プロローグ


幸せとはどういった味がするのか、当時の私には知る術もなく、繰り返される貧しくとも穏やかで波のない毎日に不満を持ったこともなかった。覚えている母親の姿は、いつもリネンの安い服を着て、惨めに光る安物の宝石に身を包み、このドブのような裏路地から少しだけ出た表通りで金の持っていそうな男に声をかけては枕を共にしていた。

当時の幼い私にも母親がどういう仕事をしていたのかは理解していた。娼婦。この国で最も悲しい存在と知っている。幸せとは言い難いいつも苦しい生活だったけど、それでも母は私にとても優しく、もう少し大きくなったらまともに学校に行かせるためにと必死だった。

「どうしたの、そんなに暗い顔をして」

私は近所に住む浮浪者の男が飼っている鶏の鳴き声と共に起きる。この一日中薄暗い路地裏を早めに抜け出して、この座り込む少年に会いに来ている。彼は汐華初流乃。私と同じで日本人との混血らしい。艶っぽい黒髪は自分と一緒なのに、初流乃はいつも暗い顔をしていて口数も少ない。母のおかげで毎日を笑顔で暮らしていたお喋りな私から見ると真逆のような少年だった。
「またお義父さんに殴られたの?」
「…」
いつものことだ。私もたまに母を買った見知らぬ男に邪魔だと殴られることがある。(ちなみにそのせいで私は大人の男は苦手だ。)私の言葉に小さく頷いた初流乃の綺麗な黒髪を撫でた。
「大丈夫よ」
確信はない。気休めの言葉。無責任な発言を私はしている。こんな言葉は初流乃にとって一時的な慰めでしかないのだ。それでも当時の私はこの同い年の小さな彼に優しくすることで、自分の自尊心を守っていたのだった。写真を上に投げてばら撒いたように場面、場面で止まった嫌な過去が目の前を過ぎていき、これは白昼夢だと理解した。



「…アンナ」
肩を揺すられて目が醒める。やっぱり寝てたのか、それとも自分のスタンドで幻覚を見ていたのか、一瞬頭の中がぼんやりとしていてわからなかった。(整えられたダブルベッドに横たわっているから恐らく昼寝をしていたと考えられるので前者だろう。)

起きたての重い身体を起こし、私を起こした男を見つける。男は私の額に慣れたようにキスをして、ベッドの端へ座った。男はここに来るまで険しい顔をしていたが、私を見て表情を緩めた。
「よく寝れたか?」
「…まあまあ…懐かしい夢を見たわ」
「そうか、起こして悪かったよ」
「大丈夫。仕事の話?」
視界を邪魔する髪の毛をかきあげて彼を見れば、穏やかな顔を引き締めた。
「涙目のルカがやられた」
「ルカが…」
やられた、ってことは死んだのかな。まあ同じ組織の人間とはいえ、チームでもない興味のない人間が死のうが私には知ったこったない。でもわざわざ私に言うくらいだ何か私にも関係のある「仕事」があるのだろう。

「やった奴を調べ、消せとボスから指令があった、一度みんなに報告に行く」

「…わかった」

険しい仕事の顔に戻った男に続いてベッドから立ち上がる。男の背中を見て、ふと、夢の中で思い出した似ても似つかない彼を思い出した。
「…元気で生きてるといいけど」
「?」
「ううん、さっき懐かしい夢を見たの。近所に住んでいた同い年の男の子が出てきたわ」
「そうか、アンナにそう想って貰えるならその男は幸せになってるよ」
「そうかな?ありがとうブチャラティ」

願わくば彼はこんな世界を知らなければいい。そんな私の願いは叶わぬ夢となる。