悪魔 / 轟焦凍と轟冷と轟炎司

 母の親友だと名乗る女性が、一度だけ家に来たことがあった。燈矢兄がいて、俺の顔にも火傷は無くて、あの親父との日々以外の朧げな頃の話だ。
「冷。炎司君。久しぶり」
 親父のことを炎司君なんて呼ぶ人は、未だにこの人しかいない。
 年齢は一目見ただけでは判断がつかない。少女のようにも、姉のようにも、母のようにも見えるあの人の個性は「不老」らしかった。直接的な言葉をもらった訳じゃないから、実際どういった条件があるのかとか、何歳の頃の見た目なのかとか、そういったことは何も分からないが。あの人が少女のように振る舞うのをお母さんも親父も許容していて、それでいてずっとずっと、大人だった。
 俺にとっての大人の象徴は、あの人。
「炎司君は来ないで」
 その表情は驚く程冷たい。俺を外に連れ出そうとするあの人に文句の一つでも言おうとしたのか、口は半開きのままで中々に間抜けだった。何事にも躊躇う様子なんて殆ど見せない親父の姿の中で、唯一と言ってもいいその姿が、とても印象に残っている。あの時食べたお子様ランチは、幼少期の中でも鮮明に覚えている味だ。
 後から聞いた話だが、親父は若い頃からあの人に頭が上がらないらしい。雄英の経営科の卒業生で、若くしてビルボードチャートを駆け上がった裏にあの人の活躍があった。デビューしたての若造が起こしたトラブルの尻拭い。スポンサーや他のヒーロー事務所とのやり取り。一応事務所を立ち上げたばかりの頃はエンデヴァー自身も色々とやらされたらしいが、軌道に乗ってからはそういったこともなくなり、あの人は献身的と言えるまでにエンデヴァーというヒーローを支え続けた。
 職業体験の際に、あの人のデスクを見た。空席だった。その時の親父曰く“悪魔”と契約させられた、だとか。
  そうして、フレイムヒーロー“エンデヴァー”はビルボードチャートの一位にまで辿り着く。



夏と死 / 西絹代

「絹代ちゃん、隊長になったのね」
「はい。名前さんも、手術を終えられたとのことで。あの、体調は……」
「そんな心配そうな顔をしないでいいの、これでもちょっとは元気になったんだから」
 彼女は、私の生活の中心である戦車道から一番離れていて、それでも私の思考の何割かを占めるような人だった。きっといつだって私は、この消毒液臭い病室をふとしたことで思い出してしまって、初めて出会った夏の日の涼しさとその手の冷たさに囚われているのである。
「ごめんなさい。知波単の試合を見られなくって」
「いえ、よいのです。体調が落ち着いたら、また、応援しに来て頂ければ嬉しいです」

 十年前。父方の親戚の集まりに呼ばれて、別荘地として有名な高原で彼女と出会った。
「あなたも抜け出してきたの?」
「は、はい……」
「いいよ、好きなだけここにいて」
 一階の、一番風通しがいいこの部屋。これまでの七年間という人生の中で私の大半を占めていたオイルや金属の匂いは一切しない。しいて言うなら、夏の匂い。山を抜ける風が運んでくる緑の匂いと、避暑地特有の冷たい空気。それと、もっと根本的な部分から香る消毒液のような匂い。
「まあ、悪い人達じゃないけれど……面倒なものは面倒よね」
 長い髪をくるくると指に巻きつけて、ほんの少し拗ねたような表情でこの集まりの愚痴を零す目の前の女性は、先程まで身に纏っていた死の気配が消えていた。このような年相応の表情は、彼女を彼女が生まれた時から持つ死の香りから遠ざけるようで安心する。
 代わる代わる訪れる親戚達に、彼女はとても慕われていた。彼女は一族の子供達の中で一番年上で、本家の筋の人間で、一番”大人”に近い子供だった。堅苦しい大人達も、彼女のところに行くのなら、とそれを許していた。夏休みの宿題を教わる子に、おままごとに付き合わせる子に、私のようなただ彼女といたいだけの子まで、分け隔てなく接してくれた。体が弱い彼女が出来るのはおままごとやボードゲームが精々で、外を駆け回ったり肩車やおんぶなどは一切出来なかったが、私達はそれでも彼女のことが大好きだった。
「もしかして、戦車に乗ってきた?」
「はい……! 駅まで、××叔父さまが迎えに来て下さいました」
 彼女は私達の何もかもに目敏く気付いた。怪我をしていればすぐに手当てをしてくれて、さっきまでガレージにいただとか、昼ご飯はカレーだったとか、彼女は私達の何もかもを理解していて、それでいて全てを受け入れてくれたのだ。



