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重い足を引きずり、アパートの階段を上る。激しく降り続ける雨のけたたましい音も、既に乾いている部分などなくなった自分の身体も、その身体の至る所にできた醜い痣や傷も、全部私を憂鬱にさせるオプションでしかなかった。今、他人が私を見たら幽霊だと勘違いして悲鳴を上げるかもしれない。それくらい自分が酷く奇抜な容姿になっていることは知っていたけど、そんなのどうでも良くなるくらい、寒くて、痛くて、優しさとかじゃなくて物理的に居場所が欲しかった。
二階の廊下を少し歩くと目的の部屋があったので震える人差し指でインターフォンを押した。安いアパートのインターフォンは実に下品な音がする。するとすぐにドアが開いた。誰が訪ねてきたのか口頭で確認する前にドアを開けてしまうのが謙也らしい。誰や、と今更言いかけた謙也は私の姿を見て案の定目を見開いて驚いていた。私は何の断りもなく謙也の部屋に上がる。

「な、どないしたんそれ?!」
「シャワー貸して」
「は?」

慌てふためていている謙也を無視して私は勝手に脱衣所で水を含んで重くなった服を脱いで浴室に入った。温かいシャワーを浴びると泣きそうになる。お腹も太股も痣だらけだ。痣を指で押してみると痛くて、私はなんでこんなことを繰り返しているんだろうと憂鬱になる。それでも時々この痣や傷が愛しくてしょうがなくなるときもある。私はおかしいのかもしれない。シャワーの水圧を上げた。傷に当たると痛い。全部洗い流せたら良いのに、と思う。
浴室から出ると脱衣所にある洗濯機の上にバスタオルと灰色のスウェットの下と恐らく謙也が自分の持っている中で一番女が着ても違和感ないと考えて選んだのであろう、黒いキャラクターもののTシャツが置いてあった。センスないとか思いながらそれに着替えてバスタオルを肩にかけて部屋に戻る。すると謙也が救急箱から色々と取り出していた。ああ、謙也って確か医者目指してるんだっけ。

「手当てしたる」
「いいよ別に」
「あかんて!絆創膏くらいつけときや」

こいつは人にお節介を焼くことに関しては、何があっても曲げない人なので、めんどくさくなる前に私は謙也と向かい合わせになるように座った。謙也は私の顔や腕の傷を消毒して絆創膏、大きな傷にはガーゼをつけた。腫れたところは冷やして湿布を貼られた。痛みが少し薄くなって、私の身体は体温を取り戻して、何だか人間じゃなかった物体が人間になれたような、そんな感覚になった。私は最初から人間らしい人間だったのに。一通りの手当てが終わったらしく謙也が救急箱を片付け始めた。

「逃げてきたんやろ」
「別に。ちょっと休憩しに来ただけ」
「…なあ、そろそろ警察行った方がええわ」
「いい、やだ」
「なんでやねん。自分こんな傷つけられてんやで!」
「謙也に何がわかるの?」
「お前の彼氏が異常っちゅーことだけはわかる」

異常、なんだろうか、私の彼氏は。約一年前に同棲を始めた。殴られたり蹴られたりするのは今日が初めてじゃない。普段優しい彼なのに、時々びっくりするくらい豹変する。それはきっと彼が不安に襲われたときだ。寂しいときだ。私にこうして傷をつけるのは彼が私を求めているということ。彼には私がいないと駄目だ。それなのに私は今なんでこんな所にいるんだろう。謙也が手当てしたばかりの傷が再び痛みだす。痛い。やめて。やめて。彼に暴力奮われてるとき私は確かに嫌で嫌で辛くて苦しくてどうしようもなくて泣いてしまう。彼は本当に私を愛しているのかと疑ってしまうときもある。だけど彼に優しく抱きしめられると、全てを許してしまう。不器用な人なんだ。これは愛情表現なんだって解釈してしまう。彼が異常なら私も異常だ。

「謙也、お腹空いた」
「あー冷蔵庫ん中入っとるモン適当に食ってええで。あとカップ麺とか。ちゅうか、俺も風呂入ってくるわ。もうこんな時間やし」

そう言って謙也は浴室に向かった。テレビの上に置いてあった時計を見てみると二十三時だった。いつ帰ろう。早く帰らなきゃ。そう思うも、なかなか重い身体を動かす気になれなかった。謙也に言われた通りにカップ麺にお湯を入れて二分半待って蓋を全部開けたら麺を啜る。ついでに冷蔵庫から取り出した缶ビールも口にする。雨音がうるさくて怖くなったので、テレビの下に無造作に散らばっていたAVの中から一番面白そうな題名のを選んで大音量で再生した。内容は期待ハズレだったけど、これを観て一人でやってる医学生を想像したら酷く間抜けで笑えてきて、私はまた人間に近づいたような気分になるのだった。DVDを流し続けて暫くすると謙也が戻ってきた。

「え、ちょ!何観とんねん!!」

相当焦ったようで物凄いスピードでテレビの元まで行き直接電源を切った謙也。大音量の女の喘ぎ声が消えて再び雨音に襲われる。せっかく良いところだったのに。謙也はありえないと言いたいような顔で、でも少し気まずそうに私を睨んでくる。別に私は謙也のママじゃないんだから。バレたって良いじゃないか。男なんてみんなこんなもの持ってるんだし……あの人も、彼も持っているのだろうか。それは妬ける。

「謙也彼女いないのー?」
「おったら他の女ここに入れへんし」
「いや謙也は彼女いてもボロボロの女が部屋に来たら追い出せないよ、それ狙ってきたんだもん私」
「何やねん。ええ迷惑やわ」

でもほら、帰れなんて言わない。殴ってもこない。謙也は優しい。謙也は正常だ。優しさなんて要らない。異常な方が面白い。私はあの人が好き。好き、好きよ、好きなの。本当に最低な男だと思う。女に手かけるなんて最悪。なんであの人は私をこんなに傷つけるの?愛しているから?愛?何処に?自分の中で必死に問い続ける。必死に愛を探す。彼からの愛ならばどんな形でも許せる。痣も傷も、彼に一言「愛してる」と言われたら痛みなんて消えてゆく。謙也の手当てよりずっと効果的だ。
くだらないことを考えながらビールを飲み干した。

「謙也はさ、好きな女の子を傷つけたくなったりしないの?」
「絶対せえへん。傷つけたないし、傷ついてほしくない。暴力なんか論外や」
「だろうね」
「自分ホンマに愛されとるて思うん?」
「わかんない。もう何もわかんないよ謙也。でも彼には私が必要、必要なの」

謙也はまるで飼ってるペットが死んだような悲しい顔をした。途端に吐き気がして、私は口を手で押さえトイレに駆け込む。床に膝をついて便器にさっき食べたカップ麺を全て出した。どうして私は何もわからなくなってしまったのだろう。何も、としか言い様がないくらいにこの世の全てがわからない。トイレットペーパーで口を拭きながら考える。彼を愛したからだ。彼を好きになって世界が見えなくなってしまった。心が空っぽになってしまった。私に残っているのは彼がつけた傷だけだ。
謙也がこっちまでやってきて、私の背中をさすり髪を撫で、躊躇いがちに私を抱きしめた。謙也の腕の中で私はあの人のことだけを考えていた。


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