「あいつをお前と同じ秀徳に行かせることにした」

 数センチ開いた窓から風が入り込みカーテンが揺れる。段々と暗くなり始めた部室の中で、緑間は耳と脳に響いたその科白に眉をひそめ、自分が随分と劣勢な状況に置かれている将棋盤から、その年相応のトーンでありながらもどこか落ち着いた声の主である赤司の方に視線を移した。こっちは次の駒をどう進めるのが賢明かを考えるのに必死だというのに、何を言い出すんだこいつは。緑間はそう若干苛立ちを覚えたものの、赤司の顔を見ればそれはすぐに消えた。消さざるをえなくさせる魔力のようなものが赤司にはある。緑間の心境などお構い無しに赤司は続ける。

「お前は毎日必ずラッキーアイテムを身につけているね」
「それと何の関係があるのだよ」
「大切なものが自分の目の届く場所にないと不安になる質だろう?」
「俺がいつあいつのことを大切などと言った?」
「いずれわかるよ」

 あいつ。そうたった三文字に圧縮された人物が誰かはすぐにわかった。あいつに決まっている。幼い雰囲気に豊かすぎる表情と耳障りにさえ思える高い声、桃井とともにバスケ部のマネージャーを務めていた透野椿のことだ。
 そうわかったところで、赤司の言動の意図が全く読めず、緑間は対局中だということを忘れる程度にはその真意を追求していた。それでも見いだせない。赤司は何を言っているのか。確かに、緑間は必要とするものはそばに置いておきたいという性格をしている。それが人事を尽くすということだと考えているからだ。しかし、緑間にとって彼女は仲間の一人であり、騒がしい女であり、それ以上の何でもなかった。大切なものというカテゴリーには分類されるわけがない。赤司は何か勘違いしている。緑間はそう結論を出し口を開いた。

「必要なのはお前の方だろう、赤司。お前ならどんな手を使ってでも京都まで連れて行くと思っていたのだよ」
「とんだメロドラマだな。何故僕がそこまで必死になるんだ?」
「俺にはお前が透野を大切にしているように見えていたからだ」

 緑間が間を入れずにそう答えると、赤司は少し意外そうな表情をした。あどけない、少年の顔になる。しかし不自然なのはやはり、右目よりも随分と色素の薄い左目だ。薄暗い部屋の中で、そんなはずもないのに、緑間はその左目が鋭く光っているように思えて仕方なかった。
 緑間は、本心から、赤司にとって透野椿という人間は大切な存在であるのだと思っていた。これまで見てきた赤司と透野の関係はそうあるべきものとして緑間の目に映っていたのである。しかし緑間は、桃井の黒子への気持ちにも気づかないほど恋愛事に疎い男だ。あてにはならない。

「へえ、そんな風に思っていたのか」

 赤司はまたすぐに落ち着いた表情に戻り、緑間を探るように静かに見つめた。自分でも見ることのできない心の奥底の色を見透かされている気がして、緑間は目を逸らしたくなったが、逸らした後に恐らく感じるであろう敗北感を想像して、臆病に打ち勝った。「でもね、真太郎」と続ける赤司の声を、言葉を、取りこぼさないようによく耳を傾ける。

「僕はお前と違って心配性じゃないんだよ。仮に彼女が大切なものだとして、それを自分のそばに置きたいとは思わないんだ。むしろ誰かに預かってもらっていた方が安心するくらいさ」
「…俺にお守りをしろと?」
「仮の話だと言ったろう?まあいい、好きに解釈してくれ」

 緑間はようやく目を逸らした。臆病からではなく、煩わしさからだ。全く赤司はいちいち嫌味を感じる言い回しをする。結局、何が言いたいんだ。第一、中学生が同級生の進路を決めるという話自体がおかしい。だが緑間は赤司に反論する気は毛頭なかった。透野は赤司の言うことには必ず従う。赤司の身近にいる人間も大抵従うが、それは心ではなく頭で従うのだ。逆らえば痛い目に遭うことを予感してそうする。しかし彼女だけは、心から服従していた。自分の損得はまるで無視して、赤司という理由だけで全て信じる。赤司のことをまるで神だと崇拝しているかのようだ。何の理由があってここまで盲信的なのか、緑間にはわからなかった。
 赤司はいつも正しい。それは緑間もわかっていた。わかっていながら、疑問を抱いていた。何故赤司は正しいのか。一見物騒であったり理不尽であったりすることを口にする。それは突発的に思えるものも多く、緑間は何度赤司の行動や言動に顔をしかめたかわからない。こんなの間違っている。そう何度思ったことか。それなのに最終的には赤司が全て正しくなっている。間違っていると思っていたことがしっかりと辻褄が合い、誇らしげに正義を代表しているのだ。だから赤司に反論はできない。どうせ今回の件だってそのうち赤司が正しかったと判明するのだろう。なんとなく不服だが、それももう慣れた。

「ところで。まだ対局中だぞ、真太郎」
「…投了だ。本当にお前は全て見えているようだな」

 赤司の口元がゆるい弧をつくる。ああ、見えているさ、何もかも。そう呟く赤司の双眸をレンズ越しにじっと見ながら、緑間は胸やけのようなものを感じていた。他の部員に比べて、緑間は赤司といる時間が長い。赤司が主将、緑間は副将として、この強すぎる帝光中バスケットボール部を引っ張ってきた。赤司の部の動かし方にも賛成している。メニューがあまりに厳しいと弱音を吐いて腐っていく部員を横目に緑間はそれらをこなしてきた。根本的には、赤司のことを尊敬しているのだ。だが同時に、畏怖の念を抱いている。赤司といると油断できない。焦燥さえしている。そして緑間は、赤司に対して猟奇的なほどに、闘志を燃やしている。正しい赤司をどうしても否定したい。特に“今の”赤司を間違っていると指摘したい。敗北を教えてやりたい。いつか必ず。胸やけの原因はこれかもしれない。この部の中で緑間ほど、赤司に勝ちたいという気持ちを隠し持っている人間はいなかった。また、緑間ほど、赤司に負けてきた人間もいないのである。

「もう暗い。帰ろう。なかなか楽しかったよ。久しぶりだったな、お前と将棋を指すのは」
「ふん、次こそ俺が勝つ」
「楽しみにしているよ、真太郎」

 赤司はある日から緑間や他の部員のことを下の名前で呼び捨てにするようになっていた。緑間は今でもそれに違和感を感じる。赤司ではない誰かに名前を呼ばれている気分になるのだ。あの日から赤司はそれまでと変わった。不気味なほどに、別人のように。しかし緑間はそうなった理由を説明できるほどよく理解していなかった。赤司の中にいるもう一人の人間……馬鹿げた空想だろうか。ふと頭に透野の顔が浮ぶ。あいつにはわかるのだろうか。今の赤司を見て何を思う。彼女にとってまだ赤司は神なのか。緑間はそんなことを考えながら、駒を片付ける手を止めかけたが、すぐにまた動かした。窓からまた風が吹き抜ける。その窓を赤司が閉め、将棋盤を完全に片付けたら、二人で部室を後にし、暗い廊下に溶けていった。中学三年の秋のことである。


海の底へようこそ


20150206