って顔を洗って朝食を作った。今日は大学があるらしくせわしない。謙也から出されたトーストとベーコンエッグとサラダを見て、つまらない男だなお前はと思ったけれど、その後に出された青汁が予想外で謙也のことを見直した。が、青汁は残した。

「じゃあ大学行ってくるわ」

全ての支度を終えた謙也がそう言い私は頷くけれど、謙也はどうも怪訝そうな顔をしていた。理由はわかってるし、私はその謙也の心配事に対して大丈夫だとは言えない。これから謙也が大学に行って私は一人になる。一人になった私は多分ここを出て彼の元に戻る。戻らなければならない。戻らなければ、私がいなければ、あの人は生きていけない。謙也は私が帰るのを怖れている。

「服洗濯機かけといたから後で干しとき」
「うん」
「俺が帰ってくるまでここ離れるんやないで」
「なんで?」
「彼氏んとこに帰りたいん?」
「あの人は私がいなきゃだめなの」
「なあ、いつまでそんなん言うとるん?もう自分が傷つくの見とうないねん。ええやん、ここにおったら」
「良い人ぶってる自分が好き?」
「ちゃう!俺が好きなんはお前や」

何も言い返せなくなったのは、謙也の告白に驚いたからでも感動したからでもなくて、予想通りの返しがきて逆に戸惑ってしまったからだ。だけど謙也の目を見ると私が思っていたより本気で、こんな、夜中に急にずぶ濡れで家に来てシャワー借りて服借りてカップ麺食べてビール飲んでAV大音量で再生してトイレに吐いて一人ベッドで寝て携帯を投げつけて青汁を残すような、最低な女を愛している目だった。ああ、私、この人といたら幸せになれるのかもしれない。ずっと探していた幸せがやっと手に入るのかもしれない。そう思った。

「…行ってくる」
「うん」

謙也が部屋を出て行って、私はベランダに出て洗濯物を干した。この天気だとすぐに乾きそうだ。安いアパートの二階のベランダから眺める景色は大して価値のあるものではないが、私にはあまりに広くて新鮮で気持ち良かった。謙也の部屋に居ても特にすることがないので、私は近くのコンビニに行くことにした。この格好で、しかもすっぴんで行くのは不本意だったけれど、コンビニくらいならと妥協した。
コンビニに入ってまず雑誌を立ち読みする。ファッション誌を見て彼の好きそうな服装を探す私はひょっとしたらとても一途な恋する女なのかもしれない。週刊誌に載っている様々なスキャンダルや事件を適当に眺めて雑誌コーナーから離れて、スウィーツやアイスを見ていたのだけど何かを食べる気にもならなかったのでコンビニを出た。気分が落ち着かない。私は自分がとんでもない罪を犯しているような気がしてならない。傷が疼き、痣が痛み出す。
結局謙也の部屋に戻り自分の携帯を開いた。着信は一件もなくて、今度はそれが私を恐怖のどん底に突き落とす。彼は?ねえ、私の彼は?彼からの着信がない。私が不安になるには十分すぎた。私が帰って来なくて寂しがり屋のあの人は自殺してしまったのかもしれない。自分を責めて死んだのかもしれない。可能性の低いはずのことを当たり前に想像した私は、黙ってその場に居ることができなくなりベランダから半乾きの服を取り込んで着替えて、謙也から借りた服は畳んでベッドの上に置いといた。靴を履き、謙也の部屋から出る。謙也は自分が帰ってくるまでここを離れるなと言った。それに従って離れずにいたら私は幸せになれるんだろう。普通に愛してくれる人を普通に愛することができるんだろう。でも、私はそこに居られなかった。幸せになってはいけなかった。アパートの階段を一段一段泣きながら下りてゆく。一歩一歩彼に近づいてゆく。ごめんね謙也。あなたは私には優しすぎたの。



エデンの遠くで蝶は堕ちる



20110921