目が覚めて時計を見たら午前5時30分だった。アラームは掛けていない。前まで頻繁にあった両親の夫婦喧嘩ももう聴こえなくなった。それなのに最近こんな時間に目を覚ますようになっていた。ベッドから降りて窓際のカーテンを開けると充分に白い空が視界に入る。静けさの中で吐いた溜め息は、本当にがっかりというのが伝わるような大きなものだった。仕方なく学校に行く支度をして静かに階段を下り、キッチンでロールパンと牛乳をコップ一杯口にしてから、洗面所で歯を磨いて身なりを整え、玄関を出た。さっき吐いた溜め息の分大きく息を吸い込む。循環させたかった。この家の空気は、なんだか生温くて苦くて不衛生なイメージだった。だからこんな家から、一秒でも早く出て行ってしまいたかったのだ。


 世の中、上手くいかないことが多すぎる。どうしてこんなにも一生懸命にやっているのに、世界は冷たいのだろう。努力は必ず報われるなんて嘘じゃないか。それとも私の世界だけ?胸を締めつけるのは嫌悪、憂い、疲労。もうやだ。全部やだ。
 そんなことを考えながら通学路を歩いていたらあっという間に学校についてしまった。学校が特別好きという訳ではないけれど、それでもあの家よりはずっと居心地の良い場所に感じる。そんな自分を少し惨めに思いながら上履きに履き替え、教室へ向かう。まだ誰も来てないんじゃないかと予想していた。でもドアを開けた瞬間それは外れたと分かった。一人、教室に居たのだ。こんな早い時間に。私はその人物を見て、心の中でまた溜め息を吐いた。
 一人、席に座っていたのは水戸部くんだった。水戸部くんとはクラスメイトながら関わったことが殆どないから彼がどんな人物か詳しくはわからないけれど、少し変わった人だという認識がある。そんなイメージを持たせるのはやはり彼が無口だからだろう。本当に言葉を発しない。誰も声を聴いたことがない。だから不思議で奇妙でちょっぴり怖かった。普段だったら多分私は黙って席についてしまうけれど、今一人でいたらいろんなことを考え込んでしまいそうで、それが嫌で私は水戸部くんの前の席に横向きに腰かけ水戸部くんの方を向いた。

「おはよう水戸部くん」

 緊張しながら挨拶をすると水戸部くんは顔を上げ一瞬驚いた顔をしてからニコッと微笑んだ。よく見ると水戸部くんは優しそうな顔をしている。思っていたほど怖い人ではないのかもしれない。しかし私を驚かせたのは水戸部くんの手元にある裁縫針と可愛らしいキャラクターの絵柄の巾着袋だった。机の脇には他にもいろんな布でつくられた巾着袋が重ねて置いてある。何故早朝の学校で裁縫なんてしてるんだろう。やっぱり変な人なんじゃ……と疑いかけたとき誰かから聞いた噂を思い出した。水戸部くんのお家は大家族で兄弟がたくさんおり、水戸部くんはその長男だというものだ。

「これ、弟や妹に作っているの?」

 水戸部くんはコクンと頷いた。「へえ優しいね…」そう言いながら巾着を一つ手にとってみた。平凡な巾着だけども綺麗に丁寧に作られていて、これをもらえる水戸部くんの弟や妹は幸せだろうなと思った。きっと楽しくて素敵な家族なんだろうな、とも。そうしていると段々喉の奥から黒い渦がこみ上げてくるような気分になったので私は巾着を元の場所に置いた。水戸部くんはせっせと裁縫を続けている。たった数分で印象はすっかり変わった。穏やかで優しい人に思える。それでもやっぱりずっと無言を貫いていた。水戸部くんは絶対に喋らない。絶対に喋らないなら、少しだけ、私の話を聞いてもらっても良いだろうか。「スルーしてくれて良いんだけど少し話させて」と素っ気ない前置きをしたら水戸部くんはやっぱり少し驚いた顔をしてから頷いた。巾着に赤いひもを通している。私は適当に横の方に視線をやりながら口を開いた。

「親がさ、離婚することになったんだよね」

 軽々と言ったつもりのその言葉は重く教室に響いた。水戸部くんがどんな顔をしているかはわからないけれど、音で作業が止まったのが判る。突然こんな話をされて迷惑だろうか。……迷惑だろうな。でも誰かに聞いてほしかった。そうしないと私は黒い渦に飲み込まれてしまう。そんな気がした。自分のわがままに任せて私は話を続ける。