夢枕 / 夢の魔女

 私の母は美しい人だった。腰まで伸びた艶やかな髪が自慢の、美しい女性だった。私は母を愛していた。母も、私を愛していた。


 今では朧げな記憶だが、両親は仲睦まじくそんな二人に愛されて育った幼少期は、それなりに幸せな時間だったと思う。
 いつだって両親は優しかったし、生活も安定していて、何も不満なんてなかった。欲しいものはある程度買ってくれたし、きちんとした教育も施して貰えた。今なら、この生活がとんでもなく恵まれていたというのが分かる。
 だが、そんな生活も長くは続かなかった。
 よくある話だ。私が17歳になったある日、父の会社が倒産した。思い悩む父の様子には薄々気付いていたが、私には何も出来なかった。父と母が深刻な顔で話し合っていたのも知っていたけど、気遣って早く寝なさいと言ってくれる母の言葉を否定することが出来なかった。母は賢明に父に付き添っていた。父が酒で荒れはてて、この世界への恨み辛みをうんざりする程聞かされても、文句ひとつ言わず酒の入っていた缶やビンを片付けて、ギャンブルに手を出すことも容認して……挙げればキリがない。母は父のどんな行いも肯定した。
 そうした父の行いがすっかり日常の一部となったある日のこと。今日の父はとてつもなく機嫌が悪かった。やれ今日はパチンコで大損した、やれすれ違ったホームレスが臭かった、駅で改札を強行突破しようとして駅員に捕まった、犬の糞を踏んだ。一つ一つの下らない事柄が積りに積もってこの男に怒りをもたらしているらしかった。誰に語りかけているのか分からないその愚痴は、私も母も無視した。
 母の作る夕食は、以前より少し質素になった。纏う衣類はくたびれたものが増えた。何がトリガーになったのかは分からない。惨めな生活は、私達を正常な生き方から確実に遠ざけた。
「……」
「何だ、その目は? 俺を哀れんでるのか?」
「……違うわ。私達はたまたま、運が悪かっただけなのよ」
 だから……そう続けようとした言葉は、ガタン!という音で遮られた。突然立ち上がったことで椅子が倒れた際の音だ。
 体中から血の気が引いていく感覚がした。目の前には、飲み干したばかりの酒瓶を振りかぶる父と、私を庇うようにして前に立つ母がいた。

 ガシャン!
 今までそれだけは避けていたであろうことが、とうとう起きた。どんな時も穏やかな笑みをたたえていた母から、初めて表情が消えた。その目は何処も見ておらず、いつかの父がアメジストに例えたその煌めきだけが其処に在る。
 父の目は血走り、完全に正気を失っていた。頭を抱え半狂乱な父のことが、ただひたすら不快に感じた。机の上の食器を手で払い除け、血塗れの汚らしい手で家具を叩きまくる。ダイニングテーブルや観葉植物は倒され、ガラス片や土や葉が床を侵食した。
 母の元へ一歩踏み出したその時、足の裏から生温い液体が溢れてくる感覚に寒気がした。ちくちくと刺すような痛みだけが、この光景が現実なのだと教えてくれる。一瞬転びかけたが、なんとか踏みとどまった。
 気を失った母は全身から力が抜けていた。上半身をなんとか掴み上げ、頭を膝の上に乗せた。散らばったガラスの破片で、血が溢れる。気持ち悪い。ごめんなさい。血塗れの手で触れて申し訳ないと、心の中で謝罪をしつつ母に触れる。
 額から血が止まらない。いくらタオルで抑えても血が滲んでキリがない。このままだと母は死んでしまう!ポケットからスマートフォンを取り出そうとした時、上手く力が入らなくて床に落としてしまった。ゴトン、という鈍い音が響く。
「火事ですか? 救急ですか?」
「……きゅう、きゅう、です」
「場所は何処ですか?」
「え、あ……はい……! ◯◯県、△△市……」
 一一九という三文字すらまともに打てなかった。カラカラになった喉から絞り出した声はさぞ聞き取りずらかったことだろう。私が消防の人と電話している時も、父の奇行は止まらなかった。母と私がなんとか保っていた限界ギリギリの体裁すら、哀れなくらい呆気なく、ボロボロに崩れ去った。家具や壁紙も全て傷だらけで、フローリングには引っ掻き傷のようなものが無数にあった。
 食器が割れる音と父の醜い叫び声が、段々遠くなってきた。母は私だけを見つめている。
 私は不謹慎にも、床に無造作に広がる母の髪を、ただ其処に在るだけの瞳を、額から流れるその血を、美しいと思ってしまった。
「かあ、さん」
 額から流れる母のそれと、掌から溢れる私のそれが、滲んで混ざりあった時、言葉に出来ない高揚感が全身を駆け巡ったのだ。
 
 ピンポーン……ーーー
「[LN:苗字]さーん! いらっしゃいますかー? 救急でーす!」
 いつの間にか救急隊員の方が到着していたらしい。強めにノックする音が聞こえる。父と同じ空間に母を置いて行きたくないが仕方ない。慎重に、ゆっくりと床に横たわらせて、比較的綺麗な来客用のスリッパを履いて玄関へ向かった。
 母は脳神経外科に緊急搬送された。同時に、父も。今となっては、病院に辿り着いてからの記憶が殆ど無い。診察代の請求やその後の経過観察など、病院の方に色々と親切にどうすればよいか教えてもらった記憶はあるけど、どちらかと言うと彼らの同情とも侮蔑とも分からない目線ばかりが印象に残っていて。何故私達は、此処まで落ちぶれてしまったんだろう。

 そうして気付いた頃には父は新興宗教にどハマりし、母の精神はグチャグチャにぶっ壊れていた。


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「ねえ、何? その壺」
「主様が下さったんだ」
「ふーん……家のキャパシティだけは考えてよ」
「まあまあ[FN:名前]、いいでしょう? お父さんだってちゃんと考えてるわよ」
 一度だけ、父の信仰する“主様”とやらを拝みに行ったことがある。偉そうな神父?司教?司祭?だかなんだかに連れられて、祭壇を見た。神の姿を模した石像、蝋燭、謎の台座、特段変わったものはない。カルト宗教ってこういうものだよな、というのが正直な感想だ。父は熱心だが、私は神の姿なんてこれっぽっちも覚えてないし、父が突然ペラペラと語り出す神話も右から左に通り抜けていった。信仰は自由だ。でも、私と母は違う生き方を選んで生きている。


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 母が死んだ。私達が壊れる前とはいかずとも未だ美しい黒髪が散らばって、瞳がくり抜かれた母は苦悶の表情で死んでいた。私はそこにいた“母”を抱き締め、涙した。母に最後まで寄り添いたかった。
 そうして終わりは訪れる。
 包帯だらけの私の枕元に、母と、ツルハシを持った少女が立っていた。
 
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