強く打った黄色い球が物凄いスピードで地面をたたき付けては跳ね上がりフェンスにぶつかって落ちた。ち、と舌打ちをする。くそ、うまくいかねー。こんなんじゃあいつらに勝てない。こんなんじゃ引退していった先輩たちに追いつけない。あの人たちの栄光を守れない。俺のサーブを見ていた部員たちが、すげーとか、さすが部長とか言ってて、まあ悪い気はしないんだけどなんかうざいから「ほら一年は球拾いしろよ!」と昔俺が言われたことのあるような台詞を吐いてみた。やべー、あちー、ちょっと休憩。そう思ってドリンクを飲みに行こうと振り向き、その人の存在に気づく。

「切原ぶちょー。なかなか偉そうなこと言ってるんじゃない?」
「げっ、先輩また来たんすか」

あからさまに嫌な顔をしてそう言ってやれば、何が楽しいのかわからないけど思いきり笑顔になった先輩。この春に中等部を卒業して高等部に上がった、元テニス部マネージャーで明るくて女らしさ皆無で超おせっかいな先輩。あーまたなんか真田副部長からの伝言とかか?勘弁してくれよ、こんなあちーのに。俺はタオルで額やら首やらの汗を拭いてドリンクを飲みながら先輩の話し相手をする。

「赤也が心配だから来てあげてんの。みんなは高校でもテニスやってて忙しいから仕方なく私が」
「暇っすねぇ、やっぱり彼氏できてないんだ」
「うっさいわボケ」

先輩が口を尖らせるから俺が笑う。まだ四月だというのに太陽が容赦なく馬鹿みたいに照り付けていて鬱陶しい。先輩みたい。この人は引退しても卒業してもしょっちゅうここに来て俺を冷やかす。華の女子高生がこんなに暇で良いのかよ。毎回そう思いながら先輩と話すたびに、俺は俺が二年生エースだった頃の懐かしさに襲われ、あの全国大会の決勝を思い出したり先輩たちが引退したときの表情を思い出したりして目頭が熱くなる。まあもう慣れたけど。いつまでも鮮やかな残像にしがみついててはいけないことを、あの人たちがいなくなってから知った。めんどくせえけど、だりいけど、練習すっか。

「で、先輩今日も最後までいるんすか」
「できればいたいんだけど、今日はこれから病院だから」
「は、病院?なんで?」
「恋の病かな」
「うっわ…」
「うそうそ!ちょっと検査しに行くだけ。じゃあ練習頑張ってね、部長」

俺の右肩を軽く叩いて歩き出す先輩。本当に嵐のように過ぎていきやがった。副部長の伝言じゃなくてよかった。病院。先輩と果てしなく似合わない場所。あそこが何する場所かわかってて行くのか?妊娠とかだったりして…んなわけねー。相手いねえし。やっぱり先輩に病院は似合わない。そんなことを考えて少し頬を緩ませながらコートに戻った。ボールをバウンドさせる回数に比例して先輩のことなんて頭から消えて、代わりに去年全国制覇したあいつらに対する闘争心が燃えていく。絶対負けねえ。俺たちが王者だ。もう一回、さっきより強くサーブを打った。ボールが沈みかけの太陽と一瞬重なって、まるで空に届くまで遠く打てたんじゃないかと錯覚した。





「よっ、切原部長」

ニ週間半後にまた先輩は部活に顔を出しにきた。珍しく久しぶりに感じる。毎回毎回来ては無駄なアドバイスをくれたり、俺のことを茶化すように切原部長って呼んだり、幸村部長とか真田副部長が今も頑張ってるって話をして俺を焦らせたり、すげーうぜー。うぜーけど、先輩のいる部活は好きだ。よくわかんないけど落ち着けて心地好さすら感じられる。なんでだ?難しいことを考えるのは嫌いだからぱっと簡単に考えてみると、先輩になんか物凄いパワーがあるとしか思えない。例えば笑顔とか。別に普段大してかわいくないけど、この人の笑顔が俺はかわいいと思う。そんなことを考えてる自分に妙な悔しさを覚えながら先輩の方に目を向ける。

「あれ、先輩痩せました?」
「お、わかる?ここ最近ダイエット頑張っちゃった」
「どうせすぐリバウンドでしょ」
「今回は本気なの!あ、そろそろ部活終わりでしょ?今日一緒に帰ろうよ」
「はぁ?なんで俺が…」
「何か奢ってあげるから」
「やり!」



部活が終わって制服に着替えて、先輩と帰り道を歩く。テニスの話ばっかりして歩いてコンビニに入る。よく仁王先輩や丸井先輩と入って、ジャッカル先輩に肉まんとか奢ってもらったコンビニ。先輩はスナック菓子コーナーに立ち止まり「さあ何でも好きなの選びなさい!」と胸を張って言った。何だよ、奢るってこんな百円ちょっとの菓子かよ、と激しくブーイングをしたが先輩には効かない。しょうがないから激辛ポテチと十枚入りのクッキーを先輩の持つかごに捨てるように投げ入れた。先輩もスナック菓子を次々と入れてレジに向かう。ダイエット中とかほざいてたのはどこのどいつだっけ。
先輩が会計し終えて、コンビニを出た。近くの公園に寄り、俺たちは隣同士のブランコに座る。十九時を過ぎた公園にはもう誰も居なくて、砂場には小さくて赤いスコップと小さくて黄色いバケツが寂しげに存在を主張していた。
俺たちはスナック菓子の袋を開けてつまみながら最近の部活や学校のことについて話していた。平凡で普通のつまらない会話。それなのにどこかに違和感を感じてた。けどまあ気のせいだろうから、俺は何も意識しないで先輩の話を聞いて自分の話を聞いてもらう。

