入学して、早くも一ヶ月が経とうとしていた。中学と変わらず、バスケ漬けの日々。インターハイのブロック予選はもう一週間後に迫っている。
 百戦百勝。読んで字のごとく、百回戦えば、百回勝つことだ。それが帝光中学校バスケットボール部の揺らぐことのない信念だった。勝利こそすべて。俺たちはあの三年間でこの四字を頭に、体に、心に、染み込ませた。この言葉に洗脳された人間だけが、あの部で生き残ることができたのだ。
 だから、ここの体育館の垂れ幕に書かれた『不撓不屈』という字を見た時、ぬるいなと思った。強い意志を持って、困難にくじけない様。良い言葉だが、困難にぶつかることを前提とした、随分と消極的なスローガンだ。帝光ではどんな相手であろうと“困難”とすることさえも許されなかった。
 言ってしまえばつまり、秀徳は、帝光に比べればレベルが低いチームだということだ。もちろん高校バスケトップクラスと呼ばれていることには違いないのだが。やはりあの頃と比べてしまうと、チームメイトに対して物足りなさを感じる。しかしチームメイトのレベルがどうであろうと、関係ない。俺一人がシュートを決めれば良いのだから。俺は決して友達と仲良くボール遊びをするためにここに来たのではない。あいつらと戦うために選んだのがたまたまこのチームだっただけだ。チームメイトは最低限のプレーをして、俺にボールを回しさえすればいい。



「真ちゃん、出し巻き卵いっこちょーだい」
「嫌なのだよ」
「ちぇー」

 高尾は口を尖らせて、カップラーメンの蓋を捲った。体に悪そうな赤いスープに油が浮かんでいる。俺はそれを見て唖然として、出し巻き卵を掴もうとした箸を止めた。

「…何なのだよそのまずそうな昼飯は」
「ひっでー。これから食おうとしてる奴にそういうこと言う?!」
「体に悪いのだよ」
「たまーに食べたくなるんだよ。あ、もしかして真ちゃん俺の体の心配してくれてる?」
「そんな訳ないだろう、死ね」
「ぶはっ!やっぱひでー!」

 にやにやとしながら割り箸で麺をほぐす高尾を見て、改めて変な奴だと思った。以前本人に告げたら苦しそうに腹を抱えて「お前がそれ言うかよ」と爆笑されたが。
 ――俺、中学の時、一度お前とやって負けてんだけど。
 高尾がそう口にしたのは、先月の半ば、既に何人かの同級生が過酷な練習に耐えられず部を去っていった頃だった。全く記憶になかったが、中学時代に俺と高尾は試合をしたことがあるらしい。恐らく三年になってからだろう。あの頃の俺たちが試合に負けることはなかったし、印象に残るような相手もいなかった。高尾は俺に認めさせると宣言した。本当に変な奴だ。何より、闘志を抱いているはずの俺と、平気で昼飯をともにしているのが不思議だ。単に馬鹿なのだろうか。しかし、ただのチャラい男ではないのはわかった。

「緑間くん、高尾くーん」

 俺と高尾を呼ぶ声は教室の前のドアから聴こえた。声のする方を見ると今日も元気な透野とばっちり目が合う。透野は笑って俺たちのいる席まで歩いてきた。

「あれ、椿ちゃんじゃん」
「一緒にご飯食べよ」

 透野は適当に空いてる椅子を動かし、向かい合う俺と高尾の横に座った。何の断りもなしに俺の机に容赦なく弁当を広げる。ただでさえ高尾が勝手に俺の席の前に座りカップラーメンを食べていて迷惑だというのに、更に窮屈になった。

「聞いてよ椿ちゃーん。真ちゃん出し巻き卵分けてくれないんだぜ?」
「えー、真ちゃんけちー」
「黙れ。それからその呼び方はやめろ」
「はーい異議あり!高校で友達になった高尾くんが真ちゃんって呼んでもいいのに、中学から仲良しな私がだめなのは、おかしいと思いまーす!」
「別に高尾ならいいわけではないのだよ。そして仲良しではない」
「ぶふぉっ!いつ見てもこの絡み面白え」