「こんなことってあるんだね。なんでかな。だってさ、もう結婚して20年くらい経つんだよ?それなのに、もう一緒に居たくないって思うこと、あるんだね。上手くいってるように思ってたのに、あんなに幸せだったのに、もうお父さんもお母さんも死んだような顔してる。笑い声なんて聴こえなくなっちゃった。どうしてかなあ、」

 それは一週間前の夕御飯のときにお父さんから突然聞かされた。実感が湧かなくてドラマのワンシーンを観ているような気分だった。お箸を持つ手が震えた。お父さんもお母さんも深刻な顔つきで私と目を合わせようとしない。嘘でしょ、と声を絞り出したらお母さんは掠れた声でごめんねと言って今にも泣きそうな顔をした。私はこの家族が終わっていくのを漸く感じた。多分あの日から黒い何かが私の中で渦巻いている。

「でもさあ、私嫌なんだよ家族ばらばらになるの。だからね、何とか止めさせようと思って色々したの。二人とも話してさ。頑張ったんだよ私。でも駄目だった。みんな笑わなくなるばかりで、どんどん家の雰囲気悪くなってって……私じゃ何も変えることできなかった。どうしてこんななっちゃったんだろ、ね」

 膝の上に置いた拳を握る手が強くなった。「大好きだったのに…」そう小さく呟いた。両方の目から大粒の涙が流れ落ちる。どうしよう、いきなり自分の話をし出していきなり泣くなんて、迷惑極まりない。そう思って鼻をすすっても涙は止まってくれない。ごめん、と言いかけて水戸部くんの方に顔を向けた瞬間、頬に柔らかく肌触りの良い布があてがわれた。それは頬を撫でるように動く。水戸部くんがハンカチで私の涙を拭おうとしてくれていたのだ。その顔は真剣だった。私は驚き、右手をハンカチに重ねた。

「あり、がとう」

 水戸部くんは首を横に振って、少し遠慮がちにさっきまでのような暖かい笑みを再び浮かべた。水戸部くんは何も喋らない。慰めの言葉も励ましの言葉もかけはしないけれど、それでも話を聞いてくれてこうして涙を拭ってくれた。わかってくれたのだろうか。それすら確認は取れないけれど、でも、その優しい手に少しだけ黒い渦を取り除いてもらった気がした。ハンカチを目元に押し当てる。涙腺はまた緩む。

「ごめん、もうちょっとだけ、ここで泣いても良いかな」

 水戸部くんが頷くのを滲む視界に捕らえてから、私は机にうつ伏せになるようにして、声にならない声を上げて泣いた。

 暫くして顔を上げた。涙はもう出ない。黒い渦もきっと殆どが溶けて消えてしまった。壁に掛けられた時計を見るともうすぐみんなが登校する時間だった。私は立ち上がった。少し頭が重い。

「ハンカチありがとう。洗って返すね」

 水戸部くんは急いで首を横に振ったけれど、私は聞かなかった。自分の席に戻るため歩こうとしたときに水戸部くんも立ち上がり私に向けて右手を突き出した。その先には、巾着袋。

「え、何?」

 水戸部くんはじっと私を見て巾着袋を突き出すだけだった。

「もしかして、私にくれるの?」

 コクコクと頷かれた。私は少々躊躇ってからその巾着に手を伸ばした。持って間近で見てみるとその巾着はいろんな柄の布何枚かを縫い合わせて作られていた。チェック柄、小花柄、ポケモン柄。恐らく余った布で、私が泣いている間にでも作ってくれたのだろう。めちゃくちゃだけど他のどの巾着よりもカラフルで楽しくて可愛い。胸が躍った。

「ありがとう。大切にする」

 私がそうお礼を言うと水戸部くんは笑った。私も笑って自分の席に戻った。時間が経ち、段々とクラスメイトが登校してきて教室が賑わっていく。予鈴が鳴って本鈴も鳴って授業が始まる。授業中、私はそっと世界で一つの巾着を撫でながら、頬を緩ませ、時々水戸部くんの方に視線を送っていた。


静かな魔法
20130319