「クッキー食べる?」
「あざーす」
「ねえ赤也、私ガンなんだって」

チョコチップクッキーを一つ口にした瞬間に先輩が発した台詞にクエスチョンマークをたくさん浮かべながら俺は歯を動かしていた。
がん、がん岩岸眼顔…。頭の中で様々な“がん”という字を思い出す。漢字は嫌いだ。がん、ほらあの、難しい漢字。病とか症に似ている難しい字。癌。うっすらと浮かび上がったその字にぞっとした。いやそんなわけねーよな。でも先輩は私ガンって確かに言った。もしそれが癌だったら、ちょっと笑えない。全然笑えない。
口の中で粉々にしたクッキーを飲み込んだところで横の先輩の顔を見る。いつもと変わらない、少し痩せたその横顔。ダイエットなんて嘘だったんじゃないのか。そういえば先輩前病院で検査って言ってた。なんでこうも確信できてしまうような要素があるんだろう。

「冗談でしょ」
「ポテチも食べてよ、私辛いの嫌いだからさ」
「先輩、検査って、あれで?」
「うん。クッキー一枚ちょうだい」
「は?なんでだよ…」
「おいしいねこれ」
「ちげえよ、そういうのじゃなくて…説明しろよ!」

俺は怒鳴ると同時にブランコから立った。クッキーの入った袋が逆さに地面に落ちて最悪なことになっている。先輩は驚いて、少しびびったような顔をして俺を見上げた後、また視線を下ろす。何が何だかわからない。自分でも何をしているんだかわからない。わからねえよ、畜生。春の十九時の空は群青がかった灰色だ。先輩の横顔はすごく悲しかった。だからよりリアリティを増していく。何を思ったかこの人はブランコをこぎ始めて、先輩の乗ったそれはゆっくりと前後に揺れる。それすら悲しくてしょうがなかった。情けないけど怒鳴ってなければ涙が出てくると思った。

「病院ね五ヶ所くらい見てもらったんだよ。みんな同じ病名言ってた」
「でも、でも、治るんでしょそれ。なあ」
「残念。手遅れなんだって。もう治らないんだって。私死んじゃうんだって」

まるで他人事みたいに、噂話を流すように、先輩が抑揚をつけずにそんなこと言うから、俺はムカついた。なんでだよ。もっと真剣になれよ。今アンタすげーヤバいんだよ。似合わないけど悲劇のヒロインみたいな状況なんだよ。なんつうかもっと、足掻けよ!宣告された先輩の気持ちなんて一ミリも考えずに俺は怒りを募らせていた。
もう何に対して怒りたいのかもわからない。病気になった先輩に対してなのか、先輩を侵した病気に対してなのか、どうすることもできない無力な俺に対してなのか。先輩はずっとブランコをこいでいる。勢いがないため振幅が大きくなることはない。

「意味わかんねえ」
「ごめんね赤也」
「なんで謝るんすか」

先輩のブランコが止まる。なんで謝るんだよ。やめろよ。なんかこれじゃあまじで先輩が死ぬみたいじゃねーかよ。全部言ってやりたいけど、言ったって余計悲しくなるだけで。きっと先輩は俺なんかよりずっとわかってる。自分がどれだけ深くに沈んでいるのかわかっていて、それに逆らおうとしない。俺だったら全力で手足を動かして藻掻いて絶対に水面まで上がるのに。じゃあ先輩はどうなっちまうんだよ。
頭が爆発しそうなくらい考えすぎている俺の横でブランコに座ったままの先輩が口を開く。

「赤也私がいなくなったら寂しいでしょ?」
「寂しくねえし、つか、先輩はいなくならないっしょ」
「だめだよ」
「いなくならねえよ。こんなうざくてうざくてうざい先輩が死ぬわけねえだろ!」
「あか、や…」

死ぬ、という言葉を出してしまったのを少し後悔した。でもどれだけ綺麗な言葉を並べたって無意味で、俺は俺から出てくる行儀の悪い言葉たちに全てを預けた。先輩は下を向いて、きっと泣いている。立ってる俺から見たその小さな体は震えていた。なーんてねって。冗談だよー赤也は本当ひっかかりやすいなーって、いつもの笑顔で言ってくれたら良いのに。もしこれで冗談だったら、キレるけど。最低二週間は口聞かないけど。先輩のこと嫌いになるかもしれないけど。でも冗談の方が良い。先輩がいなくなるよりは全然良い。

「つうかよー、先輩約束したじゃん。俺が部長になってまた立海が全国制覇するの絶対見るって約束しました、よねえ?」
「うん」
「先輩は死なねえよ」
「うん」
「死ぬわけねえよ。先輩は生きるんだよ」
「…う、ん」
「先輩は、死なない」

俺たちは泣いた。俺は立ったまま先輩に背を向けて泣いた。歯を食いしばって泣いた。俺まで泣くなよ、そう思ったけど涙は止まらなかった。声をあげて泣いた。多分先輩より俺の方が泣いていた。まるで迷子になって家まで帰れなくなったガキどもみたいだ。滲む視界に入った丸い砂場。忘れ去られたスコップとバケツもとうとう泣き出したような気がした。
なんでだよ。なんでこの人なんだよ。俺勉強できねえからよくわかんねえけど、地球ってそりゃもうたくさん人が居るんだろ?なのになんでこの人を選ぶんだよ。なあ、説明してくれよ。なんで俺の一番大切な人が死ななきゃいけねえんだよ。いや絶対死なせねえけど。けど、でも、意味わかんねえよ。
誰にぶつけたら良いかわからない悔しさに俺は拳を握る。公園には暫く、二人の泣き声が響いていた。






20110814