 俺を置き去りにして馬鹿笑いする二人の前で、閉口した。本当に、こいつらは同レベルだ。とてつもなく騒がしい。俺がどれだけ嫌な顔しても構わずに、ついてくる。こんな風に普段から常に誰かが俺の身の回りをうろちょろとしているのは、高校に入って初めてのことで、慣れない。高尾は知らないが、透野は、中学時代は常に、俺ではなく赤司にまとわりついていた。

「やっぱ育ち盛りの男子高校生の昼飯がカップラーメンだけじゃ足りねえなぁ。購買で何か買ってくるわ」
「ん、高尾くんお菓子買ってきてー!」
「あっれー、椿ちゃんダイエット中じゃなかった?」
「さ、三人で食べるから!」
「へいへい」

 高尾は財布を持って立ち上がり、教室を出ていった。透野が「いってらっしゃーい」と大きな声を出す。これで少しは静かに食事をとることができると思ったが、高尾がいなくなって余計うるさくなった透野を見ると、その希望は儚く散った。弁当のウィンナーを口に入れて、嬉しそうな顔をして話しかけてくる。

「中学のときはさ、食堂で食べたよね」
「無理やり連れてかれたのだよ」
「懐かしいなぁ、あの頃。楽しかった」

 透野は弁当用の小さなフォークを置いて、目を細めた。俺に話してるような口振りではなく、実際に回想しているようだった。

「よくみんなでふざけたねー」
「ふざけてたのはお前と黄瀬と青峰だけだ」
「えー真ちゃんもふざけてたよ?肝試しで黒子くんに驚かされた時とか!ふふっ」
「うるさい黙れ忘れろ。呼び方を戻せ」
「やだー私も真ちゃんって呼ぶー」

 中学時代の少々苦い記憶が蘇り口を悪くした。ふざけていたかどうかは別として、確かにあの頃は、まだ俺たちがばらばらになる前は、楽しかった。全員が同じ目標を持ち、向上心を持ち、切磋琢磨した。自分勝手でうるさくて馬鹿な奴らだったが、ともに過ごす時間は悪くなかった。それも、あの日を境に消えてしまったが。

「みんな変わっちゃったよね」

 珍しく小さな声で呟かれたその言葉に驚き、透野の顔に視線をやった。いつもの間抜け面ではなく、切なげな笑みを浮かべている。……またか。こういう表情をされてしまうと、やはり狼狽える。きっと彼女も俺も、考えていること、思い出していることは同じだ。

「俺は変わったか」

 疑問詞がつくか否か判断し難い平坦な音の流れで、俺は透野に問いかけた。透野は俺の顔を見て、暫く目を丸くして、結局何も答えずにやわらかな笑顔を見せた。そしてまた弁当の残りの分を食べる。腹が立って俺も彼女から顔を逸らして箸を動かした。この女のこういうところが、嫌いだ。昔話をしてこんな顔をされるくらいなら、いつものくだらない世間話を聞かされる方がずっといい。何だか責められているような気分になる。楽しかった日常が崩れたのは、俺に、正確にいえば俺たちに責任があるのだと。
 俺の心が掻き乱されていることには全く気付いていないようで、透野はまた別の話題を出して話し続ける。暫くして高尾が戻ってきた。

「おかえりー!」
「ほらよ」
「わ、キットカットだ!これ大好き!真ちゃんも食べよう」
「要らん」
「まあそう言わず食おうぜ。ほらもうすぐインハイ予選じゃん?きっと勝っと!ってな」
「そういうこと?!高尾くんすごい!」
「…くだらん」

 感心している透野の横で高尾は困ったように笑って、机の上にキットカットの箱を置いた。

「お前の好きな願掛けだよ、願掛け」

 食い意地を張り、すぐにそれを手に取った透野が中から個装の包みを出して、俺と高尾に手渡す。その赤を眺めて、にわかに不吉な予感がした。何の根拠もない、何に対してかもわからない、予感だ。それを拭うように包みを切ってチョコを口に入れた。


20150218